ヘルマン・ヘッセ 『車輪の下』を読破して思ったこと

ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読んだ。実は過去に、2回ほど読破を試み、失敗しているので、初めて手にとってから6年越しでやっと読み終えた、という感じだ。しかし、前のように途中で読むのをやめてしまうことはなく、むしろ読み始めてから終わりまではずっと作品に入り込めた。「あれ?『車輪の下』ってこんなに面白かったっけ…」と読みながら思ってしまった。前に読んだときには、字面だけ追い、ちょっと読み進めて、残りのページ数を確認しては、「まだこんなに残っている…」とため息をついていたほど、かなり苦戦しながら読んでいた。だから、成長して、随分作品への印象が変わったことに驚いた。

(ここから、ストーリーの内容に言及するので、『車輪の下』を未読の方はお気をつけください。)

さて、この物語の主人公、ハンス・ギーベンラートは、才気に溢れた秀才で、父親や故郷の大人たちに将来を期待されて神学校に行くことになる。しかし、紆余曲折の末に、挫折して神学校を去ってしまう。帰郷した後も、ハンスは物悲しく過ごし、結局立ち直ることはできず、最後には非業の死を遂げてしまう。このように、この作品は、ハンスにとっては救いのない物語だったといえるだろう。私なりに、ハンスの人生にとって致命的だったことを3つ考えたので以下に述べる。

1つ目。父親から、期待をかけられると同時に、距離を置かれてしまっていたこと。ハンスの父親は、特に学才に恵まれているわけではなく、ごく普通の人間で、それゆえにできの良い息子のハンスのことは自慢に思っている。だからこそ、父親はハンスの存在を有難がるばかりで、相談相手として寄り添ってあげていたりはしていない。例えば、ハンスが、神経衰弱が原因で、神学校を去るときにも、父親は神学校まで迎えに来ず、ハンスが故郷に帰ってきた後も、彼自身を心配している印象は薄い。むしろハンスの抱える「神経病」という得体のしれないものへの恐怖心を抱いている。ハンスの学友だったハイルナーが、問題行動を理由に放校処分となったときでさえ、ハイルナーの父親は息子を迎えに来ていることを考えると、ハンスの父親がハンスを迎えにすら来ていないことからは、この二人の関係の希薄さが伺えるだろう。もっとも、ハンスの父親は、ハンスへ愛情が足りていなかったというわけではなく、愛情はあったものの、どう接していいかわからない、という心持ちだったのかもしれない。

ハンスの父親の、ハンスへの愛情の多寡についてはひとまず置いておくとしても、ハンスと父親には心理的に相当距離があることは確かだろう。ハンスの寄る辺なさや孤独は、ここに起因している可能性は大きい。

2つ目は、ハンス「が」愛した、またはハンス「を」愛した人々が、ことごとくハンスのもとから去っていったことだ。代表的なのは学友のハイルナーだろう。神学校の寮で同室となったハンスとハイルナーは、紆余曲折を経ながらも学校生活の中で心を通わせ、固い友情で結ばれていったように見えた。しかし、ハイルナーは後に問題行動を理由に放校処分となり、ハンスのもとを去った。

ハイルナーだけでなく、故郷のエンマに対しても、ハンスは好意を示していたのにも関わらず、エンマは真剣にハンスを相手にはせず、故郷を離れていった。さらに、ハンスの母親についても言えるかも知れない。ハンスの母親は、病弱で、物語開始時点では既に故人である。ハンスの母親とハンスの関係、また、いつ頃にハンスの母が没しているかについては描写がない。しかし、もしハンスがそれなりに母親に愛されていた、もしくはハンスも母親を慕っていたとしたら、ハンスにとっては母親の死は、大事な人との別れだったと言えるだろう。このように、ハンスにとっては拠り所となっていた人々との度重なる別れが、ハンスに決定的ダメージを与えていたことは想像に難くない。

