トゥレットの娘から話す母の話

こんにちは。

トゥレット症候群をもつアラサーです。

私のフォロワーさんには、トゥレットの当事者だけではなく、トゥレットのお子さんをもつ親御さんが多くいるので、

幼少期からトゥレット症候群と生きてきた私とそれに寄り添ってくれた母のことを中心に書こうと思いました。少しでも心が救われたり、参考になれば幸いです。


私がトゥレットを発症したのはおそらく3.4歳でした。最初は瞬きや首傾げなどからでした。それが年齢を重ねるごとにあー、やキィーーなどの奇声、それから汚言と複雑化していきました。
しかし、発症したらしい年齢からトゥレットと病院で判明するまで8年かかりました。なぜなら母は症状を癖またはふざけてると思っていたからです。病気なのではという考えがなかったのです。

当時まだ世の中でトゥレット症候群なんてものの認知がほぼなく、私自身もなぜこんな声や言葉を言ってしまうのかわからないし、当時母は周りにうるさい子だ、親の躾が悪いからだ、と言われていたのだと思います。
だから母は私のこの症状(とは認識していなかったが)に非常に厳しく当たりました。
出先で声が出たらトイレに連れてかれてボコ殴りにされたり、
車の中で「今から声出したら引っ叩くからね」と言われ結果我慢できずに声が出るたびに何度も殴られたり、
「あんたは悪い子だからご飯ないよ、それが嫌なら声出すのやめなさい」と昼ごはんが用意されてなかったり、
「声出せないように声帯取る手術するよ!」と言われたり。
昨今問題視されている虐待、ネグレクトに匹敵することをされていました。この時代だから黙認されてたようなものです。

では何故そんな母が私を病院に連れていき、病名を知ることになったのでしょうか。
それは、小6の時でした。
私が泣きながら母に
「これはふざけてやってるんじゃないんだ、我慢しても出てしまう、私おかしいから病院に行きたい」
と懇願したからです。

そして病院に行き、トゥレットの疑いがあるとなり、
そんな病気完全無知の私と母は病気の説明をされ、大病院で検査をしてトゥレット症候群と確定したのです。

私が病気だ、と分かった母はすぐ行動に移しました。
まず学校の担任に病気の説明をし、クラス全員にトゥレット症候群の説明をしてもらうよう求めました。これは私の希望でもありました。クラスの子に理解してほしかったのです。
クラスの子に説明をする時は、私は退席するという形をとりました。
そのお陰で無事理解を得られ、ストレスのない一年を過ごせました。
そして、中学校に上がりました。そこは隣の小学校の生徒が半分、元々いた小学校の生徒が半分という構成で、私の病気を知らない子が沢山いる状況でした。
そこでも母は学校側と何度も話し合いをし、今度は学年全員に説明をしてほしいとお願いをします。それからテストは別室で行わせて欲しいと。
これも私の希望です。
理解のある学校の先生に恵まれ、それらの希望は滞りなく通りました。説明の際はやはり私は退席するという形をとりました。
中学校生活の最初はやはりからかってくる男子が一部いましたが、小学生のときに児童会会長をやっていたり、元々活発で目立つことが好きだった私は、同じ小学校の子の票メインに学級委員やイベントの実行委員などに推薦されたり、立候補もしていたのもあってかからかってくる子はすぐいなくなりました。
母の行動のお陰で中学校も快適に過ごせました。

母は病気と分かってから一切症状に怒らなくなりました。私が症状を恥ずかしがるのを気にして、ご飯を食べに行く時は個室の店を選んでくれたり、声が気にならないカラオケに連れてってくれたりしました。

そして高校受験も学校側に別室での受験をお願いし、それが無事通り結果は合格。
高校でも中学と同じように最初に学年全員に説明をお願いしました。
しかし、ここまで順調だった学校生活が、高校でドン底に落ちます。初めてのイジメを受けることになります。
中学校は半分は私のことを知っている生徒がいましたが、高校には数人しかいませんでした。そしてその数人の中で一番関わりの少ない子と一緒のクラスになったのです。
私を擁護する程の仲ではなかったその子は、すぐにイジメの主犯界隈に回りました。味方がいなくなりました。

地獄のような学校生活。家では次の日学校に行きたくなすぎて過呼吸を何度もおこし、その度に母に深夜外来に連れてってもらいました。
母は苦しむ私をどんな気持ちで見ていたのか。今なら痛いほど分かります。でも当時はわからなかったのです。
この頃から母に憎悪の感情を抱き始めました。

なんで早く病気に気付いてくれなかったのか。
早く治療すれば治ったかもしれないのに、気づかなかったお前のせいだ。
殴られた事を恨んでるからな。
こんな体に生みやがって。
生まれてこなければよかった。

憎悪の感情は思春期によくある反抗期と重なって、言葉のナイフとして母にザクザクと刺し続けました。それは高校3年間続きました。
当の母はというと、いつも強気で迫ってきて、あのときはごめんねなどとは絶対に言いませんでした。それが私の憎悪をさらに逆なでさせました。


でもその時の私は知らなかったのです。

母が掛かり付けの先生のところへ何度も一人で出向いて、自身を責めたて、私の明るい未来を奪ったと悔やんで泣いて、先生に慰められていた事。
私が学校に行っているうちに群馬から東京まで出向いて、大学病院で泣きながらなんとかうちの子を治してくださいと訴えたこと。
反抗期の言葉のナイフに強気でかかってきたのは、私の前では弱いところを見せまいという信念からの対応だったのだと。

