わたしを消す
たどたどしいリコーダーの音色
はにかみ笑顔が並ぶ
朝10時に仕事が終わって、嫌だった人事考課の面談で気が滅入り、車の中で泣き、銀行へ行き車高で死角に入っていたコンクリートに車をぶつける。
「なんにも楽しく感じないんだよ。何しててもひとりに感じるんだよ」
また泣く。電話を切ると、息子から来ていたメールに気づく。“今日、音楽発表会だから来てね” 昼締め切りの大学の授業を受けて、やるべきことをやってもだめな自分の限界を知る。
睡眠一時間。
全身ずぶ濡れになった入浴介助、明け方から便まみれの処理、昨日から着替えてもない。
吐きそうになりながら行った。
夜勤にメガネを忘れていって、コンタクトを付けっぱなしだったので目が疲れて舞台が見えなかった。
ただ息子は笑っていて、わたしが来たことが嬉しい。
ここはわたしが幼い頃通っていた小学校の体育館で、家庭の事情で卒業までは居られなかったけど今でも母校と感じている。
何十年かぶりに足を踏み入れたときは懐かしすぎて胸が苦しくなった。
6年生になると、一年生だった頃の面影は残し、皆、姿に大人が見え隠れしていた。
ひとり親だけど、わたしは見てるよ。
あなたがめちゃくちゃな家庭環境の中でもたくましく外の世界で生きているのを観に来ているよ。
母親じゃないわたしを消す。
母親じゃないわたしも許す。
ただのうまく生きられないちっぽけな一人の人間である。
仕事は好きだ。天職かと思うくらい福祉の世界は居心地がいい。ただ、それもひとりの自分で。それだけでは満たされないし生きられない。だから仕事は仕事だ。
たくさん笑うのも一部のわたしで、
何も笑えなくなっている今日のわたしもわたしで、
でも限界を感じるところに答えを補完できない。
人は物事や感情に名前をつけたがる。
辛い、かなしい、愛してる__
「感情の振れ幅が仕事に出ちゃってるから」
心が傷付いたら怒ることもあるし、閉じることもあるし、その相手に平常心で接するのが無理なこともあるよ。でも耐えてきたじゃない。
ジョハリの窓だったかな
心理学で、他人から見える自分、自分から見えない自分、自分しか見えない自分、他人からしか見えない自分、誰にも見えない自分。
わたしの視界はわたしだけ見えていればいいと、虚勢を張ろう。
誰も相手の心の内までは分からないし、人は一人ひとり中身が違う。
大学の演習で、クライエントは一人ひとり違います、と習う。似たようなケースでも、人は全く違います。答えも経過も同じようには行きません。
わたしはわたしを誰にも見えないところに置こう。
そうしてすっかり、しばらく誰も自分を傷つけないように、自分もそれに傷つかないように守りに入ろう。
理解できない人でいい。
ただ周りの人に思いやりと愛だけ忘れずに、できれば人を傷つけずに生きたい。
「大学辞めてみる道も考えてみたら?」
働きすぎて、ひとり親家庭の補助金がおりなくなることを知った。医療費も給食費も、今まで免除されてきたものが来年から消える。
大学に行くにも市のひとり親制度を利用して学費をまかなっている。
仕事も大学も、辞めてもわたしには何も残らない。ひとりのわたしが消えるだけ。
限界であるのは確かだけど、
じゃあそこですべて切ったら、たぶんひとりであることに本当に耐えられなくなってしまうかもしれない。
薬で誤魔化して、感情を抑えて、そして薬を飲み忘れると身体と頭に不調が出て、飲むとただただ浅い夢にうなされる。
少しだけ手が触れる。
それは何かの約束だろうか?
わたしというものの姿を消す。
そして守る。
ひとりの心ある人間として生きられるように。
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