「ヒーリングっど♡プリキュア」感想


 プリキュアシリーズ17作目「ヒーリングっど♡プリキュア」。コンセプトは「地球のお医者さん」。この作品、公式HPなどのビジュアルからやさしい受ける印象とは打って変わって、戦いについては結構シビア。とにかく敵側の強さ、それに対する絶望感が強調されています。お医者さんがコンセプトなためか、敵キャラクターは地球の病原菌をモチーフに、地球を蝕む(=病気にする)存在「ビョーゲンズ」。敵のパターンは多く、メインとなる三幹部のシンドイーネ、グアイワル、ダルイゼンだけではなく、その幹部たちと同等の強さを持つ敵が幾度も出現する。


 敵側が呼び出す怪物(メガ/ギガビョーゲン)も厄介で、時間経過で強くなっていき、一度に蝕める範囲も拡大する。経過した時間によっては蝕まれた場所はプリキュアの力でも元に戻すことは出来ない。一時的な撤退でも戦況が悪化するため、戦いに実質時間の制限が付いて回る。後半に至っては、メガパーツの登場で、時間経過を無視してパワーアップする敵。やけに戦いに関する敵側の強さが強調され、それによる状況のシビアさが出ていたと思います。


 プリキュア側も戦いのスタイルが面白かったです。今回は徒手空拳のみではなく、常に片手に武器を持って戦う。エレメントボトルというアイテムで多種多様な技を獲得し、状況に応じて使い分ける。格闘戦はしつつも、キラキラプリキュアアラモードのように遠距離技も自在に使いこなす。プリキュア単体の格闘戦だけではなく、パートナー妖精が武器の形状になるのも“共に戦う”のが強調されている。追加戦士のキュアアース以外は全員パートナー妖精の力を借りてシールドを出せる。そのシールドは妖精たちが身を挺してプリキュアを守る形で。


 戦闘(お手当て)自体は全体的に“最善を尽くす”姿が印象的でした。敵の攻撃が強烈すぎるので、一撃でも貰えば致命打となるため、「ヒットアンドウェイで徐々に削りながら戦う」なんて動きを見ることになるとは思わなかったです。そんなギリギリの戦いを繰り広げる。そして、終盤に至っては敵の力をも利用する。現状考え得る、使えるものは全て使う。さらには39話以降では、連戦に次ぐ連戦。これを二回繰り返す。特にラスボス戦までの連戦で一晩中戦うことになり、ラスボスたるキングビョーゲンを打倒したのに、喜びを分かち合うよりも前に全員疲れ果てて、その場で寝てしまうなんて描写は、この作品の戦いが如何に激闘だったか、如何に死力を尽くしたかを物語っています。


 ただ、本作は常に厳しい作風だったかというと、そうではありません。日常の描き方が特徴的で、さらにそれが全体を通してやさしい作風に仕上げています。敵となるビョーゲンズは日常を蝕む存在として描かれるので、全体を通して“日常を守る”ことが強調されています。ただ、戦い以外でも、この“日常を大切に扱った”作品であり、そしてこの“日常”こそが、本作の魅力のひとつだと思います。


 舞台はすこやか市。日本のどこか片田舎に存在しそうなほど、ファンタジー色は薄い。そこを舞台として繰り広げられているので、日常生活は視聴者に出来るだけ近くすることで、日常描写に共感を持てるように作られている。日常日常と言っても、我々が思い描く最大公約数的に想像するなんでもない日常“だけ”を扱うことは、物語にしにくいのでは?と思います。“我々が日常をエンターテインメントだと思えない以上”は。非日常の方が物語になりやすい。それなのに本作のプリキュア活動以外での“日常”そのものはごくごく普通。


 しかし、この作品の日常は非常に魅力的に見える。それは花寺のどかという視点を加えることで、その“日常の見え方自体”を変えることで、“日常を物語に”仕上げているから。花寺のどかというキャラクターは、原因不明の病で幼少期の大半を病院で送っていた過去を持つ。そのため、“普通の日常”を彼女は知らない(これは後半に登場する風鈴アスミも同じ)。


