真田丸

若い頃の私は、尊敬する人は誰かと問われて「真田幸村」と答えていた時期がありました。今では「真田信繁」が正しいとされていますがここでは私自身が馴染んできた「真田幸村」で通したいと思います。幸村を尊敬していた理由といえば言うまでもなく大坂の陣における活躍です。関ケ原の合戦で西軍に味方したことで紀州九度山に蟄居となり14年もの間、逼塞した生活を強いられていたところ豊臣秀頼からの援軍要請に応じて大坂城に入城しますが、関ケ原の合戦時には30代前半だった真田幸村は大坂の陣の頃には40代後半だったわけです。武将として最も活躍すべき時期に蟄居生活を強いられ、当時では初老とも言える年齢になって大坂の陣に参戦。大坂の陣では「日本一の兵」と称された程の際立った華々しい活躍をした挙句に討ち死にする。今ここでその生涯を辿った文章を書いているだけでも感動を覚えるものがあります。幸村は大坂の陣の前までは、その実力は未知数とされていたところがあったようです。父の昌幸の名は知られていて、実話かどうは不明ですが「真田が大坂城に入城した」と聞いた徳川家康はがたがたと震え出して「父か子か?」と問い、子の幸村であると聞いて安堵した、という話があります。上田合戦で戦上手の真田昌幸に煮え湯を呑まされた家康としては、大軍を擁する大坂城に昌幸が入場したとなれば一大事だったわけですが、昌幸は既に死去していて入城したのは息子の幸村だったということで一安心、という話です。ところが実際には幸村も父親以上の曲者だったわけですが。実際のところ大坂の陣の前までの前半生で真田幸村はまるで目立った活躍をしていません。徳川軍を退けた第一次上田合戦のときも上杉家に人質として出ていて合戦には参加していなかったようです。真田幸村の初陣は父や兄と参戦した豊臣秀吉の小田原征伐だったとされ、次に参戦した戦が関ケ原の合戦で徳川秀忠を足止めした第二次上田合戦ということになるようです。九度山での蟄居生活の間に父の昌幸から打倒徳川のための様々な教示を受けていたとか日々夜更けまで兵書を読み耽っていたとかいう話もありますが、しかし机上の座学が実戦の指揮にどれだけ役立つのか、といったことを考えると大坂の陣における活躍は幸村のそもそもの武将としての資質によるところが大きかったように思えます。ともあれ、大坂城では夏の陣では、今では有名になっている「真田丸」に籠って大戦果を上げ、冬の陣では寡兵を率いて野戦の名人とされていた徳川家康の本陣にまで攻め込んで家康本人が逃げ出すところまで追い詰めたわけです。徳川家の末裔にあたる人が著書の中で「大坂夏の陣で真田幸村の手勢がもう5千人多かったら歴史は変わっていた」と書かれていました。夏の陣における真田勢は3千人だったと言われていますがその寡兵で徳川家康が逃げ出した程の強さを見せた真田勢ですから、確かにもう5千人どころか3千人多くても家康は討ち取られていたことでしょう。

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