見出し画像

□「サピエンス全史」を読んで。

コロナをきっかけに人気が再燃した歴史書(哲学書?)。
歴史も文化も政治も経済も、総括的に今の世界へつながる出来事がまとめられています。

----------------------

第一部 認知革命

人間の赤ん坊は他の霊長類、ましてや他の動物と違い、生まれてすぐには立つことも歩くことも出来ず、敵に襲われても這って逃げることさえ出来ない。
それは人間の特徴である大きな脳直立歩行が原因で、四足歩行時よりも狭まった骨盤をより大きな頭が通るには、出来るだけ小さく未熟な段階で生まれる方が母子ともに生存率が高かったからである。
このことが、集団で子育てをする社会的な能力を生み、優れた教育文化、学習能力を育んだ。

人類は数百万年、小動物を狩り、木の実なんかを採集して慎ましやかに暮らしていたのに、ほんの数十万年で食物連鎖の頂点へ上り詰めた。
そのせいで生態系のバランスを崩し、自分たち自身環境の変化にもついていけず、多くの災難を引き起こした。
きっかけの1つは火を扱えるようになったことで、調理をすることで小さな歯と短い腸でも多くの食物を短時間で消化できるようになり、脳はさらに巨大化した。
そして突如言語能力が発達したホモサピエンスという種族は、どんどん数を増やし、間接的にか直接的にか、他の人類を絶滅させた。
膨大な情報の収集・保存・伝達には複雑な言語が不可欠であったが、サピエンス発展の鍵は別にある。
それは神話や理想、思い描く未来など想像上の物語を語ることで、血縁に限らず、大規模な協力体制を築けるようになったこと。
国もお金も人権も、愛も正義も平和も、今日でもあらゆる概念は全て、人類の共通の想像の中に存在している。

第二部 農業革命

狩猟採集民族として世界各地へ広がったサピエンスは、徐々に農耕民族へと変化し、爆発的に人口を増加させた。
数種類の植物の家畜として土地に縛られ、物に執着し始めたサピエンスは、狭く人工的な縄張りの中で自己中心的な心理を持つようになった。
農業革命は、人類の繁栄と進歩への一歩とも、地獄への道の始まり言われている。
各世代が生活を楽にするために、少しずつ改良や工夫を加えていっただけなのに、人口の増加で子供の死亡率は急上昇し、それでも死亡率を出生率が上回り、人口は増え続け、引き返すことができなくなった。
その未来に対する不安が、大規模な政治・社会体制の土台となり、支配者やエリート層が台頭し、農耕民から没収された余剰食糧が、政治や戦争、芸術、哲学の原動力となった。

帝国を支えた有名な神話に、ハンムラビ法典アメリカ合衆国の独立宣言の2つがある。
どちらもこの原理に倣うことで、人々に安全で平和な社会への繁栄を約束しているが、そこに客観的正当性があるわけではない。
想像上の秩序を維持するには懸命な努力が欠かせず、一部の暴力や強制と、多くの信奉者によって共同主観は成立した。
社会が複雑化すると数理的データが不可欠となり、現代のコンピュータ処理や人工知能にもつながる書記体系が発明された。
数千年前までほんの数十人で暮らしていた人類には、大規模な協力ネットワークのための生物学的進化を経てはいなかったが、この2つがそれを可能にした。
同時に想像上のヒエラルキーと差別も生まれた。
そこに何ら根拠がないと気付いたところで、制度による偏見は人間の意識の深層まで根づいていた。

第三部 人類の統一

中世ヨーロッパの貴族は、「富と欲と名誉は危険な誘惑である」というキリスト教を信奉しながら、「恥を抱えて生きるよりは死んだ方がましだ」と騎士道を語った。
フランス革命以降、世界中の人々が平等と個人の自由をどちらも根本的な価値と見なすようになった。
こうした矛盾した思想、認知的不協和は、人間の心の欠陥と捉えられることも多いが、実際には絶えず文化を変化させる原動力となっている。

