シリーズ「霊の中に生きる」 No.8人の霊(8)③

シリーズ「霊の中に生きる」 No.8
人の霊(8)③

新しい創造(メタモルフェ、変貌化体)

人の霊(8) - 牧師の書斎

●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。

シリーズ「霊によって生きる」の第八回目です。
今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第三回目です。

(2) キリストの割礼=
キリストによる新創造(変貌化体、メタモルフェ)


 ここで「キリストの割礼を受けた」とはどういうことでしょうか。

キリストは復活して
「いのちを与える御霊」となられました。

その御霊が私たちの霊の中に入られたことによって、それまで機能不全を起こして死んだようになっていた「人の霊」が回復され、御霊とミングリング(調合)されて神の子として生きることを神は実現してくださったのです。

これは凄いことです。
本来ならばあり得ないことです。

人に対する神の新しい創造は、「人の霊」から出発して、「人の心」を新創造する(新しく造る)ことで神を知る者とさせ、やがては「人のからだ」も新しくする(御霊のからだ・栄光のからだとする)ことで、永遠に神に仕える者としてくださるのです。

これが御国(神の国)の福音です。

単に罪が赦されて神と交わる者とされたということではありません。

キリストにある「新創造」(New Creature)として、永遠の「王なる祭司」、神のしもべ、キリストに似せられた長子たちとしてくださったのです。

ですから、パウロは割礼のことで問題を起こしていたガラテヤ人たちに対してこう述べています。

【新改訳2017】
ガラテヤ人への手紙6章15節


割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。

(新しい創造、メタモルフェ)

蛹が脱皮(新しく創造)されて羽根の生えた蝶々となって天空へと羽ばたいていきます。

大切なことは、

新しい創造(メタモルフェ、変貌化体)
であって、

割礼の有無ではない。

このことは前節の、

「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。

この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」

ということの理由として置かれているのです。

大事なのは新しい創造(メタモルフェ、変貌化体)です

それはキリストが「いのちを与える御霊となられて私たちのど真ん中(至聖所=人の霊)に入られた」ことで、新創造がすでに始まっているからです。

しかも、「主は御霊です」

3:13

そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。

3:14

実際、彼らの思いは鈍くなっていた。

今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。

それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。


3:15

今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。

3:16

しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。

3:17

主は御霊(みたま)である。そして、主の御霊のあるところには、自由がある。

3:18

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは御霊なる主の働きによるのである。

(Ⅱコリント3章)

これは大変重要な聖句です。

それゆえ、
キリストにある者たちは
御霊に従って歩むことが絶えることなき
喜びとなります。

ちなみに、

神がアブラハムに割礼をすることを命じた時、

「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。」と、

言われました。

なにゆえに「生まれて八日目」なのでしょうか。

それは、、、

イェシュアも契約にしたがって
八日目に割礼を受けられました。

2:21

八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。

(ルカ2:21)

聖書において「八日目」はイェシュアを啓示します。

なぜなら、八日目は「週の初めの日」であり、その日はイェシュアが死からよみがえられた日だからです。

(マタイ28:1, マルコ16:2, ルカ24:1, ヨハネ20:1)。

詩篇118篇24節の「これは【主】が設けられた日。
この日を楽しみ喜ぼう
」は、まさにこの「八日目」であり、「週の初めの日」であり、

“聖霊による新しい時代の恵みの日、
救いの日のとばりが開いたことを預言する
啓示だった”のです。

割礼のイェシュア、キリスト

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