20220408 ひらひらと花はちらちらこちら見る
朝、調子のわるい朝にスマートフォンを触る。充電をしない癖があるので、赤い印がちらちらとみえるけれど気にならない。ツイッターをくるくるとまわしながら、ひとつの記事をひらく。
こどもたちの発達障害は日本の学校教育が原因のひとつとしてあると書いた記事だった。ようやくと思う。学校のルールにそって動けずうまく学べないこどもはたとえば、投薬をすすめられる。支援学級をすすめられる。
わたしがいま小学生だったら、いまの学校生活はむずかしい。ルールありきの生活。病院に通うだろうし、きっと登校できていないだろう。
学童保育の先生として四年ほどつとめたけれど、「遊びにはルールをつくりましょう」がどうしてもなじめなかったし、わたし自身がそれをやれなかった。ルールは大人が決めるのではなくて、こどもたち自身でルールのようなものを決めましょう、ということだったけれど。
それでも、こどもたちの中であってもそう迫られてつくられたルールというのは、こどもたちが、こどもたちにとっても自らを管理してしまうことになりかねない。そこではたのしいひとと、さみしいひとがうまれてしまう。ルール、なんてなくても遊べるのに。
ちゃんと学校生活を送れないことに未練のあったわたしは、小学校教諭教員免許を取った。しかし、学校につとめる勇気がいまだない。とびこんだとして、たぶん、こわれてしまう。
いまは事務の仕事をしながら、それもやすみやすみしながら、なんとか生きている。この生きかたはよくないのは知っている。こうしているべきじゃないのは身体がずっとおしえてくれている。
わたしもときどき病院に通院しながら、ごくかるくではあるけれど、薬をのんで笑えている。いまの学校のこどもたちのたいへんさはわかる(そして、それに順応しているひとたちのすばらしいことよ。いや、順応しないと生きられないから、それをわかってる。みんな、がんばれて、すごい)。
桜が散っている。ひらひらと来る花びらに光がちらちら乗る。こんなわたしにも光があると思う。それはきっと言葉だ。