歴史が統一に向かって進む中で、ついに誕生した普遍的な秩序、貨幣は世界の征服者となった。
現代ではその9割以上がコンピューターサーバー上だけに存在するが、貨幣は普遍的転換性普遍的信頼性の2つの原理に基づいている。
どんな文化間の溝も埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだが、貨幣には邪悪な面がある。
コミュニティや宗教、国家という「値のつけられないもの」への信頼を崩し、世界を無慈悲な市場とする危険がある。
人類の統一を理解するには、金銀の役割を考慮に入れなくてはならないが、それを打ちのめしてきた武力の存在も無視できない。

21世紀の人々のほぼ全員が、現代では忌み嫌われる政治秩序、帝国の子孫であり、帝国は文化的多様性領土の柔軟性という2つの特性のおかげで、次から次へと異国民や異国領を呑み込んで、一つの政治的傘下に統一することができた。
帝国に征服された民族固有の文化はゆっくりと消化され、帝国の建設・維持にはたいてい大量殺戮と迫害が必要とされた。
現代では帝国は破壊と搾取の邪悪な原動力と批判されるが、多くの遺産を残している。
全世界をその居住者全員の利益のために支配するという思い込みによって、多数の小さな文化を融合させた混成文化を生み出し、共通の文化を積極的に広めた。
ヨーロッパ人は近代、優れた西洋文化を広めるという名目で地上の大半を征服し、何十億もの人がその文化に影響を受けている。
全世界に君臨するという帝国主義のビジョンは、今まさに実現しようとしている。
21世紀が進むにつれ、多くの人が人権を擁護して全人類の利益を守ることが政治指針であるべきと考えるようになり、国家はグローバル市場の思惑や、企業やNGOの干渉、世論や国際司法制度の影響を受けやすくなった。
今や特定の国家や民族集団によって統治されることの出来ない、グローバル帝国が生み出されつつあるのだ。

差別や不統一の根元と見なされる宗教も、貨幣や帝国に並び人類統一の三要素に含まれる。
宗教は超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義することができ、想像上の社会秩序とヒエラルキーによる脆弱な構造に、超人間的な正当性を与えた。
普遍的な思想を宣教することで、宗教は広域の統一を可能にした。
かつて多くの人類にとってはアニミズムが最も有力な信念体系だったが、農業革命の結果、対等の地位にあった動植物は資産へ格下げされ、祈祷や生贄を捧げれば、神々が豊作と家畜の多産を約束するという礼拝方式が生まれた。
多神教信者は神々の地位だけでなく、あらゆる生き物の中で人類の地位だけを高めた。
多神教の根本洞察は、世界を支配する至高な神的存在は各人間の些末事には無頓着なので、限られた力を持つ多数の神々と取引して助けを借りるというもの。
多神教信者は本来度量が広く、帝国でさえ被支配民を改宗させることはなかったが、例外があった。
ローマ帝国は一神教キリスト教徒に、彼らの信仰や儀式と共に帝国の信仰も尊重するよう求めたが、あらゆる妥協案を拒否されたため、彼らを迫害した。
それでもなお、多神教のローマ人が殺害したキリスト教徒より、一神教のキリスト教徒同士が殺し合った人数の方が何十倍も多い。

