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2025年5月のわたしへ

来年の5月、私はどんなふうに日々を過ごしているだろう。

2024年5月の私は、わかりやすく気持ちが落ちていた。

自宅解放だ!読書会だ!と日々言いながらも、正直自分がどうしたいのかわからなくなっていた。

あれ、私はどこを目指してるんだっけ?
なんのために活動しているんだっけ?
というか、こんな日々では活動しているとは言えないではないか…しゅん🥲
じゃあ、何をしたらいいんだっけ?
そもそも何がしたいんだっけ?

こんな風にもやもやしている時は、得てして他人がキラキラと輝いてみえる。嫉妬、焦り、自己嫌悪。

気持ちが不調でもスパッと切り離して、淡々と日々をこなしていく器用さが私にはない。
仕事をしている訳でもないので、不安に飲み込まれて自堕落に過ごすことは簡単だ。
4月末からの首の痛みも相まって、5月はわかりやすく生活が乱れた。
夜更かし、食べ過ぎ、運動不足。ダラダラとスマホのお世話になり、家事は当然後回し。乱れていく部屋、たまっていくチラシや洗濯物。部屋の隅のほこりに目を瞑る日々。
それらを見てますます萎えるやる気。
負のループである。

特段、落ち込むような出来事があった訳ではない。少し気が滅入ることもあったが、楽しいこと、嬉しいこともたくさんあった。
それは日々生活していれば当たり前のこと。
強いて言うなら、新年度の慌ただしさに右往左往していた4月を終え、緊張の糸がプツンと切れてしまったのかもしれない。

5月病とはよくできた言葉である。
きっとこの無気力も時期的なものだろう。
そうして、無理に元気を出そうとせず、とことん自堕落に過ごした。

そうして思い返すと、去年の5月は発熱してわかりやすく寝込んでいた。
その前年の5月も、noteを見返すとどうやら前半は結構落ち込んで過ごしていたようだった。

やはり、5月病とはよくできた言葉である。

そうして日々をなんとかやり過ごし、6月が視野に入ってきた今、不調の波は徐々に引きつつある。

かといって、上に書いたようなモヤモヤとしたあれこれがすっきり片付いた訳ではない。なんだか急に光が見えたように思われても、またすぐに目の前が薄暗く思える時もある。寄せては返す波のごとし。

ただ、このモヤモヤを抱えたまま、一歩一歩進んでいくしかない。
いつまでもダラダラしてる場合じゃないね、と少しずつ(本当に少しずつ)思えるようになってきた。

自宅解放にしろ、読書会にしろ、これでいいのだろうか?という不安や心許なさは、しばらく抱えていくしかない。
この先、今やろうとしていることがどんな形が実を結んでいくか、はたまた花開くことなく萎んでしまうのか、全くわからない。
見えない、わからないものを無理やり見ようとしたり、未来の形を決めたりするなんてナンセンスだ。

今は根を張るとき。安定した土台を作るとき。
地中深く根を張るのは、一見地味で目立たない作業だ。外から見たら変化があるのかどうかもわからない。停滞しているように見えても仕方がない。

結果が見えていないことを続けるのは不安だ。すぐに逃げ出したくなる。
できない自分に直面したくなくて、戦う前に逃げ出したことも数えきれない。

だから、周りで花を咲かせたり、実を結んだりしているように見える人を羨んで、私も!早く!と焦っていたし、挙句、人の花を自分のものにしようとさえしていた。
周りを見て、あれも素敵!これも素敵!とよそ見している場合ではない。

今ある不安も心許なさも全部飲み込んで、とにかく持ち場を離れないこと。
これが本当に私のやりたいことなのか?
そんなのやり切ってみないとわからない。

継続が苦手な私は、続けるというだけでもう無理だ…と思ってしまうけれど、何も同じことを同じようにやり続ける必要もない。


ただとにかく石の上から降りないこと。
あっちの方が日当たりがいいとか、こっちの方が水捌けがいいとか、コロコロ場所を変えないこと。

今の自分にできる形を探していこう。
こんな緩やかな決意を胸に、ここから一年過ごしてみようと思う。

そうした時、2025年の私はどこで、何をしているのだろうか。
たとえ5月病でうだうだしていても、もうやーめた!と途中であれこれ投げ出してないことを祈る。

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