見出し画像

めぐりめぐる2022年欧州21カ国完全制覇の旅

この記事は、慶應理工アドベントカレンダー2022の24日目の記事です。
詳細:https://adventar.org/calendars/7773


訳あって、留学生活を終え、僕は日本に帰ることとなった。しかし、帰る前にできるならば、ヨーロッパを概観してみたい、そんな気持ちに動かされ、ぼくは先月から「ヨーロッパ21カ国完全制覇の旅」に出た。旅の趣旨は、とにかくいろんな国を訪れて、見て、話して、泊まって、食べることで文化的な差異を見つけることにある。そして、ただ国を適当に回るのではなく、世界的な知名度が高く、EUの基軸をになっている国家群であるところの西ヨーロッパ諸国を回る。それが今回の大きな目的である。

この文章を書きはじめた頃、僕はヨーロッパ11カ国を制覇したところだったが、書き終わる頃には21カ国全てを制覇していた。
備忘録を兼ねて、そして、肌で感じたリアルな国に対する印象を忘れないうちにメモしておく。そんな目的のためにこの文章を書きはじめることにした。
写真とともに、ヨーロッパ諸国の所感を書き記していく。読者のヨーロッパに対する理解が深まることがあれば、嬉しい限りである。


1.フランス🇫🇷


1カ国目はフランスである。
というか、フランスで長いこと留学生活をしていたから、この国のことが1番ヨーロッパの中だとわかっている。
この国については言いたいことが本当にたくさんある。良いところも悪いところもたくさん見てきたので、日本人として、各々の街についての等身大の感想をまた別の記事で記したくもある。

とはいえ、ぼくはフランスに長いこと居たというのもあり、他のヨーロッパ諸国を回る際に「フランスとの比較」から考えることが多い。そのことを理解してもらうために、最低限ぼくがフランスについて思っていることを書いておこう。



フランスといえば「おしゃれ」「華やか」といったイメージが多いけれど(そして、それはある一面においては全くもって正しい)、フランスの大部分の実生活というのはそういうイメージとかけ離れている。日本のサムライカルチャーやアニメカルチャーだけに惹かれると日本の内実がわからないのと同じように、フランスの華やかな部分だけ見ていると内実は到底見えないところも確かである(けれど、華やかな部分もあるにはあるし、それがフランスに立ち上がってきている理由もよくわかる)。
フランス人やフランスの文化を語るならば、やはり「自由」と言う言葉に触れざるをえない。フランス人はとにかく自由な国民性があると思う。日本の国民性が「相手のことをおもんぱかりましょう」ということであるなら、フランスの国民性は「あなたもわたしも好きなことをすればいいのでお互い様」みたいな規範がある。日本人からしたら全然グループワークにおいて協調性がとられているように見えないが、それでもお互いに自由にやることを最大限に大事にする。"freedom"というよりかは、"liberty"という感じで、「何かから解放されたい」というよりも、「開放されている権利がある」みたいなニュアンスが強い。現に、フランス的な社会保障の仕組みや社会的恩恵は多分にフランス人を制限している部分がある。それは一見自由を制限しているように見えるが、フランス人がなによりも大事にする「自由」は、「権利をもつ」ということであり、ぼくらから見れば制限されているようなこともフランスでは権利として認められていて、フランス人が離そうとしていない部分だったりする。
「フランス語を話したい」という意志の肥大化が英語を話さない国民性を形作っているようにも思えるし、ロジカルな言語といわれるフランス語は、どんな表現をも「あたかもロジカルな表現かのように」感じる側面が大きい。
ぼくのフランス人の友人は、日本人について「本音と建前があって大変そう、フランス人は言いたいことを言う」と言っていたが、それは大きな彼らの勘違いだ。日本人が本音と建前を使い分けるのは「相手のことを傷つけないように配慮してる」からだ。逆に言えば、フランスの文化において「相手のことを配慮する」という慣習はマジに存在しない。

そんなわけで、ぼくはフランスのいろんな部分を見たし、実際、いろんな都市を訪れた。そして、21ヵ国をまわると決意してからはパリに居住地をうつし、いろいろな国をまわるフェーズに移った。

2.イタリア旅行🇮🇹🇻🇦🇸🇲

イタリアはぼくが訪れた国の中でもかなり長い時間をかけたエリアのひとつである。
イタリアには、厳密には3つの国が存在する。

・イタリア
・バチカン市国
・サンマリノ

この3つの国をもれなく訪れるため僕はイタリア5都市をまわる計画を立てた。

ローマ

パリから格安航空でローマに飛び、イタリア旅行を僕はスタートさせた。ローマといえば、コロッセウムやサン・ピエトロ大聖堂、トレビの泉など、とにかくたくさんの観光地が存在する。これ以後もぼくは多くの国を訪れたけれども、ローマ、そしてベネチアの観光客の量は段違いで多かった。
ローマにはバチカン市国という小さな国も存在する。巨大な教皇の住む聖堂があり、ぼくの訪れた日は教会の入場に長蛇の列ができていた。
ローマはとにかく街並みが古かった。パリやそのほかのフランスの街とくらべても古さが段違いだ。石畳みの道路であってもすべてが古い。古代を感じるのにはとても良かったけれど、一方で、ものすごく膨大な時代の蓄積はローマにすごく重くのしかかっているように思えた。イタリアがレガシーでたくさん飯を食っているのは明白だ。観光業が異常に発達している。そして、観光客がたくさん理由もうなずける。とにかく過去の遺産がすごすぎるのだ。

