写真を続けていく上で何を撮るのか?
今朝も写真を撮っていて、
写真を始めたころ出会った人が言っていたことを思い出した。
「僕は長く写真を続けているけど、まだ撮ったことのないものを撮ることを信条としている」
あなたは何を撮っていますか?
家族、ポートレート、スティルライフ、山岳写真、スナップ。多種多様の今を切り取っていることと思う。シャッターを切るには力が必要だ。指をボタンの上に乗せ、そこに力をかける。小さな力ではあるが、そこに力をかけないと写真は撮れない。動機が必要なのだ。
たとえ、それがノーファインダーで矢鱈めったら構えずに連写するとしても、そこには意思と意図が存在する。その無意識か意図的かは別にして動機を持ってシャッターを押す、その動機はその人なりの理由があると思う。わたしの場合、感動することがいちばん大事だと思っている。心を動かされること。純粋に光が綺麗だと思ったり、これは撮ったらどう写るんだろうかという興味、そういった心の動きがあれば、カメラに手を触れる。それからはカメラが決める。
わたしが使っている主なカメラはSIGMAのdp1 Merrillというデジタルカメラとローライフレックスというフィルムカメラである。
Merrillは2019年の六甲山国際写真祭に参加したあとに新宿の中古カメラ店にて購入した。このSIGMAのカメラは特殊なFoveonという色センサーが搭載されているため、デジタルカメラに関わらずとても存在感のある色と質感が出せる特別なカメラなのだ。そのカメラの愛好家に勧められて選んだのだが、少々扱いづらい曲者な面も持つ。その扱いづらいカメラ、現在は壊れていてモニターは映らないし、シャッターは押したときに作動しない。寒いと白トビ写真を量産する。だから、わたしの写したい気持ちとカメラの気分によって写真は撮られている。
フィルムカメラはまめにメンテナンスしているのでそういった症状はないが、デジタルカメラと違ってフィルムカメラは現像するまで何が写っているか分からない。撮りたいと思ったらファインダーの上に開くルーペをお辞儀してのぞく。のぞいたときに、カメラがこれはシャッターを押すべきだと言えばシャッターを切る。
カメラと撮影者の共同作業で写真は撮られている。
少しカメラ話で脱線してしまったが、ひとつ前でシャッターボタンを押すには押すだけの動機が必要だと話した。撮りたいと感じるということはその対象を特別だと感じているということ。美しいやと思ったり、好き嫌いや興味がなければならない。たとえそう思わなくても、面白そうだったり、誰かがそう思いそうだと思ったり。逆に全く興味がない被写体を選んだり。
撮影者自身のなかでそれを"新しい、まだ出会ったことのない"ものだと判断しているのだ。
たとえば子どもの写真だとしたら"成長"という要素が=撮影の動機として新しい動機につながる。老人だとしたら"老い"が新しい動機。
ポートレートだとしたら、新しい被写体だったり、いつも撮っている人が違う衣装やメイクだったり。太陽光も季節や時間帯によって同じ光はない。写真を撮ると同じものはないし、同じものは撮れない。そこに気付くかどうかだ。
まだ見たことのないものに対峙している感覚が写真を撮る上で何より大事だと思う。同じものを撮っている感覚は感性を麻痺させるしマンネリズムに陥りがちだ。自分が昨日と違うものを撮っていることを判ること。これが写真を続けていく秘訣のようなものだと思う。
写真は存在の証明道具だ。
そこに自分がいる、被写体がいる、光が当たる場があること。そこに誰かがいることで撮れる。ドローンとかは撮影者が赴かないが、でもそこに機材が飛んでいて、違う場所でも誰かが操作することで撮影が成立している。
何を撮っても不正解はない。
だったら、自分にとって心が動くことを撮ればいい。そこに目を向ければいいと思う。
朝起きて新しい一日が始まる。それだけで価値があるし撮る動機であると信じている。
最後までお読みいただきありがとうございます。© 2024 OHO KANAKO
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