「じゃないかもしれない」の魔法
今日は昨日の続編です。
誰かの喜びを、自分の喜びにしていく、という結びであったのですが、実は私自身、「誰かの喜びが、自分の喜びになる、という感覚が分からない」とずっと感じていました。
それは、私自身が疲れていたり、エネルギーが少なくて、どうもそう思えなかったとか、「まずは他人よりも自分を満たしたいわ」という気持ちからだったか、色々要因はあったと思います。
いつまで経っても「自分」が一番大事でした。
そんな思いを補強するように、よく巷でシャンパングラスの例が出されます。一番上の自分というグラスが満たされ溢れないと、周りのグラスたちも満たせない、というアレです。
他人を満たすことよりも先に、自分を満たさねば枯渇してしまう、と思っていました。
じゃないかもしれない、と唱えてみて
そんななか、ライフエネルギーコーチングの受診で先日、こんな話をいただきました。
「その思い込みを手放してみたらどう?
例えば、『利他的になりすぎると枯渇してしまう』という考えに『じゃないかもしれない』と唱えてみるだけでいい。」
その話に最初、私はとても反発しました。
私が結構強く思い込んでるものに、こんなものたちがありました。
などなど。いろんな思い込みはあったのですが、これにしたいして「じゃないかもしれない」って思えと?
私は最初、すごく反発しました。
「じゃないかもしれない」と思ったところで、何が変わるのか?具体的に行動しなきゃダメっしょ。効率的にするとか、自分を満たすとか。あとはアファメーション的なのは十分やってますから。と苛立って答えてしまいました。
さらには、私自身0か100かの考え方をしがちなので、「他人の喜びは自分の喜びになならない」じゃなくて「他人の喜びは、自分の喜びになる」って思い込むなんて、そんなん考えれません!無理っす。
そう思い込もうとすることが、自分の本心を誤魔化すようで、苦しいです。
と天邪鬼的に答えてしました。
「でも例えば、こどもといると自分の時間がなくなる、という思いがあるよね。そこで自分の時間がなくならないようにあれこれするのは、うわべをいじってるだけで、根本的なところをいじれてないの。
自分の思い込みが、現実をそのまま映してて、ならば「夢が叶ってておめでとう」だけど、それが望む現実じゃないならば、いじるべきは思い込みよ。
まずは実際にそれに対してこうしなきゃと行動しなくてもいい、真逆のことを思い込もうとしなくてもいい、まずはちょっとだけ、『じゃないかもしれない』と思ってみる。
『100%それが真実なのだ!』と思っていたものに、1mmだけ、穴を開ける感覚で。
でね、ちょっとだけでも穴が開くと、そこからどんどん風が入ってくるから。騙されたと思って、やってみて」
じゃないかもしれない、の穴を開ける。
そう思うだけでもいい。
なるほど…。
最初は納得しないままではありました。
でも0か100かしか考えれない私にとって、「じゃないかもしれない」という言葉は、0と100の間くらいの、グラデーションだと思いました。
今まで受け入れれなかったグラデーション。
ほんとはそう思ってはないけど、でも、まあ「じゃないかもしれないね」程度で自分の心に投げかけるようになりました。
そこから不思議なんですが、徐々に、勝手に状況が変化していきました。
「じゃないかもしれない」という小さな言葉を自分に吹き込んで数日、なぜか心が少し軽い。
世界が、広く見えるようになった感覚で、ものごとを自分の頭の上の方で、冷静に見れるような感覚がありました。
そして、まあ、他人の喜びも、ちょっとは嬉しいな、いや、嬉しいもんだな、という感情を受け入れるようになりました。
言葉の力はすごいですよね。
「じゃないかもしれない」の言葉は、感情で覆われてしまって視界や視点が狭くなっている自分に、一筋だけ光を入れてくれる。
すぐに効果は感じられないかもだし、なかなか認められないから騙し騙しであったとしても、でも、光が入った途端、景色が少しずつひらけてくる。
その感覚、大事にしたいな、と思いました。
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