フィレンツェ

ローマからtrenitaliaというイタリア国鉄を利用してフィレンツェに向かった。乗る予定の列車は20分くらい遅れて発車して、なおかつフィレンツェに到着後はストライキを起こして運行停止までしてた。イタリアのルーズさというものを節々から感じるものだ。フィレンツェにはぼくの友人がいて、彼に会いつつフィレンツェにある名彫刻、ミケランジェロのダビデ像を見るのが寄り道の目的だった。イタリア名物のジェラートをたくさん食べたり、フィレンツェ名物の肉サンドを食べたりと、かなり満喫した。友人の紹介もあって、地元の革製品店でバッグを購入したりもした。イタリアの観光地にはジェラート屋と革製品(バッグ)ショップがいつもある。気候の良さ(しかし少し暑すぎるか)と人のルーズさは並行するものがある。お店も適当なかんじだけれど、フランスよりも人あたりが良いなという感じ。バカンスとして来る場所にイタリアはとても良いのだろう。
ミケランジェロの作品をみるため、アカデミア美術館へ。ダビデ像はとにかく巨大で圧巻だった。やはり、現物でみるとその巨大さがわかる。そして、そのオーラというものにやられてしまった。ミケランジェロがものすごい評価を受けているのもうなずける。とにかくダビデ像は巨大なのだ。数世紀前にこんな天才がいたのかと驚くばかりである。


サンマリノ

フィレンツェで友人と別れ、今度はサンマリノという世界で4番目に小さな国家のもとへ向かう。おなじみのイタリア国鉄trenitaliaでボローニャ駅まで行き、乗り換えでリミニという街に行く。そこから特急バスのチケットを買って、古城がそびえたつ国サンマリノへと向かった。バスはどんどんと山を登って行き、霧がでるほど高い標高にある古城にたどりつく。サンマリノの歴史地区であり、イタリアのタックスヘイブン領域として活用されてきたであろう土地だ。街には高級ジュエリー店が多くみられた。街は本当に標高が高く、その分眺めがとても良かった。城のただ住まいは本当に要塞で、古城という言葉の名にふさわしい場所であると思う。

ベネチア

サンマリノを出て、リミニ駅に帰還、国鉄を乗り継いで、今度はベネチアを訪れた。ぼくとしてはこれ以上にないイタリア旅行で満足していたのだけれど、ベネチアはぼくの予想の上を行った。とにかく街が綺麗、嘘みたいに綺麗なのだ。駅を降り立った時、思わず声が出てしまった。街を歩いているだけで楽しい。ゴンドラの走る水路に、たくさんの観光客が集まる広場、綺麗な海岸線沿い。水の都といわれるのも腑におちる綺麗さだった。また訪れたいなと思うばかりである。

ミラノ



ベネチアを出てミラノまで鉄道で移動する。ミラノはこれまで訪れた街の中で一番ある意味で「ふつう」な街だった。これまで訪れたイタリアの街はどれも観光地として訪れ甲斐のある景色を存分に備えていた。いわば完全な観光都市として機能しており、ミラノがそれ以外のビジネス・商業を担う街のように思えた。たとえばPRADAの本拠地もミラノにあったりするわけだけれど、金融街やブランドショップの発達も顕著に感じられ、それでいて古代の風格が残るイタリア風石畳みの街並みが残っていた。観光都市とは別の形での活気があり、スーツ姿の人々がたくさん歩いているのも特徴的であった。

ここまで触れなかったけれど、イタリアはご飯がとにかく美味しかった。それはぼくが大のパスタ好きであるから、というのもあるかもしれないけれど、それを抜きにしても「安い値段で美味しいパスタが食べられた」。これは日本のお店と近しいものがある。安くても美味しいのは、国民が食への関心を強く持っていてこそだ。



3.スイス・リヒテンシュタイン・オーストリア・モナコ旅🇨🇭🇱🇮🇦🇹🇲🇨

フランスのある街を出て、バスでぼくはスイスのジュネーブという街に降り立った。ここからぼくは四つの国を連続して見てまわることになる。

スイス

スイスという国は非常におかしな体制をとった国だと思う。そもそも、国が3つ(正確には4つ)の文化圏に分かれていて、フランス語圏+ドイツ語圏+イタリア語圏におおきく大別されるがために、多くの標識に三つの言語表記がついている。ドイツ語圏に至っては本国ドイツ語と比べても方言のニュアンスが強いようで、これまた断絶があるとのこと。ぼくはジュネーブというフランス語圏の街からローザンヌを立ち寄り、ドイツ語圏チューリッヒを回ることとなった。

