シリーズ「霊の中に生きる」 No.14人の魂(1)

シリーズ「霊の中に生きる」 No.14
人の魂(1)

新しくされたキリストの「思い」

「朽ちることのない宝を天に積み上げるため」

●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。

シリーズ「霊の中に生きる」の第14回目です。

今回から「人の魂」について扱います。
今日はその第1回目です。

人の魂 (1) - 牧師の書斎

べレーシート

前回までは「人の霊」について学びました。イェシュアは受肉され、洗礼の時に私たち全人類を自らの内に取り込んで、十字架の死において「最初のアダム」が背負っていた罪と死ののろいを終わらせました。


そして葬られ、三日目に死人の中からよみがえり、「いのちを与える御霊」となられ、私たちの霊を回復(再生)しその中に入ってくださいました。

このことを通して、三一の神が私たちの内に住んでくださり、私たちを新創造してくださったのです。

その御霊は御父と御子の一切を含んでいます。

“この神の包括的な事実は、三一の神ご自身のすべてを私たちに与えることにあります。”

また私たちの霊と御霊がミングリングすることによって、「生きることはキリスト」、「キリストこそすべて」という信仰を与えて安息を与えてくださるのです。

しかしその真理に覆いをかけ、それを阻もうとするのが、今回取り上げる「たましい」(「プシュケーψυχή)なのです。

「たましい」は人の中で最も手ごわい部分と言えます。なぜなら、そこにサタンが足場を築いているからです。

神の回復のみわざは、機能不全を起こしていた私たちの「霊」から始めて「たましい」、そして「からだ」という順に浸透して行きます。

神を信じる者の「たましい」は、「いのちを与える御霊」によって徐々にですが造り変えられています。

たましい」は「知・情・意」の三つから構成されています。

この「たましい」を「プシュケー」(ψυχή)で表わしますが、聖書は、「最初のアダム」である生来の「いのち」をも「プシュケー」で表しているのです。

つまり、同じ「プシュケー」が「たましい」と生来の人間の「いのち」をも意味しているということです。

しかし、死からよみがえられた「最後のアダム」であるイェシュアは、「いのちを与える御霊」となられたとあります。

15:45 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。

(Ⅰコリント15:45)。

この場合の「いのち」は「プシュケー」ではなく、「ゾーエー」(ζωή)で表される「いのち」です。

この「ゾーエー」こそ神のいのちであり、私たちの霊を生かす根源的ないのちなのです。

ですから、「ゾーエー」のいのちを私たちの宝としなければならないことを、イェシュアは弟子たちに語っています。

しかも、この「朽ちることのない宝を天に積み上げるため」にも、神の国を求め続けることが不可欠であることを語っています。

霊、魂、からだ

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