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生まれながらにしてあるのは環境だけで、客観的に事実や体験を追っていけば自然な流れで今の…

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生まれながらにしてあるのは環境だけで、客観的に事実や体験を追っていけば自然な流れで今の自分に繋がっていることがわかる。一つ一つは確率的に誰にでも起こりうるが、その量と順番と組み合わせには偏りがあり、結果的にギフテッドにみえるだけ。

最近の記事

幻の3六角成

2007/10/21 羽生 対 谷川 大和証券杯 先手:羽生善治 後手:谷川浩司 戦型:(右玉対土居矢倉) 序盤は先手が右玉側の端の位を取りながら陣形を整え、後手は5二金から手堅く玉を囲うと思いきや、土居矢倉に引飛車でバランス重視の陣形に組んでいった。お互い玉の硬さより、柔軟さや懐の深さを軸に作戦を実行していった。 中盤は先手側から7五や5五地点の歩の交換をしていき、後手はどちらも丁寧に受けた。その後、桂馬の活用を重視した後手が3三桂馬や7五歩から桂馬を交換し、

    • 言葉の3面

      言葉の意味を制約して その都度数を増やすのが学問 言葉の輪郭を透明にして、 そのレンズ越しに世界を見るのが芸術 言葉の輪郭って、意味って、あるようでない。個人の解釈のままに、無数の情報が包含されている。だからこそ、言語間のニュアンスの差は実体験と根源的なもの以外では埋まりにくいし、同じ母国語を有するもの同士でも意思疎通を図ることは難しい。 だからこそ、世の中を科学し記述するためには制限された意味の中での言語を作り出し、既存の言語の再解釈が必要であり、また、制限する意義が生

      • ダンスをするカテイ

        引退したサークルのダンスバトルのジャッジをした。数ヶ月前に依頼された時はどんな基準で、どんなことを言おうか考えていたのだが、結局自分の感性と第一感に頼って判断した。日に日に精神が死んでいっているので、モチベーション自体は低い状態で望んでいたのも、考えに影響したと思う。 あまり尖ったことを言うべきでは無いが、あえて思ったことは素直に書いてみる。 まず自分のジャッジムーブは酷いものだった。最近、ダンスできてない、というより解放される感情は怒りと虚無のみで、踊っていて非常に辛い。

        • 存在の不確定さ

          もはや何も疑問がない。 入力に対して出力される、 そんな状況をただただ眺めている。 自分の体がまるで自分のものでないようだ、と思いつつも、自分の体が自分のものであると思った試しもなく、 結局、自分のことを他人事かのように思う感覚も短絡的な感想に過ぎないと認知する。 誰のものでもない、自分の人生なんだと言うが、その言葉にどんな背景をもって発言したのかいちいち確認したくなる。 凪の平穏さは、安寧安定、一方では虚無である。 生きるとは、波の合成 死ぬとは、波の収束 生きてい

          理不尽に抗う

          理不尽は悪か。理不尽とはなぜ存在するのか。個人や自分の想像では解決で今日もなさそうな問題が身の回りに存在しているように見えるのか。実際に存在しているとするのであれば、それはなぜなのか。 この考えをいかにファンシーに世の中に広めるか。いや、広まることは目的ではない。これを主題に物語を作ることで深みのあるストーリーができ、読者に本質が見えなくても面白いストーリーがつくられる。

          理不尽に抗う

          桃源郷

          桃源郷と聞いて思いつくのはなんだろう。 自分の理想の世界ってなんだろう。 好きなことだけをしている世界なのか。 食べ物に飽きない世界か。 自分が創造者である世界か。 僕は、人間が生きることのできる桃源郷はまさに今の世の中であると考える。様々な種類の問題が山積し、正解も不正解も悪も正義もなく、個人の適当で根拠の無い主観が入り乱れ、対立、諦め、我儘の溢れた世界。 これが、桃源郷だと思う。 犯罪も戦争も自殺など、法律や倫理的に絶対悪のように取り扱われていることも含めて、ユー