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わかりみとエウレカ―入学生へのメッセージ

新入生のみなさん、入学おめでとうございます。国際日本学部を代表して、みなさんの入学を心より歓迎します。

国際日本学部は2024年度で5年目となり、3月、はじめて卒業生を送り出しました。最初の4年を第1フェーズとするなら、国際日本学部は第2フェーズを迎え、今年度から新たに開講される授業もあります。手話やアイヌ語、ことばとAIの関係や、歴史民俗資料に対してデジタル技術の活用を考えるプログラムなど、みなさんの学年から初めて受けられる授業をそろえています。

みなさんの中学校・高校での6年間は、コロナに大きく影響を受けたと思います。これからの4年間、みなさんには大学での授業だけでなく、留学やサークルなどの課外活動にも、思う存分取り組んでもらいたい。そこでは、新たな人々との出会いがあります。違いに直面してカルチャーショックを受けるかもしれません。しかしそれは同時に、自分という殻を壊すチャンスにもなります。こうした経験を怖がらずにしてもらいたい――、これが「文化交流-多文化共生-コミュニケーション」を目指す国際日本学部の願いです。

大学での授業もまた、みなさんが今まで持っていた常識が揺り動かされる機会になると思います。ただ、「自分という殻を壊す」といわれても、最初は「難しい…」と戸惑うことも多いと思います。大学で教わることは難しくて、多くの知識がないと「分からない」だけ――、これが世間一般の見方かもしれませんが、そもそも「分かる」とはどういうことなのでしょうか?

最近よく聞こえてくる、いやむしろ見る言葉として、「わかりみ」という言葉があります。「この話、わかりみが深い」などと使われ、あえて訳すなら「わかりやすさ」ですが、「悲しい」に接尾辞「み」をつけて「悲しみ」と名詞化したように、いろいろな言葉に「み」をつける現象が、SNSを中心に広がっています(やばみ、たべたみ、バブみ…)。

ここで私は大学教員として、いわゆる若者言葉に対して「言葉遣いが乱れている、嘆かわしい」とディスろうとしているわけではありません。実際この現象は、国立国語研究所のサイトなどでも専門家が分析を行っている、重要な言語変化なのです。

私が個人的に驚いたのは、「淋しみ」など形容詞に「み」をつけるならまだしも、動詞の「分かる」に「み」をつけたことでした。「わかりみ」でなく「わかりやすみ」にでもすればよかったのでは? いや、やはり「わかりやすみ」では伝わらないものがあるのでしょう。「分かる」は動詞(行為)というよりも「わかる!」や「わかる~」という形容詞(感覚)であって、「説得力ある、実感ある」という感覚を名詞化して共感しあうには、「わかりみ」なのだと思い直しました。

大学の話に戻りましょう。大学で学ぶことは、一見「わかりみ」を得にくいもののように思えます。正確に言えば、一瞬にして「わかる!」ことはほとんどありません。それは知らなかったことを知れた、という知識のようなののにとどまらないからでしょう。先生が言っていたこと、本やネットで読んだことを、自分のなかで消化して、自分でも思考の過程をたどって、「腑に落ちる」(今は「腹落ち」?)――、そんなことばかりだからです。

おぼろげに感じていたこと、表面上は知っていたことでも、それを自分の言葉で、実感をもって組み立てられたとき、はじめて「分かる」というのではないでしょうか。「わかりみ」は自然にあるものなのではなく、あなた自身で作り出すものなのです。AIに任せるのには早すぎますし、もったいない!ように思います。

「あなた自身で「わかりみ」をとりに行こう!」 そう言われても難しそう…という声も聞こえてきそうです。そのために大学という場所はあります。大学であなたは一人ではありません。多様な意見やおしゃべりで心を支えてくれる学生たちが、あなたのまわりにいます。先生もまた、教えを伝えるだけでなく、あなたといっしょに考える伴走者としてそばにいます。国際日本学部は、新入生のみなさん約300人を、60人の教員で担当できるという、恵まれた教育環境にあるのです。

みなさんが「わかった(エウレカ)!」という経験をする場面を、一つでも多く実現させる国際日本語学部でありたいと思います。これからの4年間、よろしくお願いします!

国際日本学部 学部長 熊谷謙介


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