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フランス紀行 10月編

ぼくは2021年の8月末からフランスに滞在している。

留学のためにフランスのある大きな街で暮らしているのだが、しばらくここで生活して、色々と気づくことがあった。本稿は日記調で、短文の集積になるが、集めて眺めてみると、フランスでの特異な生活が垣間見えると思う。
暇な時に、布団の上で寝る前にでも読んでもらえれば幸いである。


10月A日

滞在先の僕の大学は、しばしば不定期イベントが発生する。今週は、いわゆるイノベーションを考える思考法、「デザイン・シンキング」の実践をしつつ、イノベーションのアイデアをグループで考案するものだった。
日本でもよくあるワークショップというやつである。私見を言えば、そういったアントレプレナーシップだのグロースハックだのみたいな概念のために実践性に欠ける練習会をすることにはなんとも違和感がある。実践性を伴った練習会があるのかといえば、日本ではごく稀にビジネスコンテストや起業経験でそういった感触を得ることができるのかもしれない。いづれにせよ、「イノベーション」を「教育」という現場で教えるということに猛烈な違和感を僕は覚えることが多かった。そして、それはフランスで受けたとしてもほとんど変わらなかった。多くのグループの考えるアイデアは聞いたことがあるものばかりだし、好評価を得るアイデアは、スローガンが面白かったりプレゼンが比較的上手なことによって生まれる表層的なもののように思えた。しかし、本当に頑張れば「良いアイデア」というものが作り出せた授業でもあったと思う。それが、僕が日本で経験したことのあるワークショップとの大きな違いであった。
授業は一つのワークシートを埋めることから構成される。半分がテーマや商品の理解・問題解決対象の理解・ビジネスモデルの理解といった「概念」を構成し、もう半分がすでに社会に産出されている「既知のアイデア」を構成する。「概念」のセクターから推論できる解決策のアイデアを提示する一方、そのアイデアは「既知のアイデア」として存在してやいないか、ということの検証をする。
まさしく、イノベーションとは既知のアイデアで解決不能なものを概念の推論から導くとともに、常に外部の監視を受けながら生成されるものである。僕はこのスタイルのイノベーション発掘は画期的かつ、「イノベーション」という発想の本質をついているように思えた。


10月B日


最近、日本というアイデンティティについて考えさせられる機会がよくある。ぼくはフランスに来て、これまで会ったことも知ったこともなかったような国の人と話すことがたくさんあった。モロッコであったり、コートジボワールみたいな国は、多くの日本人にとって気にもされない国なわけだけれど、フランスという国からみると関係性の深い国々であったりする。
YouTubeで動画をふらふらと見ていたら、成田悠輔という社会データ科学者が「蒟蒻問答」という落語の話をしていた。人間のコミュニケーションを露悪的に表したもので、有名な寺の和尚を真似る蒟蒻屋の店主がそれらしい振る舞いをして、偶然訪れた修行僧に説教をするという話だ。修行僧は、相手の和尚がまさか蒟蒻屋の店主だとは思わずに、それらしい素振りを見て、勝手に意味を解釈する。コミュニケーションとは、良くも悪くも大いなる勘違いの中にあり、僕たちはわかってもいないようなことを、勝手に解釈してそれらしいようにまとめて理解したつもりになっている。そんな皮肉のこもったストーリーのようである。
フランスと日本という2つの世界を見ることで、やはりぼくは、大いなる「誤解」というものに目を向けざるを得なくなってしまった。フランスには、おかしな日本語Tシャツを着ている若者がわんさかといるし、彼らは日本のイメージを東京リベンジャーズや呪術廻戦から着想している。それはフランス経済圏に近いモロッコやコートジボワールも同じようである。いづれにせよ、世界はあまりにも誤解にあふれている。僕たちの視点での日本は、フランス人の視点での日本と、あまりにも異なる。インターネットやグローバルなビジネス世界によって世界は狭くなっているということを実感する一方で、あまりにも世界には国民性や気候風土や文化のレベルで、圧倒的な視座の違いがあり、ぼくたちにとって全く予想外の前提条件が、わんさかと偏在している。だからこそ、グローバルな世界なんてものを僕たちが把握することは本当は無理な話だし、そういったものをあえて概念として差し置くことには欺瞞が生じる。日本は世界の中でどういった立ち回りをしていくべきか、みたいな問いかけや他国をモデルに見習おうみたいな姿勢は日本の中にもあるけれど、日本はそういう視点を取るそれ自体に日本的な感性があるように思える。「日本は遅れているから頑張らなければ」みたいな憂国的精神すらももはや日本的というか、日本は放っておいても日本的であり続け、無限に日本的発酵を続けるんじゃないかとおもう。だから、外の世界を見てしまった僕の気持ちとしては、日本は憂国的精神すらも、中にある欺瞞すらも、日本的なものに取り込まれ、良いようになるんじゃないか、と思っている。
それに、一つの世界しかしらない人たちの欺瞞を嫌ってしまう気持ちがある一方で、その「誤解」を欺瞞として認めおくことによって、ぼくたちは心の平安を保っている側面もあるんじゃないかと思える。それに、他の世界を知ったかぶりする欺瞞、言い換えるならば「誤解による暴力」というものは、あまりにも取り扱いが難しい。ぼくたちは知らないものに対する想像力を働かせることはできるけれど、それが必ずしも誤解を解くことになるとは限らない。だからこそ、ぼくのような留学生は、2つの世界を知ってしまったからといって、そしてその2つの世界の間にある圧倒的な差異に関しての暴力を知ってしまったからといって、その暴力を一つの世界の人々に対して伝播させるべきではないと思う。それはあまり、やさしい選択肢ではない。暴力とは誤解の中に生まれてしまうものだけれども、誤解を解くという方法では暴力は解消されない。誤解に対する一定の妥協というものが必要だとぼくは考える。やさしさとは、正しいか正しくないか、みたいな問題ではなく、どうやったら人々が傷つかないか、ということに問題を捉えなおすことで達成される。皆は、繋がりすぎることで知らない世界に対する誤解をもとに、暴力を与えたり、あるいは暴力をうけて傷ついてしまっていると思う。見えない暴力を考える理由は、見えない暴力を行使してしまわないようにするためではない。見えない暴力があるということがわかってもなお、やさしくいることができるかについて考えるためにある。

