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「対話の場」という言葉

---「対話」問われる透明性

これは今日の北海道新聞朝刊の19面の見出しの言葉

「対話の場」という言葉が新聞で毎日のように出てきます。寿都町と神恵内村で始まろうとしている「対話の場」についての記事です。私はファシリテーション講座では、会話と対話と議論の話をして、対話と議論の両輪がまちづくりに必要ですと話します。

その「対話の場」という言葉の意味や使われ方が濫用されていることに違和感と危うさを感じています。私たちが大切に丁寧に扱っている言葉を、さわりが良いので都合よく使われている感じがしています。これが北海道で起こっていると思うだけでキュッと胸が締め付けられて黙っていられなくなります。

対話とは、
やり方よりも、そこで起こることを指す言葉の意味が強いと思っています。
相手をがいる前提で、これまでとは違う自分に出会ったり、さらなる可能性をさがし続けることが対話的な作業になる。

会話=親しい人同士のおしゃべり。
対話=異なる価値観や背景を持った人との価値観のすりあわせや情報の交換。あるいは知っている人同士でも価値観が異なるときに起こるやりとり。

平田オリザさんはこのように会話と対話を説明しています。

対話の原理
自分の言葉で話をする。
判断を保留して好奇心を持って聴く。
自分の影響に気づく。

これは対話の原理として、AoHで学び練習しているものです。

自分の人生の実感や体験を引きずって語り合う、聞き合うことであり、自分や相手の意見が途中で変わる可能性についてつねに開かれているものであり、正解と間違いのどちらかではなく、些細な違いや違和感を大事に、それを発展させるもの。

だから、それは付箋にはならないし、学校の授業のような先生と生徒にはならない。ある種の事柄について「正しい」という理解を深めることが目的になってはいけない。

これまで言葉にならなかったことが多いのだけれど、言葉で説明していく必要性を強く感じているので、少しづつ言葉を続けていきます。

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