多神教はあちこちで一神教を産み続けたが、それらは局地的な信仰に留まり、一世紀初頭には一神教信者は世界にほとんどいなかった。
イエスの死後、ユダヤ教の小さな宗派であったキリスト教が、全人類に向けた宣教活動を組織したことで、他の一神教も触発され、五世紀にはローマ帝国はキリスト教国家に、十世紀末には帝国はみな単一の絶対神を掲げていた。
現代では、東アジア以外の人々は何かしら一神教を信奉しており、グローバルな政治秩序は一神教を土台にして築かれている。
多神教は一神教だけではなく、善と悪の二元論の宗教も産み出した。
一神教は秩序ある世界を説明できるが悪の存在を説明できず、二元論は悪の存在を説明できるが秩序ある世界を説明できない。
二元論は現在インドと中東にほんの一握りの信者が残っているだけだが、一神教は二元論の信仰や慣行を吸収し、人類はここでも矛盾した存在を同時に信じる才能を発揮した。
現代多くのキリスト教徒は全能の絶対神を信じながら、それと独立した悪魔や多神教に似た聖人たち、アニミズム的な死者の霊をも信じている。
しかし世界の宗教史は、こうした超自然的な存在に対する信仰ばかりではない。

紀元前、アフロユーラシア大陸中に広まり始めた自然法則を信奉する代表的な教義が仏教である。
小国の王子であったゴータマ・シッタールダは、老若男女みなが苦しみから逃れる方法を探すため、身一つで放浪し、苦しみは不運や社会的不正義、神の気紛れによってではなく、本人の心の振る舞いから生じることを悟った。
ブッダは自分の発見を一つの法則に要約し、「苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである」として、生涯その教えを広めた。

過去300年間、有神論の宗教は存在感を薄めてきたが、近代は自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきたことで、強烈な宗教的情熱や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代となった。
これらをイデオロギーと称するのは言葉の綾で、有神論宗教は神の崇拝に焦点を絞り、人間至上主義の宗教は単に人間性を崇拝しているということに過ぎない。
個人の自由はこの上なく神聖であると考える自由主義全人類の平等を求める社会主義、2つはいずれもキリスト教の伝統的信念の遺産である。
3つめは進化論に強い影響を受けて、人類は不変でも永遠のものではなく、超人に進化することもできれば、人間以下の存在に退化することもありうるというナチズムだ。
ナチスの野望は人類に進化を促すことで、アーリア人種を最も進んだ形態とし、他の人種や同性愛者、精神障害者のような退化したホモサピエンスを隔離し、皆殺しにさえした。
ナチス的な考え方ははるか昔から存在していたが、1945年以降の遺伝子研究によって、アーリア人とユダヤ人やその他の人種とは遺伝的にほとんど違いがないことが立証された。
しかし人々を変えたのは、あまりにも人種差別的なヒトラーのイデオロギーへの反動が大きかった。
戦争終結から60年間、人間至上主義と進化論を結びつけることはタブーとされていたが、生命科学の発展の末、人体を研究する科学者たちが体内に魂を発見することはなかった。
これは、キリスト教徒の信ずる自由主義や社会主義の信条を、根本から覆すことにもつながりかねない。
科学者たちは次第に、人間の行動は他の動物と同じように、自由意志ではなくホルモンや遺伝子、シナプスで決まると主張するようになった。

ホモサピエンスの拡大と統一は、全体像から見れば必然の結果と言えるが、必ずしも今のような世界になる必要はなかった。
多くの知識を持つ人は結果からその因果関係を決めつけたりはせず、選ばれなかった様々な可能性を認識しているので、後から見ると必然に思えたとしても、その時代を生きている人々に未来は常に予測不可能であると考えている。
コンスタンティヌスが皇帝となった時、キリスト教は東方の一宗派に過ぎなかったが、地理や生物学、経済力の制約を超えて、巨大帝国の国教となったように、意外な展開はいくらでも起こり得る。
それでも歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を広げ、現在の状況が必然的なものではなく、私たちの前には想像よりもずっと多くの可能性があることを理解するためだ。
歴史の選択は人類の利益のためになされるわけではなく、文化を一種の精神的感染症あるいは寄生体と見る学者も増えており、この考え方はミーム学と呼ばれる。
文化的な概念は心の中に生きていて、増殖して広がり、時には宿主を弱らせ殺すこともある。
例えば国民主義は人間に有益なものとして出現したが、戦争や迫害、憎悪、組織的大量虐殺を引き起こした致命的疫病だったとも言える。
進化と同じく、歴史は生き物の個々の幸福には無頓着なのだから、人間のような無知で弱い者が、歴史に影響を与えて未来を操作することなど出来るはずがない。

