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「すずめの戸締まり」からインスピレーションを受け、最近考えてたことを言語化してみる

こんにちは、かなこです!
最近、話題の「すずめの戸締まり」を観てきました。
私はこの映画を観て、以前から考えていた問いについて再び考えるきっかけになったので、これを機に言語化してみます。


※※※ネタバレ含むのでご注意※※※




早速ですが、私がこの映画を観て一番に印象に残ったことは、
「誰かが犠牲にならないといけない」
ということでした。

要石が抜けてしまって、草太が自分が要石にならないといけない(=「死」を意味する)と気付いたシーン、そして大きな悲しみとともに要石になってしまうシーンは思わず涙が出てしまいました。。。

それと同じように、草太がすずめによって救い出され、今度はダイジンが要石になるということ、
一度自由を手にしてしまったダイジンからしたらどんなに悲しかっただろうか、本当に切なかったです。。(:_;)


これを経て私は、なぜ「悲しい、切ない」と思ったのか、
その感情のきっかけとして、
「大切にされるべき生命」って何だろう。。と考えました。


すずめにとってダイジンは、草太を「イス」にさせ、街を次々とめちゃくちゃにさせる憎らしい存在であったはず。映画を観ている「私」もそういう感情でした。


なのに最後にはダイジンに同情している自分がいました。
たしかに、実はダイジンはすずめに要石の場所を導いている、「良いヤツ」であったと後々わかりますが、それが理由なんでしょうか…。

「ダイジン」がもしずっと石の状態だったら何も「かわいそう」とか思わなかったはずなんだけどなあ・・・。


逆に言うと、草太は一度常世の世界に行ってから「死んでいる」状態にあるにもかかわらず、すずめは草太を助けようとした。もう草太は意思を持っていないはずなのに。。



生命って何なん?
意思を持ってたら?
心臓が動いていたら?呼吸をしていたら??




中絶とか、脳死や植物状態の人をどのように考えるか、
人はいつから「人」とみなされるのか、「生きている」とみなされるのか
そんなところに繋がるのではないかと思います。


これはまた、人による「当たり前の基準」の違いによって浮き彫りになる問題とも関係するんじゃないかと思います。


例えば、奴隷。
現代を生きる私たちからすれば「奴隷は人間としてアウトでしょ」と思うでしょうが、
今から百年以上前、欧米諸国がアフリカを植民地支配していた時代は、白人であるヨーロッパ人からしたら黒人のアフリカ人は「労働力としての道具」みたいな感覚だったんですよね。

だから、「人間じゃないから奴隷として使うのは別に悪いことじゃない、普通だ」という価値観が一般的でした。


個人的には、「同じ人間ならば人種関係なく平等であるべきだ」とは思うのですが、
それって様々な個々人の価値観の中の一つに過ぎないとも言うことができるので、
必ずしもそれを貫くのは難しい部分もあるんじゃないか、と思うのです。。

(現に、インドのカースト制度における一番下の層「不可触民」に対するインド人の扱いも似た部分があり、宗教的にこれが何百年と当たり前であるので、
現代でも、いわゆる「平等」な形に変えるのは難しい部分があるそうです。)

これは人種問題に限らないのですが、想いを持っている人ほど、「こうあるべきだ」という自分の価値観を貫くことに必死になり、他の価値観を無視してしまうことがあると思います。

しかし、それすら、正しいのか正しくないのか、どうなんでしょうか。
どうやったら人々が平和に暮らすことができるのか・・・
(ちなみに私はそういったことを大学で法哲学という観点から学んでいます。)




「正義って何?」
「平等って何??」






少し脱線してしまったので、この映画の感想に戻るのですが、
「誰かが犠牲にならないといけない」というのを考えたときに、これは現代社会の課題に対して、特に大災害(映画では東日本大震災のことが描かれています)を引き起こす恐れとなる「環境問題」に関して特に言いたいのではないかと思いました。

昨今、「SDGs」や「サステナビリティ」、「エシカル」といったワードが一般的になってきましたが、私は正直、「どれだけの人が本気で環境問題を食い止めたい」と思っているんだろう。。という部分が疑問ではあります。(なんか上から目線みたいでごめんなさい)

たしかに環境に配慮したほうが地球にとっても人間にとっても良いということは分かる。
でも、自分の力だけでは成せるインパクトが小さすぎるし、たぶん、忙しい現代人にとって、自分の中での思考の優先順位が低いという人が多いのではないでしょうか。
「そんなこと考えてられないし!!」みたいな。

しかも、その問題が本当は深刻であるにもかかわらず、「問題として今差し迫っている」ということが見えづらいことも要因かと思います。
(映画でも、一般人からしたら「ミミズ」は見えていない。)

そして自分の後の世代の人のことをどれだけ考えているのか、
どれだけ責任を持っているのか、
(そもそも自分が豊かに生きることよりも後の世代の人のことをもっと気遣って生きるのが正解なのか)




「そんなこと言ったって、重すぎるよ!!!」


本当にそうだと思う。
自分だって無理だ。



それでも、この地球を存続させるためには、
後々の世代に責任を持つのであれば、
誰かが犠牲にならないといけない。

そうじゃないともう問題は爆発する。
(すずめが草太を要石として刺すシーンはまさしくトロッコ問題、、、。)

そんな時はもう早いのかなと思いました。


以下は、私の意見。
本当に課題解決をするんだったら、それを解決する「ビジネス」をする人がいないと難しいと思います。または、政治的に人々に対してルールを課すか。

たしかに、「たくさんの人々のちょっとした行動」でも世界は少しは良くなると思う。でも、先ほども述べたように現代人からしたらそういった社会問題は「優先順位が低い」。
だから、本気でそれを「仕事として」取り組む主体者が必要なのではないかと思います。
それが、「ソーシャルビジネス」だったり、「社会起業家」と呼ばれる部類になるのかな。


もっと無限にアイデアが必要だし、無限に本気で取り組む主体者が必要なのではないかと思う。そこから一般人をもっと巻き込めるアイデアがあったら素敵だなあと思う。




そんなことを考えた今日でした。では!


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