・ジュネーブ、ローザンヌ

ぼく自身、フランス語を日常的に使う街を生きていたからこそ、フランスとは異なる国でフランス語が使われていることに感慨深いものがあった。この後ぼくは同じフランス語圏のベルギーを訪れることにもなるのだけれど、スイスフランス語圏はベルギーよりも魅力的なものがあった。スイスはベースとして非常にコストのかかったインフラが充実している。それは物価が高かったり通貨価値が高かったり(スイスはユーロではなくスイスフランという独立通貨を利用している!)いろいろな理由があると思う。いずれにせよ、そのメリットを存分に受けて国民の満足度が非常に高い生活が与えられているように思う。ジュネーブはスイスフランス語圏で一番大きな街とされているようだったが、なにより気になったのは高級ブティックや高級ブランド店の数と規模である。ヨーロッパをいろいろ回ったけれど、ジュネーブの高級ブランド店の量は目を見張るものがあったし、ビルごと借りられているようなショップもあるほどだった。
ジュネーブは個人的な思いとして、かの有名な哲学者ジャン=ジャック=ルソーの出生地でもあり、その地を訪れたい気持ちがあった。彼の生家跡を利用したカフェ兼博物館が存在しており、小さいながら満足感のある展示がなされていた。哲学好きはぜひ行くべきだろう。そのほかジュネーブを散策して回ったけれど、とにかくまちが綺麗であった。レマン湖のほとりで風景も豊かでスイスの過ごしやすさを感じられた。



ジュネーブから電車で40分ほどでローザンヌという街に着く。ローザンヌはフランス語圏でも大きな街の一つで、オリンピック博物館やバレエコンクールで有名な街である。カルチャー側面の要素が大きく、ぼくもオリンピック博物館であったり旧市街、美術館を散策した。湖に面して自然豊か、かつ公園もたくさん、非常に素敵な街だった。なにより、このくらいの段階になるとフランス語が通じることに安心感があった。ぼくがこの後訪れるスイスドイツ語圏はドイツ語がメイン言語であり、言語が通じないことの困難をこの一年間で多く経験した自分としてはとにかくフランス語圏に親近感を得られたのである。

・チューリッヒ

ローザンヌを出て、電車に揺られ一時間ほど、ドイツ語圏のベルンなどの街を通り過ぎてスイスでも最大級の都市であるチューリッヒに着く。ところでスイスの電車は改札も一切ない性善説に則った切符購入制度が利用されている(そして、このような交通システムは特にドイツ周辺の国家でよくみられた)。切符をオンラインで買ったものの、ほとんどチェックされる機会を得ず、チューリッヒに到着する(ごくたまに切符を切りにやってくる乗務員がいるそうだ)。
チューリッヒに着くと、スイスフランス語圏との違いを大きく感じられた。まず駅構内に参入している店舗のドイツ資本/アメリカ資本化がとても感じられる。フランス語圏にいた頃はDUNKIN'DONUTS(アメリカで有名なドーナツ屋さんだ)なんて見ることはなかったし、ドイツらしいパン屋を見ることもなかった。ぼくがついた日はあいにくの雨で、思うように観光することはできなかったし、祝日だったせいで多くの博物館・美術館が休みになっていた。フランスも休日に全く働かないカルチャーが存在するけれど、ドイツ語圏もそのような休日重視の指向性は強いと聞いていた。しかしながら、観光客としてはちょっとやりにくいものがある。
チューリッヒはまさにスイスのビジネスシーンが大きく動いている場所なのだろうと思った。以前イタリアのミラノを訪れた時と似たようなものを感じた。ジュネーブに劣らずたくさんの高級ブランド店が並ぶメインストリートでは、観光客もさることながら、スーツで身を固めたビジネスマンたちが闊歩していた

スイスは全体として交通面のインフラがしっかりしている。日本に住んでいるとあたり前のように思えるが、ヨーロッパにいるとそれが当然のこととは思えなくなる。フランスではストライキが突然起きたりするのは日常茶飯事だし、時刻表通りに電車やバスや飛行機が来ることは、ラテン語圏の国家になるにつれて怪しくなってくる。そんな中、どんな語圏であってもしっかりとした交通インフラを提供しているスイスは珍しい。周辺国からの影響があるにせよ、独立した個性を持っているのだと感じられる。
一方で、スイスでもまたホームレスのような人の存在が確認できたり、賃金格差を感じられる風景がないわけではなかった。
ここまで触れてこなかったけれど、ヨーロッパの大きな都市にはたいてい物乞いっぽい装いの人たちがいて、たいてい彼らは交通の要所となる大きな駅や人だかりのあるエリアに必ずいる。そして、そういった人々は、その国の失業者であるというよりか、むしろ他国から流入してきた難民・移民であるケースの方がよく目立っている。そして、そういった難民・移民の人々というのは移住した国のサービスを適切に受けられなかったりして(それは言語の壁が理由だったりもするだろう)、最後のセイフティネットのようなものからもあぶれてしまい、ホームレスであったり物乞いのような存在になっていると思われる。
スイスという国は、圧倒的に治安がよければ、街も綺麗に整頓されていたが、そうはいってもフランス・ドイツ・イタリアなどの諸国と隣接している陸の中の国である。さらに、シェンゲン・エリア(パスポート提示をせずとも国交が通じているEU内圏域)に属している上、電車かバスにうまく乗れさえすれば、どんな人であっても流入の許されている国の一つなのだ。これは、どこか遠くの国(たとえば中東であったりモロッコといった北アフリカ圏の国)からの移民がひとたび入ればEUのどこの国にでも行けることを意味する。スイスというクオリティの高い国であっても、どこからともなくやってきた難民・移民を受け入れる必要が出てきているのだろうな、とぼくは想像している。そして、それはEUが巨大な経済圏を作ったり、通貨の一元化、交通の規制緩和をしていることの代償でもあるのだろう(EUの中でもそういったホームレスの姿が見られなかったのは北欧諸国に限る。それは難民移民を「輩出」している国家から距離として遠いことと、単純に外が寒すぎることが理由だとは思うが…)。移民・難民を受け入れること、またEUとして共同体を作っていることの難しさを感じられた。陸続きの国というのは大変だ。日本は島国なのでまったく違う価値観を持っている。

