【小説】マザージャーニー / プロローグ / はじまれ、旅 1
こんにちは、かなこです。
2021年に出した小説を、電子書籍がなくてもこちらで読めるようにしました!
プロローグ
水の中を一歩、また一歩、踏み出すたびに、おたまじゃくしがワッと広がる。水面はところどころでまばたきする。
その奥には、知らない生き物がたくさんいて、彼らが動くたびに、夏のサイダーのように若い泡がぶくぶく立ちのぼっていた。ピンと伸びた稲の苗を、柔らかな泥にぬっと差す。
苗から手をはなし、そうっと持ち上げた自分の短い指先から、水滴がきらめいて落ちた。
双葉、足元には宇宙があるのよとお母さんが言っていた。
「うちゅう?」小さな私が思い出の中でつぶやき、はっと顔を上げる。雲も木々も色も、十二歳の私もすべて、水面に逆さまに映り、揺れてはまた、元に戻った。
遠くでキジバトが鳴く。
桃色の光が山を乗り越えて、ふくらむ。朝が来る。
あの写真の場所は、ここだったのかな。
と、土色のかえるが、でっぷりとした腹ごと、びたんと田んぼに飛び込んだ。
1章 はじまれ、旅 1
「おかあさん、みて! きらきらしてるよ! おそらが、おちてきたよ」
四歳の娘が、窓ぎわで小さな手をひらひらさせる。
夜明け、ごみ出しに出たときは、白い空が、呼吸をぼたぼた落とすように、雪が降っていた。いつの間にか朝日がのぞき、光に照らされた雪原は、大地に落ちた宇宙のようにきらめいていた。
「ほんとだ……」
携帯のアラームが鳴った。
「ほら、急いで!歯磨き!」
娘は私の膝に頭をあずけ、仰向けになった。小さな歯を、しゃこしゃこ磨く。
と、ふと顔をあげた。
息を呑んだ。
鏡の中に母がいた。
いや、それは私自身だ。髪をひとつにしばった、四十目前の私だ。
「お母さん?」娘がまんまるな目で見上げた。
「おーい、保育園、始まっちゃうぞー」遠くから夫が呼ぶ。
「はーい、今行くー!さ、うがいしよう」
娘を抱っこのまま夫にバトンし、農作業場に走って向かった。トラクターや管理機が並ぶ先で、お父さんとケンさんが作業場で米袋を運んでいた。
お父さんはもう70にもなるのに、背筋は伸び、細身だがしっかりしている。
「お父さん、ありがと!」
お父さんは右手を挙げた。
「ケンさん、おはようございます」
赤いつなぎ、頭にタオルを巻いたケンさんは「おう!双葉社長!今日も米出荷するよな?」と、ふうと息を吐いて積み上がったコンテナに手をかけた。ケンさんも、今年で還暦なのに、小麦色の肌がそう思わせるのか、相変わらず若々しい。
「そうですね、すぐ伝票出すので、先に段ボール組み立ててもらえれば」
「はいよ!」
それから駆け足で、別棟の食品加工所に向かった。
「おはようございまーす!今日もよろしくお願いしますー!」わらわらと白衣に着替えようとしているパートさんたちに次々と声をかける。
敷地をぐるっとまわり、事務所に戻ってふうと一息ついた。
「なあ」
「わっ!」
急に後ろからケンさんが呼びかけ、体が跳ねた。
「なんですか!」
「今日父ちゃんと『こいけ』に寿司食いに行くって?」
「えっ、なんで知ってるんですか」
「さっき父ちゃんが言ってたよ。双葉が古希をお祝いしてくれるって」
「そんなこと、いちいち言わなくてもいいのに」
「嬉しそうでさ。でも双葉は奥さんと同じ歳になって立派になったのに、その姿を自分だけが見れて申し訳ないってさ」
「そうなんだ……全然いいのに」
「父ちゃんの中には、ずっと奥さんがいるんだな。俺も今日は嫁と飯食いに行こっかなー」とケンさんは、机の上のお米の出荷伝票を、ぴっと取って去っていった。
私、お母さんが亡くなった歳に追いついてしまった。
そして私はまだ生きている。
こんな私も、母になった。
椅子にもたれ、上を見上げる。
今朝、鏡で見た、母にそっくりの自分の顔を思い出した。
私は昔、死んでしまったお母さんと、旅をしたことがある。
欠けてしまったものを埋めることに、必死だった、私の旅。
今日は少しだけ、そのときのことを、思い出す。
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