「Hugっと!プリキュア」感想

  プリキュアシリーズ15作目「Hugっと!プリキュア」

 

 テーマは「子育て」。この「子育て」の部分を、「赤ん坊をお世話する」だけについて絞れば、プリキュアでは何も珍しい描写ではなく、今までも妖精の赤ん坊をお世話するような(フレッシュプリキュアとか、魔法つかいプリキュアとか)プリキュアはありました。しかし、本作のお世話をする対象のハグたんは本物の赤ん坊(のちに未来のプリキュア、キュアトゥモローが元になっていることが明らかになりますし、要所で不思議な力を使うので普通の赤ん坊かと言われると微妙だと思いますが)。最初は子育てで苦労をするのは、完全にハリーのみ、といった感じでしたが、劇場版のオールスターズメモリーズも含めて、プリキュア勢のお世話をするのに慣れてくる描写が増えていきます。


 また、これに伴ってか、出産の話が3話分もあるという……最終話にプリキュアメンバーの一人の出産話を持ってくるのも凄いですが、さあや視点で描かれるお仕事回の27話、35話の方が、尺の関係なのか濃く描かれている分(特に27話)、こちらの方が驚きはありました。このテーマ的な部分に関してはラストに効いてくるものとなります。


 テーマ的な部分以外では、未来からの敵、アンドロイドのプリキュア(しかも最初は敵)、お仕事体験回、過去のプリキュアが勢揃いする36、37話のオールスターズ回、ドロップアウトした敵役のその後、えみるとルールーのライブ、一般人のプリキュア化など、とにかく色々な要素を盛り込んだ作品。


 特にオールスターズ回はサービス回として凄まじく、地上波でこのレベルの映像を魅せてくれるのかと。戦闘シーンのサービスっぷりはもう言うまでもないのですが、個人的には特にキュアエコー、満と薫など、プリキュア以外での登場人物も、旧作ファンへのサービスとして登場してくれたのは胸が熱くなりました。しかも、この回だけでも凄いのに、「映画Hugっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ」はこれとは別のカタチで珠玉の出来と、周年作品として素晴らしいモノを見せて貰えたと思いました。


 それにしても、物語はこれだけの要素を取り入れても、シリーズとしての根底の部分は変わらないのだなと思いました。


 「みんな、夢に向かって頑張っているなー。わたしは……」

(———23話 野乃はな)


 とりあえず、シナリオから感じるキーワードは「夢」


 「飛ぶのが怖い、応援されることも、けど、もう自分から逃げない。私は私の心に勝つ」

(———5話 輝木ほまれ)


 「女優になりたいかはまだわからないけど、自分の心をきちんと見つめて、頑張ろうって思えたから」

(———7話 薬師寺さあや)


 本作品の登場人物は皆、それなりの「夢」、「なりたい自分」を序盤のうちから持つ。序盤にプリキュアになるほまれとさあやに至っては、「夢」へ向かうための精神的な部分の問題の解決は序盤も序盤で描き切っていると言って良い。


 「身長が伸びてから一度もジャンプに成功していない。それが真実でしょ?」

(———5話 チャラリート)


 ほまれのスケートでジャンプが出来ないトラウマ。怪我はきっかけに過ぎず、身長が伸びてから飛べない。飛ぶことへ臆病になっていた。だが、5話で変身まで行ける時点で精神的な部分の問題は克服し、8話で既にスケートの練習を始める……ジャンプへの挑戦が出来るようになっている。元から天才少女と言われていた彼女から、内的要因が取り払われた後は問題なく夢……スケート選手の道に進むことが出来る。だから、以降の彼女の話は、外的要因(アンリやハリーなど)に対しての話が中心となっていき、スケート自体の話は中心にならない。


 「この人は私に何を求めているんだろう。何が正解なんだろう?って、昔は何も考えずに役になり切れることができた」

(———7話 薬師寺さあや)


