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内輪ノリと意識高い系について


本来であれば月に一回文章を書くと決めていたのであるが、7月分はしばらく出せていなかった。個人的な事情として、フランス留学が決まり、諸々の準備に忙しかった。しかし、それは別として考えていることというのが減ったわけではない。

ここ最近の日本の世情というのは目まぐるしく変わっていた。特にオリンピックが開催されるということもあり、多くのニュースがコロナの問題を中心に動いている印象だった。

中でも僕が非常にショックだったのは、小山田圭吾に関するニュースである。過去のいじめ自慢記事をネタに、開会式音楽が急遽変更されることとなった。それに続くように、小林賢太郎の過去のユダヤ人差別発言が取り沙汰され、開会式の統括役を降ろされた。いづれも素晴らしいクリエイターであり、開会式のあり方に関する「べき論」は別として、日本の一流のクリエイターたちと言えた。そのような人々が政治の問題、いわば五輪に対して賛成か反対かの二択で区分された政治的分断のパワーバランスによって振り回され、彼らの「制作物が犠牲になる」ということがとても残念であった。いち作曲家・コンポーザーとして音楽作品を制作している身としては、作者の人間性よりも作品の品質に注目してほしいものであった。しかし、五輪というイベント自体はきわめて「政治的な」スポーツイベントであり、その中でこのような犠牲がおきることはしかたがなかった。僕はこの世界における暴力や権力闘争によって、人よりも作品が失われることが悲しくてならない。

けれども、このようなニュース自体は僕の主たる興味ではない。そもそも、一時しか熱を帯びないこのような時事ネタだけで長期的な世界の問題を考えることは難しい。けれど、小山田圭吾の問題しかり、その他の近年の「権力闘争の犠牲者」には共通するものがある。

「内輪ノリの破壊」、僕はそのように呼んでいる。オリンピックの問題といえば、森喜朗元総理の差別発言からはじまっていると思うけれど、この森喜朗の女性差別的な発言も、いわば五輪運営の委員会内における「内輪ノリ」が外に漏れ出したようなもののように思える。小山田圭吾の事件について深掘りすれば、20年数年前の雑誌における連載の中にあった「内輪ノリ」にそのような障害者差別的な傾向があったように思える。
もちろん、ぼくはこの「内輪ノリの破壊」が良くないことである、と主張したいわけではない。というのも、いづれの発言も行動も現代の倫理観からみれば明らかに間違っていることがわかるからだ。そして、それを正すことで救われる今を生きる人々がいることは間違いない。だからこそ、このような問題が浮かび上がり、ニュースとして多くの人々の目に取り上げられることはわかっている。このような現象、たとえばフェミニズムや権利平等、パワハラの廃絶、いじめの根絶、障害者差別の解消といったテーマ、これらをお題目にして世界の問題点を切り出すことは決して悪いことではない。
しかし、僕はこのような内輪ノリによって僕たちの「生きにくさ」というものが増している気がする。言いかえるならば、現代の僕たちが持つべき「責任の量」が増大していっている。小山田圭吾は20数年前の人間とはまったく別の存在になっているはずなのに、過去の言動のためにその責任をとらなければならなくなっている。小林賢太郎も同様である。森喜朗は現代の人というより過去の多くの時代を生きてきた人といえるが、そのような人を「現代の価値観」で告発していると言える(繰り返すが、これは決して悪いことではない)。環境問題に関するモラルであったり、持続可能性に関するモラルについては、いわば「未来の人類のために責任をとる行為」である。アフリカの見知らぬ貧しい人のために水を節約する、これは「今ここ」以外の別の場所の誰かのために「責任をとる」といった行動である。
つまり、僕たちは空間的にも時間的にも責任の量が増えている。しかも、これは「現代の価値観」によってである。これはインターネットやメディアの発達が助長させている側面があるかもしれない。いづれにせよ、少なくとも僕たちは2021年の現代日本を生きているのにも関わらず、日本以外の誰かや過去の行為、将来の出来事まで責任を持たなければならなくなっている。これはとても難しい問題だ。僕たちは中学生時代や思春期の間にふざけてした事や発言にまで責任を持つことができるのだろうか。全員に「黒歴史」といえるような物事が存在しないと言えるのだろうか。そして、僕たちは本当にアフリカの貧しい子供たちの責任をとれるのだろうか。