リヒテンシュタイン

チューリッヒからザルガンスというスイスの東端の街に向かう。そこからバスで向かえるのがスイスの隣にある小国リヒテンシュタインである。リヒテンシュタインという国は、非常に小さな国である。言語はドイツ語で、ある種ドイツ圏のタックスヘイヴン的な機能を果たしている国である。ヨーロッパにあるその他の小国と同様、首都のヴァドゥーズ(首都とはいえ小さな街だ!)は、ぽつぽつとブランドショップが街にただずんでいる。有名どころであると、SWAROVSKIというブランドはリヒテンシュタインに在籍を置いている法人であり、ちまたではリヒテンシュタインという国は、国民の数より法人の数のほうが多いと言われていたりする。街はスイス周辺の大自然の中に位置しており、見渡す限り綺麗な山々が見られるエリアだ。街にはいくつかの博物館があり、そのうち切手博物館であったり、国家の君主であるリヒテンシュタイン家のコレクティブが所蔵されているブースもあった。タックスヘイヴンらしく、リッチで綺麗な国家であるなと感じられた。賑わう街エリアから少し山を登っていくと、リヒテンシュタイン家の住む古城が立っており、とても清々しい風景が見られた。聞くところによればここの古城は『ルパン三世 カリオストロの城』のモデル地にもなったとか。大自然に囲まれている国の鮮やかさに心が洗われた。

オーストリア

リヒテンシュタインを訪れたあと、そこまでの道のりを逆戻りしてスイスのチューリッヒに戻ってきた。ここからぼくは寝台列車に乗ってオーストリアの首都ウィーンへと赴く。
寝台列車に乗るのははじめてだった。それもヨーロッパでだ。どんな感じなのか色々妄想していたが、乗ってみるとあっさりなもので、まさにハリーポッターの映画に出てくるような個室の集まりで、自分の買った1番安いクラスの座席は椅子と荷物置きのみで一夜を越える、というものだった。同じ個室には僕以外に3人同乗者がおり、決して寝るのに心地の良い環境とはいえない。正直あまり深くは眠れなかったけれど、とてもいい経験になった。寝台列車はヨーロッパですらコロナを理由などにして廃止されつつある代物だ。貴重な体験になった。
オーストリアはウィーンにたどり着くと、全くの別世界が広がっていた。スイスに溢れていた大自然からは離れて、石造りと近代建築の入り混じった、またラテン系国家の街並みには見られないような風景が広がっていた。トラムがはしる街を歩いて、ウィーンの観光名所を巡った。案外アジアン料理屋が多かったり、意外な面がある一方で、ザッハトルテの食べられるカフェがあったり、音楽の街らしく多くのオーケストラコンサートが街の各所で開かれていたりなど、想像通りの景色も広がっていた。僕の人生においていちばん東のヨーロッパの地平まで赴いたのだけれど、ぼくの思っていたより厳かで、人も親切で、英語も十分に通じる世界だった。オーストリアもまたドイツ語圏の国家の一つであるが、古い景色と新しい景色が綺麗に同居した綺麗な街であった。

モナコ

ウィーンでの観光を終え、1番安い飛行機が飛んでいた、という理由だけでフランスはマルセイユまで格安飛行機で向かった。そこからフランスの新幹線ことTGVを乗り継ぎ、ニースという街まで移動、そこからローカル列車にも乗って、フランスの中にあるとても小さなお金持ち国家ことモナコを訪れた。
モナコはいうなれば「バケーションに最適な国家」という感じである。とても綺麗なビーチ、たくさんの高層ビル、高級カジノで満ちている。F1の大会が行われるような場所だ。綺麗な水族館、綺麗な日本庭園まであった。冬にも近づいていた時期に訪れていたのにも関わらず、暖かな日差しに照らされていて、長くバカンスとして楽しめる場所であるのだと思った。

4.イベリア半島三カ国旅🇦🇩🇪🇸🇵🇹

フランスのとある街からバスに揺られ、ピレネー山脈を半分ほど越える。バスを降りると、ぼくはアンドラ公国という国に着いている。アンドラはフランスとスペインの間にあるとても小さな国である。ここからぼくはイベリア半島にある3つの国家を巡ることとなった。

アンドラ

アンドラとは、フランスとスペインに囲まれた、とても小さくてリッチな国である。言語はカタルーニャ語で、ある種スペイン東部のカタルーニャ地方(バルセロナのあるエリアだ)の延長に位置している。街はピレネー山脈の中に点々としており、街に着くまでのバスからは雄大な自然がたくさん見られた。
街はこれまでになく綺麗だった。おそらくピレネー山脈の中で標高が高く、また空気も美味しく感じられたからだろうか、綺麗な小川と鮮やかな緑の中に綺麗なビルと建築群がただずんでいる。リッチな国ゆえにご飯の値段が高いのかと思えば、その他のリッチな小国とも比べて値段はリーズナブルだ。山々の中にあるからか、人の出入りが難しいエリアである。車がたくさん使われているものの、そこにいる人々もほとんどが地元の住民なのだろう、公園では子供たちがたのしそうに遊んでいた。とにかく住むのに良さそうな地域に見えた。ひととおり街を練り歩いたら、公園でひと息ついてしまった。とてもいい街だと思う。