 さあやは7話の時点で、それまで悩んでいた人前では出来なかった「役になり切った演技」が出来るようになっている。彼女は終盤に至るまで「夢」に迷いはするものの、その迷いは……彼女の終盤の決断は前を向くことが出来ているからこそ……「夢」がないのではなく、母親と共演する夢を果たして、そのまま女優に進むのか、それとも医者に進むのか、どちらの「夢」を取るのかというモノ。


 「友達の夢、応援するのが、プリキュアだああああ!!!!」

(———20話 キュアエール)


 そして、この物語でそんな彼女たちの中核を成しているのが野乃はなという点が面白い。野乃はなの行う応援……それは登場人物に勇気を与え、結果として前に進む……夢を与える形となっている。つまり、本作で野乃はなというキャラクターは、「夢」を“与える人物”として描かれる。


 中盤の追加戦士たるえみるだって、そう。えみるの夢の一つとして描かれるのはプリキュアになりたい。これはキュアエールへの憧れから来る。もう一人の追加戦士のルールーは野乃はなから直接このプリキュアになる夢を与えられたわけではないが、野乃はなから夢を与えられたえみるからプリキュアの夢に繋がっていく。さらには、プリキュアのメンバーだけではなく、アンリやことり、敵幹部などへ。野乃はなは彼/彼女らに“夢を与える存在”として描かれます。


 しかし、作中、野乃はなは何度も「自分の夢」「なりたい自分」について悩んでいく。彼女は“夢を与える人物”なのに、彼女“本人は夢がない”。夢を渇望しているのに、その夢が何処にあるのかわからない。本人は空虚。だから、悩むのも当然と言えば当然。つまり、この物語は、


 “野乃はなが皆に夢を与える物語”であり、そしてその“夢を与えられた皆が、野乃はなに夢を与えるために奮闘する物語”と言っても良い。


 だから、さあや、ほまれは「夢」に対する精神的な問題の部分は序盤で描く必要があり、彼女たちのシナリオは「夢」そのものをメインとはせず、もう一つのテーマ「それぞれの愛」にシフトしたのだと思う。


「おっちょこちょいだし、グイグイいきすぎて、引かれちゃうこと多いし……」

(———5話 野乃はな)


 野乃はなというキャラクターは自己と他からの評価にギャップがあるのだと思う。テンション高めな台詞、自己肯定感の高めな自身への応援などから勘違いしやすいが、結構自己肯定感は低い。彼女は幾度となく「超イケてるお姉さん」になりたいと言う。それはキュアエールとしての自身の姿が当てはまるが、23話でキュアエールとしての姿と、現状の自身の姿、そのギャップに苦しむ。


「私には何もないと思っていた。何でプリキュアになれたんだろ?って」

(———48話 野乃はな)


 彼女の応援は他者へだけではなく、自信を鼓舞するためのモノでもある。自身の無さを精一杯押し殺す。そういった意味では強いキャラクターであり、同時に精神的な脆さも抱える。彼女はしばしば「私のなりたい野乃はな“じゃない”」「これが私の“なりたい”野乃はなだ!」を繰り返す。彼女が言う「なりたい野乃はな」のイメージは揺らいだまま、物語は進行していく。


 「私のなりたい、超イケてる私。それは誰でもない、自分で決めることだったんだな。はぐたんが来てくれて、大勢の人と出会えた。凄い人ばっかりだなって。けど、そんな人も迷いながら生きている。」

(———48話 野乃はな)


 そして、そんな彼女は48話でようやっと明確に答えを出す(48話で何度もOPで繰り返してきた「なんでもできる!なんでもなれる!」の声色がハッキリと変わるのも分かりやすいですね)。無責任な応援と言われても、徹底的に応援を通して夢を与えて来たこれまでの彼女の行動がここでようやっと重なる。これを描き切った48話。ここが、彼女のこれまでを集約したエピソードになったのだと思います。