「生きてるって感じ」


 これは彼女がなんども繰り返す言葉。彼女は日常の本当にささやかなことでも感動し、この言葉を使う。感動屋って言葉がよく似合う。疲れることすら楽しいと言えてしまう。何にでも前のめりで向き合っていく。そんな彼女を視点に描くことで、何気ない日常への気付きを中心に、日常の良さを掘り起こしていく。そういった意味で、本作は“如何に何気ない普通の日常”を魅力的に描くのか?そこに腐心しているのがよくわかる。


 そしてシナリオは、そんな我々の現実に近しい日常を描き、我々が「生きる」活動の上で共感を呼べるテーマで、「生きる」こと…これを真正面から捉え、この作品なりの回答を出している。


 主要キャラクター4人、彼女たちの話はどれも「我を通す」「他を想う」。この二つを中心に物語を紡いでいる。利己と利他。どちらか一方が強すぎてもいけないし、どちらか一方が弱すぎてもいけない。わかりやすいのは平光ひなたと沢泉ちゆでしょうか。この点に絞れば、この二人は対照的に描かれている。


 平光ひなたはあわてんぼうでおっちょこちょい。ミスが多く、一つのことに集中しようにも、他のことに気を取られてしまい、一人で突っ走ってしまう。優秀な家族が多いため、そんなミスの多い自分を比べてしまい、自棄的になることが多い。自己嫌悪が先立つキャラクターとして描かれました。


 「今日ずっと自分のことそっちのけで、可愛いアクセサリとか、私たちに似合うの見つけてくれたよね」(———キュアグレース 9話)


 ただ、彼女は「他を想う」という点では誰よりも突出していたと思います。その徹底ぶりは、自身を二の次にしてしまうほどに。象徴的なのは18話だと思います。ほりえさんにゾッコンになってしまったニャトラン。周囲はキュアスパークルの交代や解散のピンチを危ぶむ状況なのに、ひなたは何の迷いもなくニャトランを応援する。それはニャトランを想ってのことであって、自分がプリキュアを辞める可能性があるのに(それすらも考える間もなく)、それでも迷いなく応援してしまう。


 そんな元から徹底的に「他を想える」彼女のお当番回は「我を通す」…「本来の自分を大切にする」。そんな方向に特化しています。有能な家族と比較してきてしまったがために、自分が行うことに意味はなく、他の有能な人がやればいい、そんな思考を持っていた彼女。


 「確かにお前は失敗が多い。でも何度失敗しても立ち上がってきたんじゃん。おれ、お前のそういうとこ大好きだぞ」(———ニャトラン 40話)


 彼女の物語終盤での結論としては、“失敗しない”って方向の成長ではない。これまで何度も失敗しても、挫けそうになっても、“立ち上がってきた”ことからの肯定。それはプリキュア活動のみならず、日常部分を含めて、彼女が何度も諦めずに立ち上がってきたからこそ、この言葉は意味を持つ。


 彼女の欠点として描かれた部分は、(アニメゆえのその極端さは置いておいて)そう珍しいモノではないと思います。人間の集中力はそこまで続かないものですし、マルチタスクが得意な人間は滅多にいない。その苦手さを強調して描く。それは彼女の悩みが多くの人に共感を得やすい…等身大の悩みを描きつつも、自分のやることに意味はあるんだ。そんな自分の弱さを“許す”こと。弱さは強さに通じ、受け入れる器は大きい方が、人生は楽しいはず。彼女のそういった姿に勇気を貰える。それが平光ひなたの魅力だと思います。


 パートナー妖精との関係も面白いです。パートナーのニャトランは自由気ままだし、ひなたと似た者同士ではある。でも、メンタルの面ではひなたからしてみると見習える面があるのでは?と。ニャトランとひなた。大きく異なっているのはニャトランも失敗はするけど、その失敗はあまり気にしないメンタルを持っている点(横断幕の回とか)。そういった意味で、似た者同士だけど、ひなたの規範になるキャラクター。だからこそ、そのニャトランからの台詞が活きてくる。ただ単にパートナーだからというわけではない。