これは数年前実家に帰ったときに初めて聞かされました。その後私は泣きました。


高校卒業後は専門学校に行きましたが、サボってばかりいました。当時のバイトがとても楽しくて、学校よりバイトを優先していました。
そのため単位が足らず、課金をして卒業後特別授業を受けるハメになりました。
でも、母はバイトに明け暮れる私を怒ることなく、特別授業代も払ってくれて、無事卒業できました。思えばバイト中心の生活を怒らなかったのも、バイトを楽しくやれていることを尊重してくれていたのだと思います。

卒業後、市外に引っ越して一人暮らしをしながら仕事をしましたが、症状のせいで上司からイジメにあい、辞めてしまいました。
その後暫くキャバクラで働きました。意外なことにキャバクラの仕事はとても楽しくて、母に「仕事楽しいよ!」と伝えると
「あんたが楽しいならいいんだよ。」
と言ってくれました。
しかし、なぜか症状が爆発的に増え始め、そのタイミングで新しく入ってきた店長に「その症状止めらんねえならもう働かせられない」と言われ、クビになってしまいました。
新しい仕事にもつけそうにない状態が続き、一人暮らしを断念し実家に戻りました。

しばらく働けない日々が続き、塞ぎ込んでいました。
そんな時、当時好きだったバンドが東京でライブをすることになりました。でも働いてないからお金がない。無理だと諦めていた時、母が気付いたのでしょう。
「仕事ができないのはあんたが悪いんじゃないんだから、お金は出すからライブ楽しんできなさい」と。
とても嬉しかったのです。引きこもりで罪悪感ばかりだった自分を「あんたが悪いんじゃない」と肯定してくれたことが。
ライブに行けることより、それが何よりの救いになったと、今思います。

それから暫くして私は近所の居酒屋にてバイトを始めます。でもそこでも病気を理解してくれない店長からパワハラを受け、辛い日々を送っていました。
ある日、酷い決定的なパワハラがあり、それを泣きながら母に伝えたときに、「もう明日から行かなくていい!給料なら私が貰ってきてやる!嫌味の一つも言ってきてやる!」と言ってくれました。
その言葉で辞める決意をし、次の日電話で「もうパワハラに耐えられないので行きません」と伝えました。給料は郵送の手段を取りました。
そして送られてきた給料には、今まで症状で割ったグラスの個数×100円と切手代を差し引いた旨のメモが入っていました。そう、私だけグラスを割るたびに正の字で数を数えられていたのです。
本当に差し引かれたのか、とイラッとしましたが、それに一番激怒していたのは母でした。ふざけんじゃねぇ!と言っていました。

その後、私は東京に行くことになります。
実は、辞めた職場で恋愛をしていたのです。その彼がヒップホッパーで、東京に出てデビューしたいと言い、私はそれに着いていくことにしたのです。
普通の親なら絶対に反対しそうな話ですが、ここでも母は「あんたが楽しくて幸せならそれでいいんだよ」と二つ返事で送り出してくれました。

その彼とは別れてしまいましたが、今も東京でフリーターをしながら暮らしています。
ライブ三昧だったり、飲み三昧だったり、音楽をやったり、ミュージシャンとばかり付き合ったり、どんなにぶっ飛んだことをしていても、そんなことばっかりして母の日や誕生日に金欠で何も送れなくても、母の口癖はいつも「あんたが楽しくて幸せなら、それが一番の親孝行だよ」です。


母はあの頃、、そう、かかりつけの先生に泣きついていた頃。私が自分のせいで楽しい人生を送れないと思っていたのでしょう。だから、私が楽しく生きていることが何よりも嬉しくて、それが何よりの願いなのだと思います。トゥレットが発覚してから一貫して母の思いは
「あんたが楽しくて幸せならなんでもいい」
なのです。
だから私は、母の為にやりたい事は思いっきりやって、楽しい人生を送ろうと決めています。私が楽しく生きていることが母の幸せになればと強く思います。
母が私の為にたくさん泣いていた事を知ってから、反抗期に言ったひどい言葉をとてつもなく後悔しました。母は悪くない。トゥレットのトの字も知られてないあの時代に、母なりに必死にもがいてたんだ。周りからの圧力や、育て方を間違えたかもという不安、、とてつもなく悩んでいたに違いない。そして打ち明けて理解してくれてからは、
〘母がいたから私は今まで生きてこれたんだ。〙
とすら思います。
きっと、あなたのお子さんもそう思う日が来るはずです。

いま、あなたがお子さんのトゥレットに気が付いて理解してあげている時点で、既にお子さんは救われているのです。
あとは、お子さんの生きやすい環境作りを徹底的にしてあげてください。そして、将来私のようにトゥレットをもっていても恋愛もできるし、仕事も選べばできる、趣味を楽しむことができる可能性が大いにあることを知って頂けたらと思います。
また、障害者手帳を持つことで20歳から障害者年金をもらうこともできます。手続きは結構大変ですが、お子さんの自立の大きな手助けになるはずなので、ぜひやってあげてください。私は年金のお陰で健常者の6割ほどの給料と労働で済んでいます。

お子さんはいつか反抗期がくるはずです。
その時はきっと酷い事を言われるかもしれません。私が実際言ったようなことは言われる覚悟はしておいたほうがいいかも知れません。
でも、四半生をかけて親身に向き合ってあげていれば、お子さんは大人になってきっと気付きます。親が自分をどれだけ愛してくれていて、どれだけ最高の理解者であったかを。

長くなりましたが、最後にこれだけ。
大変な道のりですが、絶対に諦めないでください、お子さんの将来のことを。愛し理解し続けた事が報われることを。

全てのトゥレットの子を持つ親に光りあれ。


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