 49話で実現した「夢」の部分については、結果のみの描写となっているので、この「夢」自体への共感は個人的に難しくさせているのですが、49話後半で描かれることからハッキリと言えることは、彼女は周囲の人間から信頼を得ていること。49話前半までの彼女はストレート過ぎて引かれることもあるし、悩むこともあるし、おっちょこちょいなこともある。この物語がそんな“女の子”が“女性”に至るまでの道であるなら、彼女の信頼を得ている姿は、「夢」を通して、その成長を描いた結果として、素晴らしいモノだと思います。


 「夢」を通しての成長を描くのは、野乃はなに背負わせた。他の登場人物についての「夢」は、あくまでキャラクター付けに使われ、どちらかと言えば、本作は登場人物各々の「愛のカタチ」を描くことになる。


 愛崎えみるとルールー・アムールは「友愛」、薬師寺さあやは「親子愛」、輝きほまれは「恋愛」。ルールーもドクタートラウムとの関係を言えば「親子愛」を描いている。そして重要なのは、これらは愛情の正の側面だけではなく、負の側面をそれぞれ描き、乗り越えさせる点。


「あなたの全てを受け入れられたわけではない、だけど、だけど……今度一緒にご飯を食べましょう」

(———40話 ルールー・アムール)



 ルールーの個人回では、トラウム……ルールーの産みの親である彼がルールーと向き合わなかった。その後悔が描かれる。そして、ルールーもそのトラウムに対して捨てられたと認識している。そのトラウムの後悔を、ルールーがそのトラウムと向き合い、そして許す。野乃家で育んできた経験が生きてくる。それは彼女自身の心を自覚することにもなる。


「困らせても良いですか?ヒーロー失格だと言われるかもしれないけど」

(———41話 愛崎えみる)


 えみるはヒーローへの憧れと、その理想が高すぎるがゆえに、ルールーとの別れを素直に応援できない自責の念。自分の素直な心との乖離。それが故の失声症が描かれる。友人として、ルールーに対して、自分の気持ちを我慢するのではなく、自身の負の感情を認め、それを素直に吐き出す勇気。それが、友人として一方的な関係ではなく、互いに思いやる関係に繋がる。


「ありがとう、すっきりした。正直にいってくれてサンキュー 最高のスケート滑るから」

(———43話 輝木ほまれ)


 ほまれは失恋を描きつつも、ビシン……ハリーへの独占欲のカタマリを比較対象にして、ほまれ自身はそんな負の感情には堕ちないことを強調する(多分、ビシンが居なければ独占欲は分かりにくかったかと思います)。彼女は、届かない恋でも、意味はあったのだと結論付け、失恋を乗り越える……それをスタートとする。


 「私の今までの夢はお母さんの世界を見てみたい、だった。その世界に触れることが出来たから、新しい夢が見つかりました」

(———44話 薬師寺さあや)


 さあやは母親の負の感情が描かれる。薬師寺レイラ。彼女はさあやが自分と同じ道……女優の道へ進まないことへ、表面上は取り繕っても、心の奥底からは応援できない。さあやはそれに対し、これまでのさあやが歩んできた女優の道……母親と同じ景色を観られたからこそ、次の夢へ進むことが出来たのだと伝える。これまでの女優の道……母親のことを踏まえ、そこから前へ進む。


 そして、彼女たちの愛情だけではなく、ラスボスにも愛情の負の側面が描かれる。ジョージ・クライ。彼は未来で野乃はなとの間に何があったかはハッキリとは語らない(想像は出来るようになっていますが)。だが、確実にわかるのは、彼は、野乃はなへの異常なまでの執着があること。戦闘シーンでのジョージ・クライからのキュアエールへの会話を聞いていればわかるが、キュアエールのことを思ってはいるものの、彼女との会話は、結構、一方的なモノとなる。理解をしようとせず、ただ、一方的に自分の想いを押し付ける。それは……妄執愛……負の愛情になり果てた物として描かれる。


