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洛中『町名表示板』15枚 集合⁉️ 〜秀吉の「天正の地割」により新設された縦割り通り

👁️‍🗨️下記  ① 御幸町通ごこまちどおり〜⑩ 醒ヶ井通さめがいどおりまでの 全15通り名 の「町名表示板」を集めました🤳


$${\text{硬い話}}$$から始まりますが……秀吉 が行なった1590 (天正18)年 京都 都市大改造政策 の一環の「天正の地割てんしょうのじわり」の話しから入ります。

$${\text{秀吉}}$$は、1586(天正14)年に豊臣の氏を賜り 太政大臣 に就任しました。
  政権を確立すると同時に、戦国時代からの荒廃した京都の復興には「商業の発展」が不可欠との確信から、町割と通りを増やして 街や商業の活性化 及び それに伴う$${\text{間口税}}$$(まぐちぜい)の税収 増目論もくろみました。

$${\text{平安京}}$$からの「条坊制じょうぼうせい」による 正方形街区碁盤ごばんの目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形たんざくがたに割って 長方形街区にして 区画 及び 通り を増やし、町割を大きく変更する「天正てんしょう地割じわり」を、1590 (天正18)年 に敢行しました。

$${\text{これにより、}}$$新設された京の街路は、南北120m、東西60m間隔で 短冊形長方形状に区画されることとなり、現在に至っています。

$${\text{新設された南北の通り}}$$の
東は 寺町通てらまちどおり から
  西は 大宮通おおみやどおり にかけてで、
     北端は 丸太町通まるたまちどおり から
        南端は 五条通ごじょうどおり 付近
となっているものが多く、後に延長されたものも多いとされています。

$${\text{新設された南北の通り名}}$$を ひがし からじゅんに以下のように記載しますが、「 --- 」に続けて記した通り名は、道の途中で一旦中断して 数町(丁)進んだところで 南北の道が再び始まる同一どういつ直線上にあるとおのことになります。

👁️‍🗨️ 赤枠あかわく ⑦″ 「室町新町ノ間むろまちしんまちのあいだ」の命名について、その町内の高齢者にお尋ねしましたがご存知ないとのことでした。

御幸町通(ごこまちどおり)
富小路通(とみのこうじどおり)
堺町通(さかいまちどおり)
間之町通(あいのまちどおり)
車屋町通(くるまやちょうどおり)
--- ⑤″ 不明門通(あけずどおり)
両替町通(りょうがえまちどおり)
--- ⑥″ 諏訪町通(すわんちょうどおり)
衣棚通(ころものたなどおり)
--- ⑦″ 小田原町通(おだわらまちどおり)
別名べつめい表記ひょうき室町新町ノ間(むろまちしんまちのあいだ)
釜座通(かまんざどおり)
--- ⑧″ 若宮通(わかみやどおり)
小川通(おがわどおり)
--- ⑨″ 東中筋通(ひがしなかすじどおり)
= 旧名 : 天使突抜通(てんしつきぬけどおり)
醒ヶ井通(さめがいどおり)

…… $${他、}$$ 合計:12通りで、現在も京都市の市街地を支える重要な通りとなっています。

$${また、}$$ 四条烏丸しじょうからすま を中心とする一帯(下京の中心部)は、天正地割てんしょうのじわり以前から十分に市街地が発達していたため、通りの新設は行なわれなかったので、この地域では平安京以来の正方形の区画が残っています



😎 $${\text{か な い ま へ ん な}}$$ 👻

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