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講義note:そんなに割り切れるものじゃない?―サンクコストとの付き合い方―(神奈川大学国際日本学部 教授 中村隆文)

1.気になる「サンクコスト」

従来、「思想」と呼ばれるものにおいては「理性/感情」という区分がなされ、前者に重きをおいた理性主義(合理主義)という立場が一般的であった。そこでは、「理性に目覚めれば真理に到達できる」「理性こそが共存に必要」と唱えられてきた。また、近代の経済学というのも、合理的経済人モデルを前提とした最適な均衡や財の配分による効用増大を実現しようとするもので、やはりそこにはある種の理性主義というものがある。学問を離れた通俗的な場面においても、「もっと理性的になれよ」とか「感情的になって損してどうするんだ」といった台詞・教訓が幅をきかせており、理性的に生きるというのはもはや当たり前に目指すべきものとなっている。

しかし、そう信じ込んでいる我々であっても、ときに、感情や想いの強さから認識や判断が歪んでしまい、理性に反するような選択をとってしまうことがある。その一例として、「サンクコスト(埋没費用)」をあげることができるだろう。
これは、一旦支払ってしまったが、未来志向的に判断する場合、それにこだわるべきではない「回収不可能な(あるいは回収すべきではない)コスト」のことである。たとえば、或る人はこれまで或る事業に3年間取り組みながら3億円費やしているが、アナリストのみならず、誰の目からみても、それを継続すればするほど赤字が膨らむことは自明であるとしよう。この場合、スパッとそこから撤退し、そこに追加投資しようとしていた資本を別の(プラスとなる)事業に投資する方が合理的であるのは明らかであり、この話を聞いたほとんどの人が「まあ、それは損切りして、方向転換でしょ」と思うかもしれない。だが、そのような実践をきちんとできる人はそう多くはない。「だって、ここまで頑張ったんだし」とか、「もしかすると、何かあって儲けられるかもしれないじゃないか」といって、方向転換していれば得られたはずであろう利益Xを捨て、当初の事業に固執してしまったりするのだ(この場合、利益を生み出さない当初の事業に固執するのは、利益Xを得る機会を捨てる形での選択であるので、その機会費用Xをその固執的選択に費やしているともいえる)。

こうした固執的選択は、実はいろんなところで行われているものである。方向転換が必要であるのに、「いや、ここまでやったんだし」といって現状維持路線をつらぬきたがる人はたくさんいるし、企業レベルでそれが行われることすらある。とりわけ、失ったもの(時間や労力、お金などのコスト)がその人・集団にとって大きすぎたり、あるいは、「あらゆるものは無駄にすべきではない」という強い規範的信念にとらわれている場合は特にそうなのである。

2.ギャンブラーの誤謬

日常生活でも、我々は費やしてしまった――すでに沈んでしまった――過去の労力や時間に引っ張られがちである。たとえば、浮気性や借金癖のあるパートナーと10年近く付き合っているが、なかなか分かれようとしない人がいるとする。周囲は「時間をこれ以上無駄にすべきではない」とか「11年目で真人間になるわけないから、いいかげん、別れなさい」と至極まっとうなアドバイスをするのだが、その人にとってそこに費やした労力や時間というものが途方もなく大きいものであるからこそ、「それを無駄にしたくない」という想いが強くなり、「きっと来年からは、この人はきちんとした人になる!」といった、あたかもかなり確率の低いギャンブルを選好するかのような楽観主義的思考に陥ったりもする。

通常、「であるべき」という規範的信念(belief)は理念的で理性的なものと思われがちであるが、この場合の「無駄にすべきではない」という規範的信念は、一種の情念(passion)であり、その情念こそが、うまくゆかないものを「もしかするとうまくゆくかも」というようにその人にみせてしまう。こうして認知が歪んでしまい、選択を誤り、ドツボにハマってゆく。この心理現象は、負けが続いたギャンブラーにもみることができる。