 「他を想う」「我を通す」。前述したとおり、この点では、沢泉ちゆとひなたは対照的に描かれています。失敗ばかりのひなたと違って、ちゆはなんでもソツなくこなせる。勉強は元より、家業となる旅館の女将修行、陸上のハイジャンプの選手としても、全てハイレベルに。さらには夢なんて考えたこともなかったひなたに対して、ちゆは夢となるモノが二つもある。自分の好き…「本来の自分を大切」に出来る子ではある。ただ、ひなたとは異なり「他を想う」。この部分が足りなかったのではと。


 「そうラビ!ひなたはちゆに怒られたと思って凹んでるラビ!」(———ラビリン 5話)


 例えば5話のひなたと仲良くなる回。ちゆからすると、ひなたの力になりたいのに、ひなたを怖がらせてしまう。こういった彼女の言動は、実際、5話のひなたとの関係だけではありません。23話のアスミに対しての「かわいいと思うかは“人”それぞれだから」でも、25話のペギタンに対しての「かわいい」でも、そう。本人は良かれと思っての言動。それでも相手を傷つけてしまう。そんな無自覚な言葉の刃を放ってしまい、それで反省する様が多い。


 対人関係がダメというわけではありません。ちゆは、5話ではひなたみたいなタイプは初めてでどうしていいのかわからないと悩む。これまでのちゆの経験からすると知っているタイプであれば、彼女の対人関係は問題なかったことが伺える。つまり、見知らぬ相手まで含めて「想う」。これは実際、かなり難しいことだと思います。彼女の限界突破は、自分の世界だけではなく、知らない相手…他者に影響され、自分の世界を広げる。そんなシナリオになったのだと思う。


 話の主軸となる彼女の二つの夢はどちらも“相手が居て”成り立つモノとして描かれる。


 「陸上は自分との戦い。私のライバルは私だから」。(———沢泉ちゆ 8話)


 二つの夢のうちの一つ。ハイジャンプの選手としての話をすると、序盤の彼女は、自分は自分、他人は他人と線を引いていた。


 「自分の限界を感じた時、海を見るとまた飛ぼうって思えるの」(———沢泉ちゆ 8話)


 当初、彼女のハイジャンプで飛ぶ理由は内面に根差している物だけだった。ただ、イップスになった8話からもわかりますが、相手(ツバサの記録)を意識しないようにと頭でわかっているのに、結果的に相手を意識してしまっている。終盤はツバサがいたからこそ、より高く飛べるようになったと、ライバルは必要だと、そう結論付ける。また、女将修行では相手(お客さん)を想うこと。これを中心に据える。その女将修行回も、ちゆを想う“のどかの行動”から、ちゆの「他を想う」の気付きになる。どちらの夢も「相手が居て成り立つ話」に持って行っている。相手を徹底的に思うが自棄的だったひなたとは対照的。


 二つの大好きを“夢”として扱い、どちらの道に進むかを問わせ、どちらも選び取らせる展開。


 ちゆの夢に向かうことへの障害…外的要因はないと言って良い。周囲の理解という意味では、家族からは女将と選手、どちらになっても良いと言われているし、弟のトウジのおかげで旅館を継がなくても特に問題はない。陸上の選手も世界を目指さなくても、高校では続けられる。そのため、どちらの夢を選ぶのかは、彼女の気持ちの問題のみ。


 ちゆは自分一人でもなんでもある程度はソツなくこなせますが、一人では“どちらの夢も”を選び取ることは出来なかったのでは…限界突破は出来なかったのではないかと思います。そもそも彼女は選手になるのを戸惑った際に理由として挙げたのは、旅館の女将を継ぐこと、ではなく、両立させること。選手として一本に絞っている人と戦っていけるのか。自分が夢に対して一途ではないことへの不安が先立っている。そこが彼女一人での、限界だったのではと。そんな自分を乗り越える。


