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□「眼の隠喩」を読んで。

・はじめに。

人は五感を持つというが、実際のところ情報収集の多くを視覚に頼りすぎている。
反応時間という意味で言えば視覚より聴覚、嗅覚が劣るということは決してない。
けれど、情報を基に思考することに関して言えば、視覚に勝るものはない。
顔認識が一般化され、8Kカメラが実用化される現代でさえ、人間の視覚を介した思考能力を網羅するまでには至らない。
それは非常に曖昧な″感覚的″な分野も含むが、その感覚は無意識下でも何らかの根拠に基づいている。
例えば服装をコーディネートするとき、料理を盛り付けるとき、映画や絵画を鑑賞するとき、街中を散歩するとき、人は様々な情報を元に物事の良し悪しや好き嫌いを判断する。
視覚を介して人間が、何をどのように捉えているのか。
「眼の隠喩」とは、それらを複数の″視点″から語った本である。

・″視線″とよぶもの。

″視覚″とは単なる人間の身体的能力の一部に過ぎない。
本の中で作者は視覚を超えた心的な働き、個人の認識を生み出す働きとして、″視線″とよぶ概念を提唱している。
視覚、視野はただ網膜に映る全ての視界を表する面的な言語であるのに対し、視線にはベクトルがある。
つまりそこに主眼があり、意思があるということ。
人間が思考するにあたり、主観のない意見は存在し得ない。
同様に、視覚により得られる情報には常にその人の意思が投影されていると言える。
つまり、視線を読み解くことは結果として、我々が世界をどのように認識しているのかを読み解くことに繋がる。

・見る者と見られる者。

作者は主に、都市や文化の歴史の中での視線の変化の過程について語っている。
視線はベクトルを持つが故、常に二元論的に捉えることができる。
そこには必ず「見る者と見られる者」が存在する。
ここで興味深いのは作者の語る
「見る者と見られる者の関係は決して対等ではない」
という言葉。
一見一筋の視線で両者を繋げているように錯覚するが、見る者と見られる者それぞれに意思があるのであれば、それは双方向のコミュニケーションとなる。
そこには両者が互いに全く異なるものを見ている可能性がある。
見るという行為は知りたいという行為であると言えるが、そこから何を得たかは互いに知り得ないのだ。

・第三者的視点。

視線には常に個人の意思が投影されているが、「客観的視点」と呼ばれるものも多く存在する。
これは主眼のない視点という意味ではなく、一般的な見る者と見られる者とは別の視点ということ。
見られる側から見る側へ移行することで、人は見られていることを改めて意識する。
それが「人形の家」には存在する。
重要なのは昔の人形の家は家主の家そのものを模しており、その家にいる人形が自分自身を模しているということ。
つまり見る側も見られる側も自分自身ということになる。
家の中の人形を見つめることは、家の中の自分を見つめることにも繋がり、まるで合わせ鏡のような存在になっている。
このことにより人は、これまで無意識下にあった自分たちの視覚を意識するようになる。
この意識は作り物の劇場空間の見せ方にも繋がり、ここから人工的な視線、つまり「遠近法」や「透視図法」が生まれることになる。
こうして人は視線をコントロールする術を学んできた。

・意思のない視線。

写真の発明と共に、見る者と見られる者の関係は大きく変化したように感じられた。
しかし実際にはどこまで行こうとも視線は誰かの意思を投影したものであり、写真の発明によって人は視線についてより理解を深めることとなった。
つまり、自分の視線だけでなく、誰かの視線を見ることができたのだ。
それまでにも絵画や彫刻の中で誰かの視点を体感することはできたが、そこに映るのは主眼を持つ人間が意図的に描いたもの以外になかった。
しかし写真には無意識下の存在も全てが写し取られる。
他人の視覚で自分の視線を得ることができるのだ。
また写真によって、これまでの遠近法、一点の消失点という考え方から解放され、全体像を捉えるためのより広い視覚を体感することができる。
これはまさに空間を考えるにあたり、都市や世界という大きな視野で物事を捉え、考えることに繋がる。

・おわりに。

私たちが普段目にしている世界。
その一つ一つの物事への認識の裏には、何かしらの根拠が存在する。
例えば色に対する解釈、大空間への憧れ、暗く狭い場所への恐れ、そこには知らず知らずの内に隠喩的読み解きが存在している。
その原因を探ることは、視覚に訴える感情を呼び起こすことに繋がる。
「感覚的」な評価の裏に何があるのか、人間の認識や思考回路に対する理解を深めることで、それを発展させることが可能となる。

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