ここに、1/6の確率で3千円もらえるが、5/6で0円となり、参加料はその期待値5百円のさいころギャンブルがあるとしよう。あなたは財布に3千円入れていたので、一回くらいあたるだろうとこのギャンブルをやってみることにした。結果、1回目も2回目も負けてしまった。損失を取り返そうと、その後、5回目までトライするもまだ勝てず、そして、手持ちは5百円と少ししかない。このとき、もしあなたが「そろそろくるはずだ!だって、これまで5回も負けているんだし」と考えるなら、あなたは「ギャンブラーの誤謬」ともいうべき認知の歪みに陥っている。

「これまで5回負けたこと」と、これから何が起こり何が得られるかは、まったく関係がない。大数の法則のもと、何千回・何万回も繰り返せば勝率が1/6近くに収束してゆくとはいえ、各回のどこで勝てるかは運次第であり、毎回それは1/6でしかない(つまり、負ける確率が高いということ)。そうであるにも関わらず、「これまで負けたので(お金を費やしたので)、次は勝てるだろう」と予測するのはサンクコストに引っ張られた楽観主義と同様の認知の歪み(バイアス)を起こしているといえる。

3.情念のもとで何を選ぶか?

我々は本質的に「情念」に動機づけられ、そして我々が「すべき」と思っていることはすべて情念が命じている、と主張したのは、18世紀のイギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームである。つまり、情念こそが人を実際に動かすのであり、理性をもっているからといって情念のそうした動力性というものを甘くみてはいけないのである。

もちろん、情念のすべてが必ずしも危険で役に立たないというわけではない。誰かを好きになって大事にしようという情念や、「ここまで一緒にきたんだから、他に目移りすることなくできる限り大事な人の傍にいよう」という情念は、経済合理性と反するとしてもそれ自体は価値あるものである(美徳として)。また、「これまでの努力を無駄にしてはいけない」とか、「ここまで頑張ったんだからもうひと踏ん張りだ」といった想いは、困難な現状を突破する力ともなりうるものである。こうした情念がすべて人間から失われてしまうならば、人間の努力や協調、信頼などは瓦解し、社会は崩れ去ってしまうであろう。

とはいえ、自身のそうした情念がときに引き起こす認知の歪みや、自身や周囲を不幸にするような選択は回避したほうがよい。個人だけでなく、利益をあげて従業員に給与をきちんと支払う責務を負った企業も、それらのリスクを理解しつつ、より良い未来へとつながるベターな選択をすべきである。ただ、それを分かっていても、ときに個人も集団も意思決定においてそうしたバイアスが介在し、判断を狂わせる。だからこそ、いろいろなサンクコストバイアスが引き越した失敗事例――たとえば、超音速旅客機コンコルドの開発と運用の失敗(いわゆる「コンコルドの誤謬」)など――を学びながら、「もしかすると、今この状況において、私はサンクコストに引っ張られて、より良い未来に向かっていないのではないか?」と問い直してもよいだろう。

自分のことは自分が一番知っているし、自分にとって何が正しいのかも自分が分かっている、という想いは誰もが有しており、だからこそ、「自分は正しい」という確信のもとで多くの人は動いている。しかし、その確信の裏側には、認知を歪めかねない何らかの強い情念が働きながら、自分の選択の意味、そして自身がどこへ向かっているのかを誤認させているかもしれない。ゆえに、「自分のことをそこまで分かっているとは限らないので、よりきちんとした自己理解のために、いろいろ学んでみよう」といった、無知の知(の自覚)を出発点とした学びというものが必要になる。

筆者の専門は英米哲学であり、その観点からも「人間」というものを探究しているが、 2022年3月に刊行された組織マネジメントの社会哲学――ビジネスにおける合理性を問い直す――(ナカニシヤ出版)では、行動経済学や心理学の観点からも、こうした人間の情念や認知の歪み、選択の意味について論じている。関心がある方には是非手に取ってもらいたい。

※内容を簡単にまとめた動画をYouTubeにアップしてありますので、よろしければご視聴ください。


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