 だから、プリキュア各々が愛情の負の側面を乗り切る……その心身の成長を描いてきたからこそ、その「愛のカタチ」を描き切ったからこそ、そんな彼女たちだからこそ、全ての始まりが愛情の負の側面……妄執愛ならば、その反意……正の側面……真摯な愛情が世界を救うと繋げてくる。各個人のテーマからの繋ぎ方がかなり好きな展開でした。


結末について話します。


「この”夢”をみんなで楽しもう」

(———42話 若宮アンリ)


 本作品はあくまで現実に固執する。それは奇跡の描き方によく表れている。42話のアンリが顕著。42話の奇跡で交通事故に遭った彼の足は治る訳ではない。事故に遭う前も、彼はスポーツ障害を負っており、それでもせめて最後に演じたいと決めていた舞台。交通事故に遭うことで、彼のそのせめてもの夢は完全に絶たれる。彼の願いはせめて最後にステージに立ちたい。彼が、キュアエールを通して、観客の応援によって、プリキュアに変身する奇跡は、そのステージに立つ夢を叶える。一瞬の夢。ただ、それだけ。だが、それでも現実から逃避していた彼は、その奇跡で現実を捉え、少なくとも前に進めるようになる。


 48話の全員プリキュア化する奇跡も同じ。ラスボスの打倒に繋がるが、実際、ジョージを打倒しただけでは、ジョージの未来の話であるトゲパワワを生み出す民衆の話への根本解決たり得ない。民衆も含めて、全員アスパワワを生み出す存在……プリキュアになれる。そんな一瞬の夢を見せ、信じても良いのではと説く。全員プリキュア化はその具現化をしただけであり、実際49話でもトゲパワワは発生し、モウオシマイダーは結局表れる。「子育て」をテーマとしているのは、赤ん坊。未来。後の人間を信じると結論付けたのだと思う。一見、本作品は、奇跡を軽く扱ったように見えるが、その実、奇跡の効果は絞っている。奇跡とご都合主義。そのバランスが考え抜かれた作品なのだと思います。


 そして、そんな現実に固執する作品だから、ラストは物悲しさを含む結末となる。


 元から4人しかなれないプリキュアが5人になる奇跡。アンリの足が治らなかったように、最期は根本的な解決には至らなかったように。プリキュアが5人だったのも……奇跡……一時の夢であったのではないかと。


夢は、いつか醒める。


 ルールーは未来に帰る。49話で描かれる同じ時間軸のルールーとえみるが出会うシーン。ここでは帰ったルールーの記憶……これまで過ごした思い出はえみるの中に残るが、49話で出会うルールーには残らない。存在を取るのか?記憶を取るのか?人の存在証明の二択は、多くの物語で見られるモノであり、その回答は人それぞれであるからこそ、重く、物悲しさを生む。


 本作では、ルールーの記憶はなくとも……ルールーと共にある。そんな結果にならざるを得なかった。これまで一緒に過ごしてきたルールーがえみるに対する別れの前の言葉は「未来で待っています」。だが、41話で明かされるルールーの別れの決意は、クライアス社がある未来で歌を伝えること。アカルイアス社がある未来とはどうしても分岐している。そうでなければ、41話でのルールーの決意が無駄になる。だから、49話で描かれる再会は、これまで過ごしてきた、ハグたん、ルールーとの再会の未来は永遠に来ないのだと想像できてしまう。


 ラストは、現実への固執。幻想への逃避の否定。完全無欠のハッピーエンドとしない。それはこの物語上で何度も描かれた奇跡。あくまで物語上の規定を壊さない。安易に覆さない。そこに一貫性を見出させる。それは物語として確かに美しいのだと思う。この作品は、最期は現実に戻り、その辛さを、それを乗り越える姿を、野乃はなの応援を通して、各々の「成長」を結果として見せた。


それは翻って“現実の私たちへの応援”でもあり、そこにあるのは“私たちがどう感じたのか?”その問いなのだと思う。それに私が答えるなら、野乃はなの応援を通した彼女たちの成長物語として、確かに勇気を貰った。それは間違いない。


 だが、それでも……心は殴りつけられたように痛む。



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