奏の本来の性格は「ぶりっ子」だという話

「奏ちゃんってぶりっ子だよね」

小学校低学年の頃、3つ上の従兄弟に言われた言葉。
ちなみに直接言われたわけではない。そう言っているのが聞こえただけではあるけれど、未だに当時の感情は鮮明に覚えている。


その日は祖父母宅で夕飯を食べた後、親戚一同がリビングで過ごしているなか、私は一人で隣の部屋に居た。

リビングとは襖で仕切られていたので全ての会話が聞き取れたわけではない。ただ、その従兄弟は襖のすぐ近くに居たらしく、その言葉だけがハッキリと聞こえてしまった。

「奏ちゃんってぶりっ子だよね」

どういう文脈だったんだろう。
その言葉が響きすぎて、そこから先の会話は全く記憶にない。というよりおそらく聞こえていなかった。

「そんなつもりはないのに…」
「好き勝手言わないでよ…!」
というほどネガティブな感情はなく、それ以上に自分の性格を表す言葉としてはあまりに想定外のもので衝撃が大きかった。
そして、動揺と同じくらい、納得感があった。

これまでの自分を振り返ったときに、「ぶりっ子」と言われる言動に心当たりがありすぎた。

特撮ヒーローに自分を当てはめるなら必ずピンクを選んでいたし、
マリオのゲームをするならピーチかデイジーだったし、
王道の可愛い♡を何の迷いもなく身につけていたし、
将来の夢はモデルか女優だったし、
おもちゃの化粧品を買ってもらったら口紅を塗りたくって「パパママ見てみて~かわいい?」って頻繁に尋ねていたし、
なんならお化粧しなくても「ねえねえ、これかわいい?」「かなでちゃんかわいい?」とほぼ無意識的に口にしていた気がする。

自己肯定感の高さから、自分は可愛いものだと思い込んでいたのだろう。
とはいえ可愛いものへの熱量が強い、周りに可愛く思われたいという執念は全くなく、本当に何も考えずに生きていた。

そして自分に自信があるからこそ、他人に対しても「自分が話しかけて嫌われないかな」と不安になることもなく、全力の笑顔と挨拶で積極的にコミュニケーションを取っていた。
無邪気、という言葉がしっくりくる。
とにかく素直で無邪気なおてんば娘だった。

こうして思い返すと微笑ましいなあと思うけれど、当時の私は「ぶりっ子」という言葉を真正面から受け止めて色々考えていた。
人生で初めて自分を客観視した瞬間だったと思う。

その日以降、何も考えずに表出していた自分の立ち振る舞いを少しだけ制御するようになった。


小学校高学年以降の女子には「ぶりっ子=疎まれる対象」という風潮がある。
楽しくなるとつい無邪気に可愛こぶることを自覚した私は、学校という社会に浮かないよう、小学生ながらに自分のキャラクターやポジションを意識し始めた。

※ちなみに大学生くらいになると「お、やってんな~」程度に流せる(むしろ見ていて楽しい)ので特に嫌悪感も抱かなくなる

中学や高校に入ってからは、周りも含めて自然と性格は落ち着いていき、いつの間にかそういった振る舞いをすることはほぼなくなった。

そして、今の私になった。


「ぶりっ子」は今で言う「あざとい」とほぼ同義なので、ここからは「あざとい」という言葉を使おうと思う。

子供の頃はあざとかったという話をすると、
「まあ幼少期は皆無邪気でそんな感じだよね」
「大人になって落ち着いたならいいんじゃない?」
と言われるかもしれない。
ただ、個人的には性格が変わったのではなく、「抑えてきた」と言う方が正しい。

では、今の私には幼少期の頃のあざとさが残っているのだろうか?

結論、かなり残っている。

今でも気を抜くとかなりあざとくなる。
むしろ、中高生の頃よりあざとさを抑えるリミッターが外れやすくなっている(理由は後述)。


ところで、「あざと可愛い振る舞い」の具体例を挙げていなかったので、少しだけ羅列してみる。

  • 周りから見て分かりやすくはしゃぐ、喜ぶ。「!」が多いイメージ。

  • 頬を膨らませて目を細める。呆れた時にやる。

  • 普段敬語の相手に少しだけタメ口を挟む。

淡々と説明する状況が恥ずかしくなったのでこれ以上は控えるが、溢れんばかりの「楽しい!」と相手への絶大な信頼感を抱くと、時々上記の言動が見られる。(何を言っているんだろうか)

ポジティブな感情を表に出しすぎてしまうタイプなのだと思う。


とはいえ、大人になった今ではこのあざとさを正当化している節もある。
端的に言うと、確実に相手を傷つけないようにするためだ

例えば、誰かに上機嫌に話しかけた場合、大抵の相手は自分と楽しそうに過ごす人間を見て悪い気はしないため、ある程度ポジティブな感情を抱く。
反対に、不機嫌そうに過ごしたり少しそっけない態度を取ったりすると、少なからず嫌な思いをさせてしまう。

大切なのは、自分の機嫌が「普通」のとき。
自分にとっては「普通」の振る舞いだとしても、もしかすると相手からしてみると冷たい態度に見えるかもしれない。
全く悪気のない言葉選びでも、誰かをほんの少しだけ傷つけてしまうかもしれない。
自分のノーマルが誰かにとってのネガティブになり得る。

あざとい言動は他人への接し方としてはあまりにもポジティブで、少なくとも相手にネガティブな感情を与えることはほぼない。
ノーマル状態でのコミュニケーションで傷つける可能性があるなら、神対応でいる方が安心できる。
(もちろんそういった振る舞いが苦手そうな人がいる場面では、普段通り理性的な自分で接するようにしている)

「学生の頃よりあざとさを抑えるリミッターが外れやすくなっている」
その理由は、大学以降の接客のアルバイトで上記の考え方が確立してきたからだと思う。
あとは、周りの空気を読みすぎず、自分の感情に素直に生きるようになったからかもしれない。


なお別の話として、あざとさは「思わせぶり」に繋がるという事実もある。
個人的に、自分に好意を持つ(可能性がある)異性に対しては絶対に思わせぶりな態度を取らないというポリシーがあるため、そういう場面では意識的にあざとさを制御している。
他にも、「メイドとしての思わせぶりはタブーなのか?むしろ良しとされるのか?」など「思わせぶり」についてメイドを絡めて深堀りしたい気持ちもあるが、長くなりそうなので今回は割愛する。


世間であざといと言われる行動は、本来の自分にとっては信頼できる相手の前でポジティブな感情を表出しているに過ぎない。
昔から真面目キャラだったため引かれてしまうかもしれないという不安もあれば、思わせぶりだと捉えられることはしたくないという道徳心もあり、今でも他人とのコミュニケーションの8割以上の場面では制御している。ただ本質的には幼少期から何も変わっていない。


ここで記した昔話はあくまでも自己開示として。
今後あざといキャラで行くつもりは、今のところはない。
未来の私の考え方によっては、あり得るのかもしれない。

ただ実は私は、幼少期から今までずっと、「ぶりっ子」であり、あざといです。