スペイン

アンドラを出て、これまた小さなバスに乗ってスペインに入り込む。スペインは同じくカタルーニャ地方の大都市、バルセロナに向かった。

・バルセロナ

バルセロナといえばガウディの建築で有名だ。サグラダファミリアに加え、有名なガウディ建築は多く見られる。街はラテン圏らしくすこしずつ雑多な感じが増えてきていたが、スペイン料理は美味しい、安い。地中海にも近く、南国にあるような巨大なヤシの木が多く生えていた。街の交差点は非常に不思議なかたちをしていた。十字路の乱立する道路で、クロスしている十字路の交差点沿いには必ず駐車エリアが存在する。大量のバイク/車に溢れており、どの十字路もとにかく広い空間を用意している。バルセロナは街全体に余裕があり、広い歩道もたくさんあった。人々の行き交いも賑わっていて、街の盛んぶりを感じられた。

・マドリード

  1時間ほど定刻から遅れた高速鉄道にゆられ、バルセロナからぼくはスペインの首都マドリードに向かった。マドリードでは色々な場所を巡ったはずだが、結局のところ大した観光地はなかった。街で一番大きいとされる博物館を訪れようとした時、ぼくはここではじめて人種差別というものを経験した。22カ国、いろいろなところをまわったが、これが最初で最後の(あからさまに)人種差別的な人との出会いであった。
博物館の内容がどうであろうか、ひとまずそばの椅子に座って思案をしていたところ、偶然隣には地元の女子高生たちが座っていた。そのうちの1人が僕に対して「cinos(チノ)」と叫んできたのである。ぼくはスペイン語がわからないから、一度目は僕に対して語りかけているとも思わず無視していた(誰かが叫んでいることなんて、ヨーロッパでは当たり前のことだ)。しかし、何度も、チノチノ、などと叫んでくる。ぼくは同じラテン語圏のフランス語を習得している人間だから、その言葉がなにを意味するかはすぐに勘付いた。ぼくのことを中国人だと勘違いして(そしてスペイン語がどうせわからないと思って)、ただ面白半分に中国人呼ばわりしてきたのである(そして、後でその言葉の意味を調べたら、案の定「中国人」のことを意味していた!)。3回目あたりからぼくはすぐさま気づいて彼女のことを睨んだ。あまりにカチンと来てしまい、思わず中指を立ててしまったが、にらんできたことに気づいた彼女らはそそくさとその場を去っていった。その後も、ぼくはそのような惨めな行為をしてきたスペイン人に対して怒りが猛烈に込み上げていた。博物館なんて行く気が失せたし、その後のスペイン旅行は最悪な気分であった。ぼくには仲のいいスペイン人の友達もいるし、親切な人間のことをよくわかっているけれど、それでもスペインへの心象は最悪だ。つまるところ、ラテン圏の人間は本当に態度が悪い者が多いが、マドリードの奴らは中でも最悪だったのだ。スペインはご飯がおいしかった。ただそれだけだ。ぼくはその時すでに旅行に慣れていたし、あまり舐められるようなタイプの人間には見えていなかったはずだ。にもかかわらず、侮辱的な発言を平気でしてくる人間がいることにとてつもなく怒りを感じた。スペインはダメだ。ぼくはそれを頭ではなく肌で感じている。行くならバカンス地がいいだろう。しかし、そんな侮辱的な人間のいる国にお金を落としたいとも思わなくなった。人種差別の経験とはそういうものである。日本では外国人に紳士的であり続けたい、と心から思うのであった。

ポルトガル

マドリードの空港に向かい、またしても格安航空を利用して、ぼくはポルトガルの首都リスボンに向かった。リスボンは海に面したとても綺麗な雰囲気の街である。海岸近くのエリアがいわゆる旧市街で、ぼくはそこで大航海時代の歴史をめぐる博物館を訪れたり、ベレンの塔と呼ばれる旧時代の城を見たりした。訪れた時、天気はあいにくの雨で微妙な感じだったけれど、海の潮風と大航海時代の遺跡がたくさん溢れていて心地の良い雰囲気だった。一方で、主要産業と言えるようなものが見られず(お土産でプッシュされているのはなんとコルクである!)、スペインのマドリードと比べると大して観光客が見られることもなかった。地方にはバケーションに向いたエリアがありはするんだろうけれど(ポルトガルは場所が良い)、大航海時代の栄華からゆるやかに衰退している小国、といった印象を持たざるを得なかった。リスボンの歴史を振り返る博物館展示を見てはじめてぼくは知ったのだけれど、リスボンは大航海時代末期に「リスボン大地震」と呼ばれる巨大な震災を経験している。地震の少ないヨーロッパにおいて極めて珍しい事象だ。気候であったり自然の影響というのはその土地の文化を大きく変える。ぼくはそのような経験を過去にしたリスボンの歴史についてより一層興味が湧いた。
フランスに帰るための飛行機にはTAP Portugalというポルトガルの航空会社を利用した。なんと、ぼくの乗る予定だった便は一度欠航になるのだけれど、ぼくは数時間後の便にアサインされることとなった。日本じゃあ到底考えられないけれど、特に2022年秋のヨーロッパの航空事情は人手不足でカオスな感じになっていて、遅延がおきるのは日常茶飯事だった。けれど、数時間も飛行機が遅れるのはポルトガルが初めてだった。あまりにレイジーすぎるカルチャーもどうかと思うばかりである。少なくとも、数時間遅れる社会でビジネスは成り立ちにくいよなあ…。