第四部 科学革命

10世紀の人間が突然の眠りに落ち、500年後に目覚めても、世界は馴染み深いものに見えるかもしれないが、15世紀の人間が同じ状況に陥ったらそうはならない。
15世期、世界には7億人のホモサピエンスがいて、日に13兆カロリー消費し、当時の財とサービスの総価値は現代にして2500億ドル程度と言われる。
現在私たちは70億人に達し、毎日1500兆カロリー消費して、1年に60兆ドルに近い価値を生み出す。
建物が泥や木、藁でできており、暗闇の中で蝋燭や松明が揺らめく世界では、空は鳥や天使や神々の領域で、地上の生物の99.99%を占める微生物について何も知らず、原子の分裂なんて考えもしなかった。
人類は認知革命以降、森羅万象の理解に努めてきたが、近代科学は我々が無知であると公に認めることから始まった。
新しい知識を0から得るために、かつてなくダイナミックに、柔軟に、探究的に、経験や観察の結果を収集し、統計学を用いてそれをまとめる私たちの能力は向上した。
だが、科学が進歩するには政治と経済の協力が不可欠だった。
17世紀初期、フランシス・ベーコンは「知は力なり」と主張し、全く別の領域にいた科学とテクノロジーを結びつけたが、現代では両者の区別すら難しくなったこの絆は革命的な発想だった。
1800年頃でさえ、支配者や経営者が近代科学の研究に資金を出すことは少なく、新しいテクノロジーは職人が試行錯誤を繰り返し生まれていた。
当時と今で最も顕著な違いが兵器開発に関してで、第一次世界大戦が泥沼化した時、科学者たちは驚異の新兵器を絶え間なく送り出し、第二次世界大戦では1945年8月、アメリカ軍より2発の原子爆弾を落として日本を無条件降伏させ、戦争を終わらせた。
科学と産業と軍事テクノロジーが結びついたのは、資本主義と産業革命が到来してからで、神にさえどうにもできないと考えられていた飢饉や疫病、貧困、戦争の解決策を見出し、人類は近い将来科学の進歩によりどんな問題も克服できると確信しだした。
科学研究が驚異的な成果を上げてきたのは、何人かの天才のおかげではなく、莫大な資金が注ぎ込まれたからである。
ほとんどの科学研究は、政治的、経済的、宗教的目標の達成に役立てるために資金提供されるので、宗教やイデオロギーと提携した場合にのみ栄えることができる。

ヨーロッパが人類発展の中心地域になったのは15世紀末のことで、18世紀までには南北アメリカと諸大洋の征服者となったが、その頃でもまだ中国とインドが世界経済の8割を担っていた。
しかし20世紀にはヨーロッパとアメリカが世界経済や領土の半分以上を占め、現代の政治や医学、戦争、経済、服装、音楽、嗜好、金融モデルまで、ヨーロッパの文化に基づいて構築されている。
ヨーロッパは近代前期に科学と資本主義を育んできたために、テクノロジーの飛躍に伴い、誰よりもうまくそれを活用し、世界を支配することができた。
近代以前の地図では知らない地域を省略したり、空想の怪物で満たしたりしていたが、15〜16世紀にかけてヨーロッパ人は科学的なものの見方と植民地支配の意欲を体現した空白の多い世界地図を描き始め、近代の「探検と征服」の精神構造につながった。
全てはコロンブスが1942年に、神さえも知らない、聖書に載らない世界の半分を発見したことが転機となったが、彼自身は死ぬまで己の無知と新大陸の発見には気付かず、その名は「アメリカ大陸」のどこにも残されていない。
ヨーロッパ人は過去の伝統より目の前の観察結果を重視することを学び、アメリカを征服するために猛烈な勢いで大量のデータ集め、世界中へ遠征した結果、グローバルな交易ネットワークが形成された。
ヨーロッパ人がアメリカ大陸に続き次々と世界を征服していくとき、学者たちもそれに同行し、あらゆる研究を行い、その地の文化や気候、植物、忘れ去られた古代文明の歴史の解読にまで奔走した。
これら知識には実用的な利点もあったが、新しい知識を獲得することは良いことだというイデオロギーにより、征服を正当化できたばかりか、帝国主義者はこれを自国のための搾取ではなく、非ヨーロッパ人種のための利他的事業だと主張した。
ヨーロッパの諸帝国は科学との密接な協力によりあまりにも大きな権力を行使し世界を変えてしまったので、これを単純に善や悪に分類することはできないのかもしれない。