10月C日


最近フランスで生活していると、アフリカの存在が気になってくる。イタリアとかスペインとかドイツみたいな周りの国の人々と交流することもあるけれど、それ以上に、モロッコ人やコートジボワール人と交流する機会もあった。モロッコを経由して、アルジェリアやその他のアフリカ諸国の人とも話すこともあった。日本という国はアフリカという世界と一切接点を持っていないけれど、フランスにとってアフリカという地域は歴史的にみても密接な関係がある。植民地時代の影響で、アフリカ圏はフランス語が公用語の国が多い。アフリカのエリート層はフランスに来て先端教育を受けている側面もある気がする。ぼくの好きな哲学者であるデリダも、たしかアルジェリア出身で、フランスの高等教育を受けていたはずだ。いずれにせよ、アフリカという大きなエリアはヨーロッパから地政学的にも近い場所にあるからか、僕たちの考えている以上にヨーロッパで目にすることがある。
フランスという国は、いろいろな意味で日本とは違う成立の過程を経験している。だからこそ、ぼくは日本人として、フランスには学ぶべきところが多くあると思っているし、また学ぶべきでないところもたくさんある国だとおもっている。フランス語とは、英語・スペイン語に次ぐ覇権的な言語であり、数ある国際機関の公用語になっている「格式高い」言語である。英語圏に含まれる多くの国からアメリカへ優秀な人材が集まるように、フランス語圏の多くの国からフランスへ優秀な人材が集まっていることは間違いないと思う。これこそ、あまり多くの日本人が気付けていないことだけれど、言語がインターナショナルに存在することの圧倒的なメリットなのだろう。潜在的に獲得できる優秀な人材のパイというのは、国の人口によってではなく言語圏の人口によって決まる節がある。
いつかアフリカ諸国に行ってみたいという気持ちが強くなった。おそらく、フランスでも日本でもない何か全く新しい世界観であることは間違いない。こういう経験は、やはり他国に出てみないとわからないことなのだと思う。

