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すべては宮川淳から……

▼本の存在理由はそこに閉じ込められた意味の亡霊にではなく、本の空間にあるべきではないだろうか。鳥の羽のように折りたたまれ、本を開くことによって象徴的にくりひろげられる空間……。そのとき、憑きまとう意味の亡霊から解き放たれて、すでに別の軽やかな意味作用へ、あの「ほとんど振動性の消滅」へと向かってすべりはじめるのでないならば、ここに拾い集められたこれらの過去の断片にとって、本とは苦痛以外のものではないだろう。——『宮川淳著作集I』の帯、『引用の織物』の函裏の言葉

麻布のヒラにアートカンヴァスの背——表紙を捲れば濃鼠色のグランデーの見返し〈夜の鏡〉——薄いブルーのレンケルロイドの扉〈鏡のfilmを斜めに滑る金属の青〉——劈開した白い鉱物の薄片〈感光する鏡のfilm〉が鳥の羽のように折りたたまれたページ……この一冊の《本》。

鏡の裏を仄青い焔の漿液が滑る夜。黒い焔の洪水が溢れる夜——剝離する鏡のfilmに触れて(僕の)手は、微かな痙攣を繋ぐだろう。幾重にも透けて重なる水の皮膜を剝ぐように。

▼そして、ぼくはぼくの鏡のなかに降りる
死者がその開かれた墓に降りてゆくように

劈開した白い鉱物のfilmが鳥の羽のように折りたたまれたこれらのページを繰って、だが、僕はどこに降りてゆくのか。

▼それはここではない、とはいえ他処でもない。どこでもない? とすれば、しかし、それはそのときどこでもないところがここであり、ここがどこでもないところであるからなのだ。

下降——だが、なんという僕の浮力。

20歳の頃、朝日新聞夕刊の文化欄に、1977年、44歳で夭逝された美術評論家・宮川淳の著作集全3巻(美術出版社)が刊行されるという長文の記事を偶然目にした。ブランショ、フーコー、ドゥルーズ、デリダなどフランス現代思想の紹介者であり、ブルトン、バタイユの翻訳者でもあり、「アンフォルメル以降」をはじめ怜悧な美術批評を展開するとともに、清岡卓行、渋沢孝輔ら現代詩人についての詩的批評と犀利なテクスト理論「引用論」を繰り広げるなど、わずか10年という短い執筆活動の間に多彩な領域での業績を残された旨が書かれていた。「この人を読みたい」と勁く惹かれ、まず『宮川淳著作集I』(美術出版社、1980年5月1日第一刷)を購入。その後『II』『III』とともに、まだ書店の棚に並んでいた単行本『紙片と眼差しのあいだに』(小沢書店、1979年9月30日、三刷)、『鏡・空間・イマージュ』(美術出版社、1979.5.15、9版)、『引用の織物』(筑摩書房、1980年1月30日初版第二刷)などを買い求め、その切りつめられた独特の詩的文体に魅了された。

モーリス・ブランショ、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダといったフランス現代思想家たち、ロブ=グリエやソレルスなどヌーボー・ロマンの作家たち、瀧口修造、吉岡実、清岡卓行、渋沢孝輔などの現代詩人、マルセル・デュシャン、荒川修作、加納光於、若林奮、中西夏之、高松次郎などの芸術家、建築家・磯崎新、蓮見重彦、豊崎光一、清水徹などの文学者、作曲家・武満徹……、すべては宮川淳の著書から教わった。以来、『現代思想』『ユリイカ』(青土社)、『現代詩手帖』(思潮社)、『エピステーメ』(朝日出版社)などを読み始め、詩と芸術、現代思想の迷宮をさ迷ってきた。

14歳で萩原朔太郎、宮澤賢治、吉野弘の「I was born」、谷川俊太郎の「かなしみ」に出会い、16歳で吉田一穂「母」を知り、17歳で中原中也に溺れ、18歳から19歳では小林秀雄訳のランボー『地獄の季節』やポール・ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』に打ちのめされていた。「詩を書く」ことなど、私の力量をはるかに超えることのように思われた。そして、20歳、宮川淳との邂逅は、「書く」ことへと私を誘ってくれた。「書く」ことは「読む」ことであり、「読む」ことは「書く」ことであるという囁きによって。

28歳、私は、初めてまとめた長編詩「欄干」を、私淑している稲川方人氏が選者を務められていた1987年『現代詩手帖』3月号に投稿した。これは第一詩集『干/潟へ』(思潮社、2008年1月11日発行)に収めた「欄/干」の原型となる作品。これについては稿を改める。


『宮川淳著作集I』
(美術出版社、1980年5月1日第一刷)


『鏡・空間・イマージュ』
(美術出版社、1979.5.15、9版)
藤松 宏《鏡・空間・イマージュ》のための作品


『紙片と眼差しのあいだに』
(小沢書店、1979年9月30日、三刷)
叢書エパーヴ1
表紙の版画作品は加納光於 


『引用の織物』
(筑摩書房、1980年1月30日初版第二刷)



1987年、書肆風の薔薇による新装改訂版
装幀=中山銀士

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