帝国を建設するにも科学を推進するにも資金は欠かせないものだが、歴史の大半を通して経済規模は変わらず、ビジネスはゼロサムゲームのように見えた。
そこに科学革命が起こり、人々は未知なる希望を抱き、想像上の財「信用(クレジット)」に基づく経済活動を築くようになった。
1776年、アダム・スミスの唱えた「個人の利益が増すことが、社会全体の富の増加と繁栄になる」という信念は、社会に革命的な変化をもたらす資本主義を生んだ。
ただしこれは「利益を貯め込まず再投資して循環させる」という資本主義の掟を前提としたもので、これが「富」と「資本」を区別している。
資本主義は経済理論の一つとして始まったが、経済成長は正義や自由や幸福まで司る至高の善であるとされ、今や一つの倫理体系となった。
この新しい宗教は科学の資金提供に影響を与えたが、経済成長が永遠に続くという資本主義の考え方自体、新しいテクノロジーの発見や発明によって成り立っている。
帝国と資本主義の関係については、ここでもまたコロンブスのアメリカ大陸発見が転換点となり、発見が植民地につながり、植民地が利益を生み、利益が信頼と更なる信用供与を実現させた。
しかし探検は不確実で、巨額の資金を無駄にすることも多く、そのリスク分散のために有限責任株式会社が生まれた。
高度な金融制度を利用して、オランダ人はスペインからの独立戦争に勝利し、グローバルな海上帝国を築いた。
オランダ東インド会社はインドネシアを植民地化し、イギリス東インド会社はインドを植民地化し、アヘン戦争ではイギリス東インド会社に唆された大英帝国が中国に大勝して香港を麻薬取引基地とした。
政府が資本主義の手先となり、投資家の利益のために戦争が行われただけではなく、戦争自体が商品になり得た。
熱心な資本主義者の多くは自由市場主義を支持したが、政府が市場を適切に制御しないと大恐慌やリーマンショックのような金融危機に見舞われ、強欲な雇用主たちが労働者の自由を奪い、奴隷貿易が盛んとなり、経済の成長に伴う犯罪や不正行為は後を絶たなくなった。
1945年以降、共産主義への恐怖により資本主義者の強欲ぶりには多少歯止めがかかったが、経済のパイが大きり続け、地球の原材料とエネルギーを使い果たす時、何が起こるのか。

