見出し画像

『愛と哲学 EP』に添えて


ぼくは音楽を作っている人間ですが、同時に、理系大学生でもあり、フランスに留学している人間でもあり、西洋近代哲学が好きな人間でもあり、彼女のことを愛している人間でもあります。

そんな僕にとって、「自分の音楽で表現するもの」、というのは多様なかたちがあります。
人には人の歩んできた人生というものがあるわけなのですが、ぼくはその中で、音楽に関わるものをたくさん経験してきました。
その過程で手に入れたもの、失ってしまったもの、過去への憧憬や、今ある自分の技術と表現力で伝えられる限界のもの、これら全てをこのEPに詰めよう、と思いました。
「愛と哲学」という言葉にはそんなぼくの意図を込めたうえで、名付けたタイトルになります。
では、ぼくの今回のEPはどのような位置付けの作品となるのでしょうか?

そもそも音楽で表現できることは多様に存在するはずです。というのも、音楽というのはアートの一種だからです。しかしながら、自己表現という尺度において、また作品が世の中に「展示される」という点において、アートは一定の制限を受けます。つまり、ポップさであったり、リスナーが存在するかどうか、といったことです。
昨今の音楽は、高度に好みの分散した世界になっていて、ジャンルやシーンと言われるような名前で捉えられるコミュニティがあって、それらが好きなサウンドであったり、好きなポエトリー、好きなコード感をもとにそれぞれの「民族音楽」を作っているように思われます。決して「音楽そのもの」みたいなものは存在せず、音楽すらない音楽のようなものも存在しています。というのも、ダンスミュージックを制作している作曲家であるぼくのような人にとって、作詞よりも編曲の方が重要度が高くなることは多くあるわけですが、別のトライブ(民族)においては、その真逆の世界観があったりもするわけです。そして、それは民族の中のリスナーによって好みが大きく分かれているだけに過ぎないのです。実のところ、流行る音楽のいくつかは、音楽性だけでなく「PVが面白いか」とか、音楽に合わせて踊れる「振り付けがあるか」、みたいな一見すると音楽の外部にあるようなものが音楽の本質である場合もありえます。つまり、限定的な民族性が世の中の大半を占めているわけではないというのは明らかで、それでこそアートの自由が担保されていると言えます。作曲家の自由な表現は、リスナーの自由な視聴態度に由来しているといえるわけです。
しかしながら、現代の音楽、すくなくともぼくが好んで聞いている日本の音楽の業界に、一定の潮流があることは間違いないでしょう。それに、リスナーに本当に自由な試聴態度を与えられているのかどうか、という問いは、とても哲学的な問題になります。ですので、作曲家がひとえに売れるためには「売れ線」の音楽を作る、つまり、リスナーの多い民族音楽を作るということ以外方法はないのでしょう。

ぼく自身、なるだけ多くの人に自分の音楽を聴いてもらいたいという願望があります。けれども、どうしてもそれだけで自分の音楽を続けられる自信がありません。
なぜぼくが音楽家として曲を作っていられるか。それは「曲を作るのが楽しい」からであり、その根源的なものと「売れ線の曲をつくる」という目的が合致するとは限らないのです。そして、実を言うと、そこを合致させようと思うほど僕は音楽にたくさん時間を割くことができない事情がいくつもあります。大学生として必要な勉強をしないといけないし、音楽以外の方法を模索する時間が必要となる時がある。
そしてなにより、音楽性とは、社会に合わせてつくりあげるものではなく、むしろ、自ら発露するものであります。それは、ひとつの自分の中の思想であるわけです。思想のないインフルエンサーほど無垢で暴力的なものはありません。少なからず、「好きを極める」ことから音楽を続けることの方が、自己表現という側面では役に立つなにかが得られる気がするのです。
実を言うと、ぼくのやりたいことは、「音楽でご飯を食べよう」とか「音楽で有名になろう」といったことではありません。音楽でご飯を食べるつもりなら、いま続けている大学の勉強はあまり意味がないと思いますし、音楽で有名になるためにはあまりにもニッチな音楽をやっていると思うのです。僕は音楽家と自称しているものの、肩書きだけでは語れない多くの経験を踏まえています。その中で、ぼくのやるべきことは「楽しい民族音楽活動」でも「プロの職業音楽活動」でもない、なにか別の道を必要としているのです。そして、それは、どうしても社会のメインストリームに存在するやり方を踏襲していない可能性がある。


では、僕はなにをしたいのか。それこそが、「僕の美学・哲学をこの世界に残存させる」ことです。端的に言えば、僕の思想を人類史のどこかに根付かせるための啓蒙活動です。そのために必要なのは、僕の思想を維持してくれる一定の賛同者と、そういった良き理解者を得るためのわかりやすい文章と、わかりやすい作品です。
『愛と哲学 EP』は、そんなぼくの思想の一端を、上のような社会的な位置付けの上で、できるだけわかりやすく表現するために作りました。
僕の思想は、多くのかたちで「やさしさ」という言葉を扱うことで、表現しようとしてきました。世界には「暴力」というものが、それが目に見えるものでも、そうでないものでも、「被害者」というものを生みだしています。では、「暴力」は無くすべきなのか。ぼくはそう考えません。というのも、暴力は、この世の中のどこかしこにも存在するもので、過去であろうと、未来であろうと、どうにも変えることのできない真実として、暴力は無作為に僕たちの人生に襲いかかってくるものだと思うのです。そして、そんな暴力に対しての対抗策(処世術といっても良いかもしれません)は、「やさしさ」というような寛容な姿勢以外ないと思うのです。そして、そういう要素は、一部の場合において、「愛」であったり「哲学」という言葉に現れることがある。そんな意味をこめて、このタイトルをつけました。

「愛」と「哲学」という二つの言葉には共通項があります。そもそも、「哲学」という言葉は、古代ギリシャ哲学において「智を愛する」という意味であった言葉が現代においてフィロソフィーと呼ばれ、これを明治時代に西周という人が翻訳したものに由来しています。ですから、「愛」そのものと、「愛するという営み」の二者を僕は並立させているわけです。
哲学者が「智者」ではなく「智を愛する者」なのは、哲学者が「考えるということ」それ自体を楽しんでいるからであると言えます。哲学における「愛」とは、ある種、楽しさ・愉快さが含意されているように思えます。
一方で、「智を愛する」ことは常に楽しいものであるとは限りません。時に、難問に頭を抱え続けることもあります。考え続けることというのはある意味でマゾヒスティックで、苦痛に耐えなければならない、という側面もあるわけです。
ぼくの音楽制作というのも、このような「愛すること」に準じた営みのように思えます。時にマスタリング・ミキシングで頭を抱えることがあるものの、曲が完成した時は、なにかと楽しくて、心躍るものがあるのです。僕にとってものごとを「愛する」というのは、苦楽をともにできるほど一緒でありたいものに対してしか行うことができません。それこそが、愛するものと、都合の良いものとの間にある決定的な違いでしょう。








「愛」は人に対しても、モノに対しても、活動に対しても、向けられる心持ちであることは間違いないでしょう。その中でも、僕は音楽に対する「愛」と「哲学」を、このアルバムにこめ、そして、この制作の過程では愛する人や愛するモノの助けを借りました。
そんな「愛」と「哲学」がこもった作品になっています。どうか、是非、3曲だけですから、一度聴いてみてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?