 「今よりすごい自分。今のちゆを超えてすんごいちゆになる」(———ペギタン 38話)


 その限界突破のキッカケはパートナー妖精のペギタンから。ちゆはペギタンの規範となる存在ではありますが、最期はペギタンがちゆを励ます形になります。彼女の夢へ向かうに、勇気を与える。その勇気はペギタンが序盤でちゆから貰ったモノ。ペギタンが本作のシナリオで“行動として示して来た”勇気をちゆに返す。互いを想う。「他を想う」…これを学びつつ、これを学んだからこそ、自分の世界を広げられた。夢に一歩進める。そんな成長を感じ取れるのがちゆシナリオの良さだと思います。


 「誰?それは名前のことですか?だとしたらまだありません。先ほど生まれたばかりなのです。私、人間ではありませんので」(———19話 風鈴アスミ)


 「我を通す」「他を想う」で考えた時、アスミはそのどちらも持っていなかった。そもそも風鈴アスミというキャラクターは元々使命“のみ”に殉じた存在。彼女は“ラテを守る使命”以外は持っていなかった。アスミ登場時に限って言えば、そのラテを守るのも、ラテの身を守ることだけが最優先であり、それはラテの想いを無視してしまうほど。ラテの身体が安全であれば後は関係ない。ラテとしっかり向き合うことすら出来ていない。短絡的な判断が多かった。


 彼女のシナリオは「我を通す」「他を想う」。どちらも手に入れて行く過程が描かれる。


 19話でこの世に生を受けた彼女は、常識が無いのもありますが、自分の中に巻き起こる感情すら、それが何かわかっていない。無知というか無垢な存在。彼女のお当番回は全て、様々な感情を獲得していくことに焦点が当たる。その取得は、のどか、ちゆ、ひなたから。さらにはその感情は正だけではなく、悔しさ、悲しさなどの負の感情も含めて知っていくことになります。ここでちゃんと負の感情をプラスにも捉えて行く。これらは誰もが持っている普遍的なモノ。アスミのお当番回を通して「感情」という人が生きる上で当たり前のモノ、その良さを、日常を通して掘り起こしていく。


 「重ねて来た経験が今のわたくしを作っているのです。わたくしの心も身体も、わたくしのものですから」 (———風鈴アスミ 43話)


 アスミの「他を想う」については、パートナー妖精のラテとは切っても切り離せない関係ですね。最初はお互いの信頼などはなかったのが、最期は彼女たちの信頼関係を魅せる。43話はそれが強調されたシーンですね。アスミが自らの中にビョーゲンズを宿すという危険な行動をラテが容認する。この決断はラテがアスミを信じているからこそだし、アスミは「我を通す」「他を想う」、そのどちらも知ったからこそ、ここに至れる。二人の強固な信頼関係と、当初は感情すらわからなかったアスミの感情獲得描写を、丁寧に積み重ねたからこそ、映えるシーンだと思います。


 花寺のどかは幼少期の大半を闘病で過ごした。そんな過去の経緯から、彼女は、周囲へ苦労を掛けたことへの負い目がある。


 「決めたじゃない、今度は私の番」(———花寺のどか 1話)


 周囲の人を助けていきたい。今度は自分の番だと。彼女は1話の段階からそんな“覚悟の人”としても描かれている。人を助ける。これそのものは良いことである。ただ、2話で明かされるのは、それを実行する彼女の危うさ。2話で変身が出来なかった彼女は、プリキュアになれない生身の状態で、メガビョーゲンに対して立ち向かう。利他的、自己犠牲…どちらも自己を自利的に扱わない……そんな他人のためなら、自分を大切にしない危うさが伺えます。