産業革命以前、人類は一つのエネルギーを別種のエネルギーに変換する術を知らず、エネルギー変換を行う機械は人間の肉体だけだった。
18世紀、イギリスの炭鉱で生まれた熱を運動に変換する蒸気機関の発想は世界を決定的に変え、石油を用いた内燃機関の発明は輸送機関に革命をもたらし、その後今日ではなくてはならない電気エネルギーが発明された。
科学者たちは数十年ごとに新しいエネルギーを発見し、以前は手に入れ難かった原材料の入手を可能にし、プラスチックやシリコン、アルミニウムといった新しい原材料を発見をして、人類の生産性を爆発的に向上させた。
倹約をモットーとして生きてきた人々は、消費を好ましいこととして消費主義を植え付けられ、必要のないものを無数に買い、肥満という致命的な健康問題を抱えることになった。
農業革命以降自然サイクルに合わせて生きてきた人々は、大量生産・大量消費の製造ラインを成立するために時間表を用いるようになり、日常生活精神構造すら変えてしまい、そのために公共交通機関が発達した。
1830年、イギリスで史上初の鉄道サービスが開始され、この時グリニッジ天文台の時刻を基準としたことで、後に国際標準時刻が制定された。
ラジオが登場すると、時間の伝道者として時報やニュースの慣しを作り、やがて身の回りには時計が溢れかえり、今や時刻を知らずにいることの方が難しい。
産業革命のもたらした数々の変化の中で、最も重大なものは家族と地域コミュニティの崩壊、それに代わる国家と市場の台頭だ。
かつては子供の預かりや教育、親の介護、資金の用立て、婚約者選び、揉め事の仲介まであらゆることは親族一同で執り行われ、家族の手に負えないことは地域コミュニティの助け合いで成り立っていたが、こうした生活は内部に緊張関係や暴力が満ちても逃げ道がなく、理想とは程遠いものだった。
産業革命により大きな力と通信や交通の手段を与えられた市場と国家は、「個人」の解放を訴えて、外部の介入を阻む伝統的な長老たちに対抗したが、今では人間味に欠ける国家や市場が個人を搾取、迫害することに脅威を覚える人も多い。
とは言え家族やコミュニティが完全に消失したわけではなく、感情面でのフォローとして、人々の恋愛や子育てに関与し、国民や消費者グループという想像上のコミュニティを育成してきた。

近代革命と言えば、1789年のフランス革命、1848年革命、1917年のロシア革命を思い浮かべる人が多いが、最近は毎年のように革命的な出来事が続き、社会秩序とは流動的な存在となった。
私たちは集団全体の苦しみよりも個人の苦しみに共感しやすいため、過去二世紀を破壊的な戦争と大虐殺と革命の繰返しとして語るが、世界のほとんどの人々は、近隣部族の襲来に怯えることなく眠りに就き、金品を奪われることなく通勤し、生徒が教師から鞭打たれることはなく、子供が親に奴隷として売られる心配はなく、この暴力の減少は国家のおかげだ。
1945年に世界の1/4を支配していた大英帝国は、そのほとんどを平和的に撤退し、あとには多くの秩序ある独立国家が残された。
1989年のソ連崩壊はさらに平和的に進行し、ミハイル・ゴルバチョフは人類を何度も絶滅させられるだけの軍事力を有しながらも、共産主義の破綻を悟ると武力放棄し、退散した。
征服を目的とした軍事遠征は何千年も前から日常茶飯事だったが、1945年以降、戦争は当たり前の出来事ではなくなった。
国際政治の鉄則によれば、「隣り合う二政体には一年以内に戦火を交えることになってもおかしくない筋書きが存在する」とのことだが、今日この弱肉強食の掟に当てはまるのは世界のごく一部に過ぎず、真の世界平和が実現したと言える。
学者たちはこの要因として、核爆弾により戦争の代償が大きくなったこと、戦争より平和が利益を生む資本主義経済が発展したこと、社会経済組織の国際化により戦争では現代の富の大部分を奪えなくなったこと、平和を愛するエリート層が世界を治めていること、の4つを挙げた。
ここには世界全体で正のフィードバック・ループが形成され、大半の国々が単独で全面戦争を開始するのが不可能なほど、グローバルな帝国が形成されつつある。