5.日帰りベルギー旅🇧🇪

ベルギーはなんとパリから電車で一本で訪れることができる。これを利用して、僕はベルギー首都ブリュッセルへの日帰り旅行を敢行した。
ベルギーという国は、フランスとオランダに隣接している比較的ちいさな国である。言語はフランス語だが、たいていの店はフランス語とオランダ語を併記している。有名なものといえばチョコレートとワッフルと小便小僧で、小便小僧については本当にしょぼくて何とも言えないものであった。チョコレートは美味しかった。王室御用達のチョコレートが存在するくらいである。有名店のチョコはまあ美味しかった(ただ、ベルギーを訪れてまで食べたいか!と言われたら微妙である)。中心駅はお世辞ありきでもかなりの汚さで、フランス語圏の街であることをよくよく感じられる雰囲気だった。街は「よくある」ヨーロッパ的な建築が多く、実際に博物館で展示を見てみると、歴史的にもフランスやオランダからの影響を受けながら中心都市の建築を建てていった経緯が見られた。
ベルギーには他にも、北のベネチアと言わしめるような美しい街があるらしいのだが、少なくともブリュッセルはそこまで観光地化しているわけでもなく、その上に、難民やホームレスらしき風貌の人間が比較的多い街だな、と感じられた。「自国の言語を持っていない小国」という立場は非常に人材の流出流入が起きやすく、少なくともベルギー人でありながらフランスで働いている人(そしてそのまた逆の人)は多分にいるのであろうと思われた。主要産業が強いわけでもなく、EUのメインオフィスがあったりするものの、国自体が強いのかと言えば微妙な印象の国である。言語の重要性と、地政学的なメリット/デメリットの影響というのは絶大であるな、とワッフルを食べながら思う1日であった。

6.日帰りルクセンブルグ旅🇱🇺

ルクセンブルグもベルギー同様にパリから電車で一本で行くことができる。ということで同様に、日帰り旅行を敢行した。ルクセンブルクは公用語がフランス語である一方、日常会話はドイツ語の方言にあたるルクセンブルク語が用いられている。ヨーロッパのプライベートバンキングなど金融業を誘致することで一人当たりGDPが極めて高いことで有名な国だ。国とはいっても本格的に小さな国であり、小国にありがちなブランドショップがものすごいたくさんあるわけでもない(銀行はたくさんあった!)。一人当たりGDPが高いから、きっとお金持ちな国なのだろうとぼくは想像していたのだけれど、決して簡単にそう判断はできなかった。やはりパリから一本で来れるような国であるから、中心駅がキレイなのかといえば、そうでもない。聞くところによると、外国人でバンキング業務のためにルクセンブルクに流入している人口がかなりいるとのこと。そのせいもあって一人当たりGDPが極めて高い数字を持っているのではないか、という仮説もある。ぼくはいろいろな小国を見てきたけれど、ルクセンブルクに関してはみるからにリッチな国である、というふうには思わなかった。リヒテンシュタインと比べると街は雑多だし、モナコと比べると派手な建物は少ない。銀行業という見えない業種が多いからかもしれないが、ルクセンブルクの色、というのは歩いているだけではよく見えなかった。しかし、ドイツ色とフランス色のミックスされた風景や綺麗な城たちはとても美しかった。ゲーテに関する石碑があったり、高地に位置するルクセンブルク中心街は綺麗なものだった。
ルクセンブルクはフランス語が公用語であり、看板はだいたいフランス語とルクセンブルク語の両方で記されていた。一方で、広告などは大半がフランス語で、フランス資本の優位を感じた。ドイツとフランスはEUの経済的なハブとなっている2国であるが、ドイツは歴史的に虐げられている国であるな、とつくづく思う。国ベースで見ても、「フランス語」というのは非常に強い言語なのであるな、と思われる。元々ドイツの方が文化圏として近いルクセンブルクがなぜフランス語を公用語に選択したのか、そこには興味深いものがある。

7.イギリス・アイルランド旅🇬🇧🇮🇪

フランスで生活していると、いかに英語でコミュニケーション取れることがありがたいか、ということが身に染みてわかる。世の中は、あたりまえだけれど、英語を話していない人の方が大半だ。英語で繋がれるようにしてくれたインターナショナルな世界はとにかく最高だ。英語さえできれば誰とでも話せる、という前提条件を作るのはとても難しい。
そんなわけで、UKに対する羨ましさ、みたいなものをぼくはしばしば感じる。それに、ぼく自身の好きな音楽もUK Club Musicに偏ってたりするから、UKには何度か行ってやりたい気持ちがあった。そんなわけで企画したのがUK+アイルランド旅行である。

イギリス

パリから走る列車の一つに、Eurostarと呼ばれる英仏をつなげる高速列車がある。乗車前に入国審査(UKは残念ながらBrexit前からもシェンゲンエリアに所属していない、つまり通常の入国審査が必要なのである!)を済まして、結構快適な列車でロンドンのキングスクロス駅まで向かった。