 花寺のどかのお当番回は「我を通す」…「自分を大切にすること」に主眼が置かれる。


 (個人的には33話でのどかの過去を肯定して描かれるのが良かったです。33話では闘病時の担当医との話が語られる。原因不明の病だったため、担当医の彼はのどかに励ますことしかできず、医者としての無力感に苛まれていた。ただ、のどかの頑張る姿を見て、医者を辞め研究の道に進む。彼の人生にまで多大な影響を与えた。しかも、彼はそれを自分への良い影響として捉えている。のどかは闘病時の無力感、周囲への迷惑を感じてしまい、自己嫌悪があったと思う。その過去が、恩人のプラス影響となっていた。現在だけではなく、彼女を形成した過去の闘病時まで含めて彼女をしっかりと肯定する。「自分を大切にすること」について徹底して描く。そんな姿勢が伺えるのが好きです)


 その「自分を大切にすること」は敵のビョーゲンズを絡めて。本作品は敵が改心することなどはなく、敵を浄化する(もしくは自我を失う)展開を見せる。メインとなる敵幹部のシンドイーネ、グアイワル、ダルイゼンは、全員、利己的な存在として描かれる。自己保身の強いダルイゼン、キングビョーゲンのためであれば他の者を排斥するシンドイーネ、己の地位向上のためなら仲間すら裏切るグアイワル。


 彼らはそれ相応に罰せられるラストを迎える。彼らの望みとは遠い、もしくは因果応報な形で退場する。キングビョーゲンに吸収されたいとしたシンドイーネはキングビョーゲンに取り込まれることはなく離れ離れのまま、仲間すら裏切るグアイワルは仲間に裏切られる。そして、そんな利己的な存在として描かれた彼らは「生きること」というテーマに絡めてきている。


 最もテーマの核心に迫っていたのはダルイゼンでしょうか。


 「ダルイゼン、地球を蝕むことがおろそかになっているようだが」(———キングビョーゲン 28話)


 彼は、基本的にどんな行動でも面倒くさがっていますが、自己保身にだけは強い興味を示しているのが作中でもよくわかります。メガパーツを自身に取り込み進化をしろと、キングビョーゲンから命令されても、すぐ実行には移さず、シンドイーネ、グアイワルが実行して、問題がないか?副作用がないか?をしばらく観察してから実行に移す。敵幹部の中ではもっとも死にたくない、自我がなくなるのに恐怖するのが強調されています。


 そんな彼はいかに自分が動かなくて良いか、を念頭に置いて行動していた。地球を蝕むというキングビョーゲンからの命令よりも、メガパーツを生成して回収することに興味を示し、新しいテラビョーゲンを作ることを優先する。幹部を増やして自分が動かずにより住み心地を良くしたい。それが彼の行動原理。さらに作中では、実験と称して、プリキュア打倒のためではなく、己の興味のためだけに、キュアグレースにメガパーツを埋め込む。メガパーツを埋め込まれ倒れたキュアグレースに追い打ちを掛けるのではなく、埋め込まれたメガパーツの進化がどうなるのか?そんな結果を楽しみにしている。自己保身と利己の塊。それがダルイゼン(宿主だったのどかに強い興味を示していたのだって、自分の元宿主なので、おそらくは何かに使えそう、程度だったのだと思います。実際42話でシェルター扱いにしますし)


 「見つけた、良いから寄越せよ、その身体!」(———ダルイゼン 42話)


 42話で彼はキングビョーゲンのパワーアップのために、キングビョーゲンに吸収されることを命令される。自己保身が強くキングビョーゲンへの忠誠もないダルイゼンは逃げ出し、元宿主であったキュアグレースの体内に匿えと要求してくる。ここに対して、のどかは匿うことを拒否する。ビョーゲンズの行動、思想からして、人間側と相容れることは決してない存在。彼を受け入れる必要はないし、彼らのやってきた行いをみても、のどかが拒否することに違和感はありません。


 それでもダルイゼンの42話での「生きたい」を笑うことは、私には出来ない。


 敵となるビョーゲンズは利己的な存在として描かれました。彼らは恐らく、地球を蝕まずとも生きてはいける。しかし、進化を求める、より過ごしやすい環境を求めるって意味での「生きる」。利己を追求し過ぎて他に害をなしてしまう部分、それが問題であり、やり過ぎれば排斥されます。これは45話のサルローの話、人間側にも当て嵌まりかねない。そういう利己的な部分は、総じて人間にもあり、その飽くなき欲求があるからこそ、種の保存や、生産、社会構築などの原動力になる。