僕が例に挙げたもの、たとえばいじめ問題の解決であったり、障害者差別の解消みたいなことは、どれをとっても「暴力の抹消」に視点がおかれている。哲学者東浩紀はこれを「21世紀の潔癖症」と呼んでいたはずである。いわば、暴力は潔癖症的な発想でこの世界から消してしまおう、と動いている。ぼくは、この起点に20世紀の第二次大戦以降の近代批判があると思う。「暴力反対」というメッセージは極めて明快である。戦争という大きく悲惨な出来事がまた起きないように暴力に対して反対の意思を表明する。それはとても正しいことだ。しかし、21世紀以降、我々の「責任の量」が増えて行く中で「暴力は抹消すべきもの」として潔癖的な発想にまで極まっている。ぼくはアフリカの貧しい人のためになにかできる自信もないし、青年海外協力隊のような組織にアクティブに参加しない限り、「アフリカの貧しい人々に対して責任をもつ」ということの実感はもてないと思う。21世紀の思想は「想像力を育み、見えない他者に対して責任を持つ」というようなマインドで人々に教育を与えた。日本は先進国だからノブレスオブリージュのような発想を持つべきである、みたいなことである。
くりかえすが、これは決して悪いことではない。戦争のような悲惨な暴力に対し、僕たちは反対の意思表示をすべきである。けれど、この「暴力反対」というひどく明快なメッセージが完全なドグマと化し、中身を失った責任感になってしまわないかが心配である。
日本でタイムリーな問題として「いかに原爆の悲惨さを後世に伝えるか」みたいな問題がある。暴力というのは、経験したものにしかその悲惨がわからない側面がある。それもそのはず、人間というのは、経験しなければわからないことがいっぱいある。だから、現代の価値観に多くある「暴力潔癖症」は完全に暴力を迫害した時、どのようにして暴力の悲惨さを伝えることができるのだろうか。いじめの悲惨さというのは、いじめられることを経験したものにしかわからないと思う。暴力というのは突如として生まれてくるものである。過去や未来では暴力を振るっていると思われなかった物事も、「現代の価値観」では加害者になることもありえる。そしてなにより、そういった暴力は「暴力の被害者」になればいつでも発生しうる。加害者が決められる物事ではないのだ。
すこし極論を用いて反駁を書いているように見えるだろうか。けれど、僕はなによりも「暴力なんて絶対に撲滅できない」「僕たちは暴力と共に生きていかなければならない」ということを伝えたいのである。もちろん、「データとして計測できるタイプの暴力」の数は、これまでの「暴力潔癖症」によって改善されているだろう。そして、それはとてもいいことである。しかし、それ以上に僕たちは暴力を完全になくすことができないことに気づかなければならない。「暴力潔癖症」は、実際の潔癖症が実際的な細菌の量よりも見える汚さを排除することととなっているのと同じように、それは単なる過去に暴力を振るわれた人間の「癒し」でしかない。もちろん、暴力で傷ついた人には「癒し」が必要である。けれど、それ以上に、暴力を知らなければ伝わらない痛みというものがあることにも目を向けるべきである。けれど、これは暴力を推奨するものではない。暴力は、勝手に起きてしまうものである(これこそが、僕の思想における核心である)。だからこそ、その暴力とともに生きていくことが必須となる。

暴力への対処法


人々は暴力に対して敏感である。しかし、ある一定の通念を持っていれば、同じ意思をもてば「被害者を生み出さない」ことができた。暴力に対処する簡単な方法は加害者をなくすことではなく、被害者をなくすことである。そして、そのためにあったのが「内輪ノリ」と言えた。「内輪ノリ」は、一面として、被害者をなくす機構といえた。それぞれの共同体には一定のコードがあり、それによって、良くも悪くも男女差別も障害者差別も行われていたといえる。小さなグループであれば、障害者の存在しない、「同一性」が担保された集団を作ることができる。そうすれば、外部にいる人々を差別しようが、それは一つの内輪ノリとして完成されたはずである。しかし、世界はインターネットやメディアを介して繋がり過ぎるところにまで至った。この結果、内部事情だと思っていたコミュニティの内輪ノリが、外部に「意図せず」漏れ出ることが発生するようになったわけである。外部にそのような「内輪ノリ」が漏れ出れば、勝手に暴力は発生してしまう。被害者が外部世界にどんどんと生まれてしまうだろう。

世界は繋がりすぎることによって、暴力に対して「意識高い系」になってしまっている。差別反対・暴力反対のようなマインドを、僕はある種の「意識高い系」だと思っている。意識が高ければ責任感も高くなる。アフリカの貧しい人々に対して真剣に考えを巡らせたり、女性差別の問題に対して真剣に考えを巡らせている人は確実にいて、そのような人々は「意識高い系」と分類されているはずだ。彼らも一つのコミュニティの中でそういった差別反対のコードをもっていたが、これが現代は世界的に問題視されるトピックとなった。いわば「意識高い系」のマインドによって「内輪ノリ」が破壊され、どんな人も「意識を高くもて」と指南される方へ向かっているのが我々の社会である。コンプライアンスから私的な発言まで、どれに対しても責任を持たねばならない。「私的なノリ」みたいなものも少しずつなくなっていくだろう。現代はどんどんと「意識高い系」になっている。

僕にとって、「内輪ノリ」も「意識高い系」も、ある種の暴力への対処法であったと思われる。「内輪ノリ」は、いわば責任感の少ない場所へ行きたい人々が作った暴力フリーな場であり、「意識高い系」は、本当の意味で暴力を撲滅しようと動いた結果の「癒し」行為であるように思える。
僕はこのどちらもが、ひとりの人間として限界を迎えている対処法のように思える。僕たちはもっと暴力に対して受容の姿勢を見せたほうがいいと思う。そしてもっと「やさしさ」をもって世界と触れ合う方がいいと思う。

「やさしさ」をもって世界と触れ合う。そのことによって暴力の悲惨さに対して敏感になれると思う。僕たちは知らないことへの責任の量を増やしすぎたと思う。知っていることから始めることが重要なはずだ。知っている痛みをもとに、暴力をなくそうとするのではなく、そのような痛みをもって、人々にやさしく行動をする。行動する時にはできるだけ「知っている暴力のない仕方で」行動して、行動を受容するときは「知っているやさしさを感じるように」受容する。それだけのことが人間のもてる責任の十分量であるように思える。そのためにあるのが「やさしさ」という言葉な気がする。

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