10月D日

今日は休日ということで、「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」と「閃光のハサウェイ」をネットフリックスで一気見した。とくに理由もないが、いろいろインターネットのコミュニケーションに疲弊したし、目の前の勉強にも疲弊してしまった結果である。
富野由悠季(彼は、機動戦士ガンダムの脚本・監督である)という人の二面性がありありと現れた映画、「逆襲のシャア」はやはり面白い、せまりくる緊迫感というものがある。この映画のキーワードは「ニュータイプ」という言葉と「重力」という言葉である。地球連邦軍に反乱をおこすシャアは、「ニュータイプ」の1人、新しい人類としての自覚がある人である。反乱軍の一員であり、一年戦争の英雄であるアムロもまた「ニュータイプ」の1人であるわけだが、2人の間には大きな意見の隔絶がある。地球に住む人類のスペースコロニーに対する暴政、不平等というのが、彼らの問題意識であり、そういった不平等性を変えるためにシャアは地球に隕石を落とそうと画策する。シャアが言うには、地球人は「重力の呪いにかかっている」というわけである。一方、アムロはこれを批判する。無実の人まで犠牲にして、革命を起こすことになんの意味があるのかと。また、この2人の「ニュータイプ」は奇抜な能力があるゆえに人類に利用されてきた存在であったわけである。だからこそ、シャアの「怒り」とアムロの「諦め」みたいなものが交差している。富野由悠季は日本という国をこの二面性で捉えていたことは間違いないように思える。一面としては革命でも起こして日本を抜本的に変えるしかないと思う一方で、そんなことをしても変わらないという諦めもある。(批評家の宇野常寛が『母性のディストピア』という本でこの映画と日本社会の構造の関連を論じているので、読むことを勧める。)
こういった戦争というテーマをもとに「国家の変革における迷い」を描くストーリーが、「閃光のハサウェイ」にも引き継がれている。ハサウェイは反地球連邦組織マフティのリーダーでありながら、ハサウェイ・ノアという名を隠れ蓑にして、敵軍の幹部と接触をしたり、地元の人々との交流を果たす。マフティとはいわばシャアの意志を継ぐ「怒り」の側の組織である。であるからこそに、ハサウェイはリーダーでありながら矛盾にさいなまれる。マフティの主張はいまならSDGsとかエコロジーの問題に繋がる。「人類は地球の外に出なければならない」というのがマフティの目標なわけであるが、これはひどく単純で、それであるがゆえに陳腐な無理難題でありまたわかりやすいメッセージである。現実でとらえてみれば、今を生きるのに必死な人々にとって、SDGsなどどうでも良いというのが本当のところで、エリートの考えることは常に地面を這いずってがんばって生きている「ふつうの人」の視線を無視している。だからといって、変革を起こさないのが良いのか!といえば、そういうわけではない。単純なメッセージでなければ変革は起きないという真理がある。一方で、単純なメッセージは単純な暴力でしかない。

10月E日

ぼくはひどく休むという行為が苦手である。休日もなにかしてなければ気が済まない。極論、「なにもしないでぼーっとする」みたいなことができなくて困っている。良くも悪くも、気を抜いてなにかをするみたいなことがうまくできていない。だからこそ、ぼくにとって「休むとはなにか」を考えなければならないと思った。
僕は休みの間もなにかしら映画を見たり、興味のある動画をみたりするわけだけれど、潜在的にやらなければならないタスクというものが見えかくれしていて、あまり休んだ気になれていない。
ぼくはなんというか、「決断主義」に囚われている気がする。何かをするときにそれを決断しなければならない、何かを決断することで失われる選択肢を背負わなければならない、という責任を請け負う強い意志。これは僕の根本的な思想に関わる。優しさとは決断における痛みを受け取るためにできたぼくの解決策であり、盾であった。しかし、盾をつくるのにもおそらく「体力」がいる。僕は奇しくも体力が少ない。常にHPが赤いエリアで上下している。睡眠の問題もあるし、常日頃から音楽を聴きすぎて交感神経がおかしくなっていることも原因かもしれない。
昨今の世の中は「休みの間もなにか他のやつより多くのことをやって、生き急いで、頑張った方がいい」みたいな思想が強い。ビジネスだとか就活だとか社交だとかそういうものは全て破壊したくなる。こういう思想をぼくは本田圭佑的思想と呼んでいる。コーナーで差をつける必要は本当にあるのか。とりあえずぼくたちは靴ひもを結んで、転ばないように気をつけた方がいいんじゃないのか。
「今を生きる」というのは、予想以上にむずかしい。それは、大人になればなるほど難しくなることなんだと思う。青春のいいところは、今を生きることができることにある。だからこそ、今を生きるためにぼくはこの文章を書いている。今を生きるために、いま考えている。未来のことを考えるな。過去のことを思い出すな。いまなにをしたいか問え。制限を外せ。社交をはずせ。メガネをとって、肉眼でみるしかない。本田圭佑はサッカーだけしていてくれ。






以上。

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