科学革命までは能力の向上と幸福度に明確な相関関係はなかったが、近代医療の勝利や暴力の激減、国家間戦争の消滅、大規模飢饉の一掃が私たちの幸せに貢献したことを疑う余地はない。
これはほんの数十年の楽観的な評価で、過剰な消費で生態学的均衡を乱し続けることで深刻な結果を招く恐れは多く、そもそも人類の幸せだけを考慮すること自体間違っている。
心理学者は幸福度を測るにあたり、物質的要因だけでなく精神的要因も大きいと考え、主観的厚生を測る質問表を用いて、富や政治的自由、離婚率との相関関係を検証した結果、幸福は客観的条件にはそれほど左右されず、主観的な期待に基づくと結論づけた。
これを正とすると、社会の二本柱であるマスメディアと広告産業は、世界中の期待を膨らませ、満足を枯渇させているのかもしれない。
生物学者が同じ質問表を用いて、生化学や遺伝的要因と比較した結果は衝撃的で、私たちの精神的・感情的世界はホルモンや脳内の電気信号によるもので、陽気な生化学システムの人は何があってもある程度幸せで、陰鬱な生化学システムを生まれ持つ人は何があっても気分が沈んだままだと言う。
この、幸せと快感を等しくする定義に異議を唱える学者たちは、文化や時代を問わず、人々は同じような喜びや苦しみを味わってきたが、幸福とはその人生全体を有意義で価値があると見なせるかどうかにかかっていると言う人もいる。
これらは幸福が主観的感情であるという前提をもとに判断しているが、宗教や哲学の多くは幸福への鍵は真の自分を知ることだと考え、中でも仏教の「感情が束の間のものであることを理解し、渇愛することをやめたときに苦しみから解放される」という考え方や瞑想の実践には科学界で関心が高まっている。
学者たちが幸福の歴史を研究し始めたのはほんの数年前のことなので、私たちはまだ結論を出す段階にない。

サピエンスはこれまで、どれだけ努力しようと生物学的限界は超えられないと考えられてきたが、科学革命はこの自然選択の法則を打ち破り始め、知的設計の法則が実現しつつある。
倫理、政治、イデオロギー上の問題で、現在遺伝子工学の可能性はほんの一部しか利用されていないが、寒さに強いジャガイモや病気になりにくい乳牛、健康的な豚、一夫一婦制のネズミを生み出したこの力をサピエンスに適用出来ないはずもなく、人間の寿命を引き延ばしたり、認知能力や情緒能力を向上させるなど、手を加えたホモサピエンスがもはや別の生命体となる可能性はある。
サイボーグ工学の分野では眼鏡やペースメーカー、コンピューターや携帯電話で補強された私たちの感覚機能が、さらに自分の身体と一体不可分の非有機的な器官を備え、光を視覚に変換する網膜プロテーゼや思考で動くバイオニックアーム、脳とコンピューターを直接結ぶ双方向型インターフェイスの開発により、サイボーグはこれまでの生物とは全く異なる存在になるのかもしれない。
2005年に始まったヒューマンブレインプロジェクトやコンピューターウィルスなどに代表される遺伝的プログラミングにおいても、非有機的生命工学として生物に近い存在が誕生しつつある。

現代社会は、全てのホモサピエンスに平等を認めることを誇りにしているが、これらの可能性が実現した時、「新たな医学」の力を借りて人類を超えた存在が未来の世界の支配者になるのだろうか。
物理学者はビックバンを特異点(シンギュラリティ)としているが、私たちは新たな特異点に近づいているのかもしれない。
アポロ11号が月に到達した時、誰もが世紀末には火星で暮らす未来を予想したが、インターネット時代の到来を予見した人はいなかった。
未来は未知だが、古代文明から脈々と引き継がれる人類の不死への追求、ギルガメシュ・プロジェクトは科学の大黒柱であり、その実現可能性が刻々と増す中で、私たちは今「未来に何を望むのか?」という真の疑問に直面している。

----------------------

この本を読み終えて、最初に思い浮かんだのがゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という絵です。
「認知的不協和」という人間の才能、心の葛藤、そんな欠陥が時に堪らなく愛おしく、人類はおもしろい。
600ページを読んでまとめるのに7日間程度かかりましたが、実は本書のあとがきに10ページほどで概要がまとめられていていますので、あくまでこちらは備忘録として。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?