・ロンドン


ぼくが訪れた当時は、ちょうどエリザベス女王が喪に服され、葬式前のほとんど店が空いていないシーズンだった。とはいっても、それは特別なタイミングであったと言える。多くのイギリス人が、葬式を見にハイドパークに集まっている様子を体感できたし、ロンドン市警が大量に出動している様子が見られたのも貴重なことであった。ロンドンの簡素な移動は通称Undergroundと呼ばれる地下鉄を利用してほとんど全て済ませられる。これは非常に魅力的であった。オイスターカードと呼ばれる日本でいうSuicaのようなカードが簡単に手に入るし、英語圏国家なだけあって、観光客にも優しい設計が程よくなされていると思った。大英博物館に行ったり、ロンドン橋を登ったり、ザ・シャードと呼ばれるものすごく高い塔にも登った。ちゃっかりキングスクロス駅ではハリーポッターのコンセプトショップに寄ったりもした。とにもかくにも、観光スポットが多い。その点はパリと似通っている部分があり、観光客を受け入れるだけのサービスが量的に多いな、と思った。
後日、ぼくはロンドンを再び訪れる機会があったのだが、2回目のロンドンでも訪問先に困ることはなかった。アビーロードに行ったり、ベイカーストリートにも行った。ミュージカルもたくさん見ることができた。とにかく、ロンドンはアミューズメントが多いな、というふうに感じられた。ヨーロッパの街で1番東京に近い街を選ぶとするならば、それは間違いなくロンドンだ(しかし、もちろんふたつの都市に大きな違いは存在する!)。

・エディンバラ

ロンドンを離れ、ぼくはスコットランドの古都であるエディンバラへ向かった。その際に乗った高速鉄道はなんとHITACHI製であった。日立製の鉄道はイタリアやスイスで見る機会があったが、それでもなお興味深い経験であった。
ロンドンからエディンバラは4時間くらいかかる。東京から青森の先まで新幹線に乗っているようなもので、景色は冬の草原と大自然に様変わりしていた。
着いてみると、エディンバラは古都とよばれるエリアと新しく開発されたエリアに切り分かれており、ほまくは古都のエリアを練り歩くのみとなった。ホテルのスタッフにインド人がいて、英語の発音が圧倒的に理解不能だったことは記憶に新しい(そういえば、イギリスは中国系移民とインド系移民が植民地支配の歴史から極端に多い)。いずれにせよ、街は古き良きスコットランドのレンガづくりの建物が多く、歩いているだけでも愉快なものがあった。バグパイプを吹いている路上パフォーマーや、謎の大道芸を演じているアメリカ人もいた。おそらくロンドンに次ぐ観光地となっていて、街並みはとにかく古き良き感じでおさまっていた。ついハリーポッターのホグワーツ城的なものをエディンバラに対して投影してしまう自分がいる。実際、エディンバラ由来の冬衣装などはハリーポッターの映画中でも着られているようなデザインであった。イギリス名物のフィッシュ&チップスを食べながら、ぼくはエディンバラの街を歩いたわけだけど、大きな大学もあったり、城ばかりが有名なわけでもない。観光だけでなく古くてなお雰囲気の良い格式高い街であるな、と感じられた。

・リヴァプール

エディンバラを離れた後、ぼくは次にどの街に行こうかとても迷っていた。UKクラブミュージックの有名スポットであるSheffieldやBristol、Brightonなどを巡りたい気持ちもあったが、アイルランドまで飛ぶ都合上、ぼくが選んだのはリヴァプールであった。
リヴァプールは、ビートルズ出身の街として大変有名である。逆にいえば、ビートルズ以外の要素で有名な点はほぼない。ということで、ぼくの目当ても、ビートルズゆかりの地を訪ねる、そのこと自体であった。
リヴァプールにはビートルズの歴史、結成から解散そしてその後の彼らの人生まで事細かに説明された博物館こと「ビートルズ・ストーリー」という展示がある。ぼくはここを訪れて、ビートルズのあらゆることについて知ることとなった。
中学・高校時代、まがりなりにもロックバンドでギターをかき鳴らしていたぼくとしては、これはとても特別な体験であった。ビートルズのかっこよさを再び感じられたし、彼らの輝かしい人生が何より眩しい、そしてはかない。
ビートルズのその切なくも美しい人生に想いをはせながらぼくはリヴァプールを後にした。


アイルランド

リヴァプール・ジョンレノン空港に着いたぼくは、アイルランドの格安空港ことRyan Airのボロボロ飛行機に乗り、アイルランドの首都ダブリンへ向かった。
アイルランドは、ぼくからするととてつもなく影の薄い国である。アイルランド語がオリジナルな言語として使われているものの、たいていは英語でうまくいく。イギリスはEUから抜けたが、アイルランドはEUに加盟したままであり、主たる通貨はやはりユーロである。いろいろと興味深い点はあるのだけれど、イギリスの街と比べると圧倒的に暗い街並みである。建物に色がなく、灰色のレンガづくりが多い。治安や人の親切さは申し分ないが、すこし暗い気候と寒さが玉にきずである。
アイルランドの歴史は興味深い。イギリスからの北アイルランド独立問題において、非常に長い間紛争が起きていたことは有名な話であるが、実際にその経験についての細かいメモリアルな遺跡をみると、自分ごととして感じられるものもあった。色々な仲裁の上でいまの形があり、その上でアイルランドはいまもその立場があることに興味深いものを感じている。
気に入ったものといえば、ダブリン近郊にあるGUINESSビールの工場だ。GUINESSは黒ビールとして世界的に有名なアイルランド初のブランドであり、ダブリンにはその作り方やテイスティングに焦点を当てたディスプレイが存在する。作りたてのGUINESSビールを嗜むこともでき、そのおいしさは格別であった(缶ビールで飲む時とは訳が違う!)。
また、トリニティ・カレッジ・オブ・ダブリンと呼ばれるアイルランドの由緒正しき大学内で展示されている最古の図書館を訪れることもできた。ここは映画ハリーポッターの撮影にも利用されていたりと、場所としての雰囲気が異常に良い。なにか、古めかしく摩訶不思議さを放つライブラリーであり、ぼくはこの場所がとても好きであった。随所にアイルランドのモチーフとなってもいるアイリッシュハープの説明があったりなど、勉強になる部分も多くあった。アイルランド人はかつてアメリカに多く移民があった歴史であったり、アイリッシュバーと呼ばれるようなバー文化の走りを持っていたり、なにかとカルチャーの側面で名前が出てくる国でもある。今後また行きたいか、と聞かれたらなんともいえないのだけれど、それでも記憶に残る訪問となった。