とはいえ、作中のハンスを愛したり、ハンスが愛したりしたすべての人が、ハンスのもとを離れたわけではない。ハンスの近所に住むフライク親方は、実は最後までハンスのことを気にかけている。フライク親方は、ハンスの身に起こった悲劇(ハンスの死)の原因についても、ある程度理解が及んでいるほど、ハンスのことをよく理解していた。にもかかわらず、ハンス自身はフライク親方がそこまで自分を心配してくれていることに最後まで気が付かなかった。ハンスがほんの短い間、心を寄せた人々はみんな離れていく一方、本当にハンスを気にかけてくれる人の存在には気づけなかったところに、ハンスの不幸があるといえるだろう。

3つ目は、ハンスが、大人たちなど、外から圧力や期待をかけられ、苦しんだだけではなく、自分から「大人」になろうとし続けたことだ。ハンスは、神学校入学のために、身を粉にして勉強しているときですら、まだ幸せな子ども時代への思いが残っており、精神的に成熟しきっているとはいえない。にもかかわらず、自ら、無理矢理「大人」になることを自分に課している。

例えば、物語の序盤で、神学校の試験への不安を抱えながらハンスは、子どもの頃に大事にしていたうさぎ小屋を破壊している。これは、ハンスの少年時代との決別を象徴する場面だ。これはヘッセの「少年の日の思い出」の最後で、主人公が大事にしていた蝶の標本を粉々にする場面と重なる。ヘッセにとって、思い出の品を壊すことは、少年にとっての人生の分岐点、少年時代との決別や、「大人」になることを意味していると私は考えている。そう考えると、ハンスがうさぎ小屋を破壊したことは、自分から少年時代と決別し、大人になろうとしていることを意味していると言える。しかし、そうやってハンスが自分で自分を追い詰めた結果、心の中にすら拠り所を失い、挙げ句、最後には挫折して衰弱してしまう。ハンスが良かれと思っていた、大人になろう、模範生になろう、という気持ちも、結局は自分の首を絞める事になってしまった。ここに、ハンスの人生の悲劇性がある。

以上の3つのような要素が重なり、ハンスは結局立ち直れないままに、死という悲しい結末を迎える。ヘッセにとってこの結末は、自分自身にも「ありえたかもしれない結末」だったのだろう。『車輪の下』が、ヘッセの自伝的小説であることは有名であるし、実際、ハンスの人生の、神学校へ行った後に挫折するという道のりは、ヘッセのそれとそっくりである。ヘッセも、少し運命が違えばハンスのような結末を迎えたかも知れない。

ところで、前述したフライク親方は、ハンスがそこまで追い詰められた原因は、ハンスにプレッシャーや過酷な勉強を強いてきた大人たちにあるということを、ハンスの葬儀の場面で、ハンスの父に仄めかしている。ヘッセは、フライク親方にそう発言させることで、ヘッセを幼い頃に苦しめてきた大人たちを非難したかったのではないだろうか。私には、作者のヘッセが、フライク親方の発言や、ハンスの死を通じて、「ほら見たことか。大人たちがこうやってハンスを勉強漬けにして追い詰めるから、ハンスはこんな事になってしまったではないか」とでも言いたがっているように感じられた。

ヘッセは、ハンスを苦しめてきた大人たちに、大人たちが将来を期待してきた「ハンスの死」を用意することで、罰を与えたのではないだろうか。それは、ハンス同様に、少年時代に苦しめられたヘッセが、『車輪の下』の書き手として、第三者として、愚かな大人たちに罰を与え、読者とともに冷笑することで、「愚かな大人たち」にささやかな復讐を果たしたとも言えるのではないだろうか。その意味では、ヘッセにとっては、『車輪の下』は、ヘッセ自身のための、「大人への復讐物語」と言えるのかも知れない。

あくまで個人の見解なので、私の考察も正解とは言えないかも知れないが、とにかく、色々と考えさせられる話であった。内容の重さの割には、物語中に辛気臭さや説教臭さはあまり感じられず、むしろ風景描写や心理描写は繊細で、楽しみながら読めた。特に、ハンスが神学校に合格した後、束の間の休息のため、外に出かける場面などは、私自身の幼少期の思い出と重なって、共感できたので、個人的に気に入っている。また数年後に読み返してみたい。

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