 本作では敵を浄化することになるが、ただ打倒されるだけの敵としてはいない。「生きる」ことで他を排斥すること、ここに真摯に向き合っている。(ビョーゲンズ側を無機質な敵ではなく、コミカルな表現で、むしろある程度の人間味というか親しみやすい部分を持たせて描いているのも、)彼らを倒してあの場に立っているのだということを実感させる。敵を倒すことを儀礼化しないで済んでいる。



 そしてダルイゼンに手を差し伸べるべきではないか?これを花寺のどかに問わせる。ラビリンからのダルイゼンを助けたいのか?の問いかけに、のどかの口をついた言葉は「助けた方がよかった」。敵であり、あれだけの苦痛を味わわされ、幼少期の長い期間を潰されたのに出たその言葉は、彼女のそのあまりに優しすぎるが故の危うさが最も露出した一言だと思います。本心では自分が犠牲にはなりたくない、あんなに苦しい思いはしたくない、それでも1話からの彼女の決意にある「他を助ける」選択肢を選び取ってしまいそうになる。おそらく彼女は助けを拒むことへの倫理的な拒否感もあったのだろう。これまでのどかを近くで見て来たパートナー妖精のラビリンを通して、のどかが自身の「すこやかに生きたい」という意志に気付く。危ういまでに優しいのどかが、自身の倫理観を乗り越えてでも、これを選び取る…これがどれほどの選択だったのだろうかは言うまでもない。


 “生きる”はエゴを通すこと。その“生きる”ための最善の努力の結果として“生きている”。


 「自分が生きたい」は現実の利潤を求める以上、誰もが利己的にならざるを得ない。全く知らない他者のために自分を棄てて生きる。そんな生き方は理想でしかない。そんなことは現実には出来ない。生きることは、そう美化できるものではない。「生きる」ことはエゴを象徴する。そんな現実的な部分を認めつつも、それでもと、前に進む彼女らの泥臭く生き抜く姿に美しさすら覚える。


 ひなたは普遍的に共感できる悩み、ちゆは将来の夢について、のどかは日常のすばらしさ、アスミは人の感情。これらはどれも、人の今を「生きる」活動で欠かせないモノ。どれもそれを共感できるテーマで四者四様に描く。各々の配役が上手い。


 「私たちいつも何かと戦っている。戦いながら生きている。だから、私は戦い続ける。今までと同じ。勝つためじゃない。すこやかに生きるために」(———花寺のどか 44話)


 そしてそれを生きることは利己的であることをしっかり描いたからこそ、キングビョーゲンに対するのどかの台詞が活きてくる。


 この作品は「生きる」という部分をプリキュア活動での戦いだけではなく、日常の方も「戦い」と表現した。この作品における戦闘は苛烈だし、妖精によっては死を想起させるまで。泥臭く「生きる」ことを表現するための死闘。これにより守られる日常。そして本作は“如何に普通の日常を魅力的に描くのか?”そこに腐心している。それは我々に近しい“何気ない日常の肯定”であり、翻って“今を生きる我々の肯定”でもあると思う。


 44話で「生きたい」を登場人物全員(プリキュアだけではなく町民を含めて)に言わせつつも、45話で人間もビョーゲンズも同じ存在になり得る可能性を示す。だが、少なくとも、すこやか市のみんなは「他を想う」のを忘れていない。45話で、彼らは妖精たちを認識し、それを気付かないフリをして、ヒープリチームを手伝うような、受け入れるような、そんな優しさが描かれる。終盤のこのシーンはこれまでの日常の積み重ねがあったからこそ、日常の良さを表した最たるシーンではないかと思う。


 わたしたちの周りの世界は…わたしたちが考えるよりも優しい。


 悲観的に捉え過ぎず、前向きに生きてみよう。


 そんな「生きる」活力を与えてくれる作品。

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