日本の残されし民より未来の全人類(選ばれし民)へ 。シリーズ『出エジプト記』に読む神のご計画 18実に、うなじのこわい民 - ①
日本の残されし民より未来の全人類
(選ばれし民)へ 。
シリーズ『出エジプト記』に読む神のご計画
18
『“神に召された一人の偉大な指導者”が誕生すると、奴隷状況にあった一つの民族が解放されて、神の使命に生きる偉大な民族と変わりゆきます。その最初の選びがイスラエル民族にありました』。
今回は『18 実に、うなじのこわい民』①について学んでいきます。
【聖書箇所】 31章18節~32章
「わたしは、あなたの神、主」、「わたしはねたむ神(熱愛する神)」と自己宣言された神は、イスラエルの民に対して全責任を負われる方です。
彼らをエジプトの地から導き出したのは、彼らをご自身の宝とし、祭司の王国、聖なる国民とするためです。
そのために彼らを奴隷の境遇から救われました。
このようなことができる神はわたしの他にはいないという前提のもとに、神は、第一の戒めとして「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない(あろうはずがない)」とされました。ところが、この第一戒、第二戒めが破られる出来事が起こりました。
それが32章に記されている出来事です。
1. 民の要求とアロンの思惑
神と人とが契約を結んだ後に、モーセはひとりシナイの山に登り、そこで40日40夜、山にいて神からのすべて指示を受けます。
「40日40夜」という表現は聖書の中においては、「試みの期間、ふるいにかけるテスト期間」を意味します。
ノアの時代の降りつづいた雨の期間、イエスの荒野での試みの期間など。
その期間に、人々はモーセが山から降りてくるのを今か今かとまっていたのです。
ところが、待てど暮らせど、なかなか降りてこない。これは、めだかの学校の先生がいなくなってしまったのではなく、雀の学校の先生がいなくなってしまった状態です。
強力な、しかもカリスマ的なリーダーが長いこといない状態が続いたことによって、いわば、民全体の求心力が喪失してしまった状態にあったと言えます。
そのような状態に置かれるとき民たちはどうなるのか、ある意味で「試された」と言えます。
これまでも民たちはリーダーであるモーセとアロンに対して何度も「つぶやき」ました。
そのつぶやきは、リーダーの力量や才覚に対する不信を表わしています。
それは同時にリーダーをお立てになった神に対する不信でもあります。
ですから、「私たちをエジプトの地から連れ上ったモーセという者が、どうなったのか(何が起こったのか)、私たちにはわからないので、私たちに先立っていく神を造ってください」とアロンに詰め寄ったのでした。
このときアロンは、民たちのただならぬ気配を感じたのかも知れません。
アロンとともにモーセを支えたもうひとりの協力者であるフルという人物(出17:10, 12/24:14)はなぜかここでは登場してきません。
アロンは民の中から金の耳輪をはずして持ってくるようにと言い、それらで「金の子牛」の像を造りました。
ここで注目したいのは、アロンを指し示す「彼」と、民たちを指し示す「彼ら」の違いです。
アロンを弁護するつもりではありませんが、ただ微妙な違いがあることに注目したいと思います。
まず「彼らは」、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言ったとき、すかさず、アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「あすは主への祭りである」と言ったのです。
つまりここでアロンが言った意味は、自分が造った金の子牛を「彼ら」が、「これがエジプトの地から連れ上ったあなたの神」だということばを正すために、おそらく、金の子牛を台座としてその上に座られる方こそ主だという思惑があったのではないかと考えられます。
それゆえ、アロンは「あすその主の祭りを行う」と宣言したのです。
後にアロンがさばかれて死んでいないのはそのためではないかと推測します。
6節を見ると「翌日、朝早く、彼らは、いけにえを携えてきて、飲み食いし、立っては、戯れた。」のです。
ここにはすでにアロンのリーダーシップは喪失し、いわば、無法状態となっています。
「戯れた」とありますが、原文では「戯れるために(不定詞、ピエル態)、立ち上がった」となっています。
「戯れる」と訳された「ツァーハク」(צָחַק)は「笑う」という意味ですが、ピエル態では、「からかう、冗談を言う、戯れる、愛撫する、いたずらをする」という意味になります。
おそらくこのイメージから、無礼講がまかり通る「飲めや歌え」の大宴会、破廉恥な乱交パーティだったと思われます。
それゆえ、神は彼らを「堕落してしまった」とモーセに語っています。ここでの「堕落した」は「シャーハット」(שָׁחַת)の強意形のピエル態で「腐敗する、堕落する、滅ぼす」という意味で、悪が増大して、その心に計ることが、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった神が、人を造ったことを悔やんで、彼らを洪水で滅ぼす決心した箇所(創世記6:11,12)に使われています。
また、神は彼らを「実にうなじのこわい民だ」と言い放ちます。
「実に」は、原文では「見よ」を意味する「ヒンネー」(הִנֵּה)、そして「うなじのこわい民」の直訳は「首筋の堅い民」。つまり、素直ではない民、強情な民を表わすヘブル的慣用句です。
出32:9/33:3, 5, 9/申命9:6, 13/10:16/31:27などに使われています。