8.北欧四カ国旅🇳🇴🇸🇪🇫🇮🇩🇰

ヨーロッパのあちこちを回っていくに連れ、ぼくは北欧というものに対する興味が増していった。「おそらく別世界なのだろう」という想像をしていた訳だが、それは大当たりと言っても過言ではない。ぼくのイメージしていたラテンヨーロッパとも、ゲルマンヨーロッパとも少し違う、別世界のヨーロッパが広がっていた。ヨーロッパはとても広い。学べることはたくさんある。


ノルウェー

当時ロンドンにいたぼくは、英国のBritish Airwaysという飛行機会社の便にのり、ノルウェーの首都オスロを訪れることとなった。
着いた頭からぼくはほかのヨーロッパ諸国との違いを感じた。寒い!寒いのである。そして、各所が寒さに対して対抗していくための暖房設備であふれている。
オスロは、小さくも素敵な、綺麗でこじんまりとした街である。街は案外大きく、しかし、人は寒いからか街中でたくさん見られるわけではない。そんな中、オスロの観光地はある程度限られている。ノルウェーを代表する画家ムンクの作品を大量に所蔵している「ムンク博物館」と、ノーベル平和賞を記念するセンター展示である。ノーベル賞は有名なことになぜかノーベル平和賞だけオスロで受賞がなされる(他の賞は全部スウェーデンのストックホルムで表彰される)。双方とも興味深い展示であった。まだ冬に入って間もない11月の初頭であったが、オスロは十分に寒かった。しかし、綺麗な街並みと、独特な雪に対抗する建築、ムンクの叫び、ノーベル平和賞のいくつかの興味深い展示、どれもが見るに値するものばかりであった。


スウェーデン

オスロからは深夜バスを利用してスウェーデンに赴くことができる。ヨーロッパには高速バスサービスで覇権をとっているFlixBusという業者が存在しており、ぼくも例にもれずそのバスサービスで安く簡単に国境を越えることとなる。
早朝のストックホルムは恐ろしく寒かった。四枚以上重ね着していたものの、寒さは油断すると体の芯にまで迫ってくる。16時には日が暮れて真っ暗になる。ぼくはなるだけ急いで、めあての場所に行くことにした。
まず訪れたのはAVICII EXPERIENCEである。EDM大好き男として、この場所を外すわけにはいかない。北欧、中でもスウェーデンははちゃめちゃにEDMのトップアーティストを輩出した国でもある。AVICIIもその一人だ。彼の人生に音楽的側面から迫る体験型展示場は、非常に心にくるものがあった。エモさに任せて服も買ってしまった。
ストックホルムはその他にも、かつて一世を風靡した四人組音楽グループABBAに関する体験型展示を出している。そこも自ずから訪れたわけだが、やはり興味深く、また昔聞いていたABBAの歌を再び聞きたくなるような展示であった。ここでもまたお土産を買ってしまうくらいにはエモかった。
ストックホルムは大きな産業が生まれた場所としても有名だ。例えば、それはIKEAであったりH&MであったりSpotifyである。巨大産業が立ち上がるためにはたくさんの要因があるだろうけれど、それでもなお北欧がどのようにして少ない人口でこれほどの価値をつくりあげたのか、ということに関しては興味深いものがある。
ストックホルム市庁舎を巡ったり、街中を歩いていても気づいたのは、ストックホルムにおける人種の多様性である。あきらかに地元の住民らしき人であっても、人種の多様性が感じられる。北方の地に国があるということもあり、おそらく難民を輩出しているような国家からの移民が少ないのではないか、と想像している。そして、それゆえか、(オスロもそうであったが)人々の人種的多様性が身なりのレベルまで同じくさせている気がした。さすがに寒すぎるからかもしれないけれど、街中でホームレスのような人間を見ることもなかった。街は比較的整頓されている印象であったし、北欧はどの人も英語が上手だ。小国なりのポジション取り、というのを北欧国家は常にしてきたのだろう。だからこそ、日本の今後を考える上で非常に学びが深い。自然環境が厳しく、そもそも生きることが大変な場所であることも北欧と日本では共通する面がある。北欧エリアではとにかく寿司レストランが多いのも目についた。それゆえか、ぼくは、北欧、ひいてはスウェーデンという国家に対してとても興味が湧いた。


フィンランド

北欧といえば皆はどういうイメージを持つかわからないけれど、ぼくは北欧旅行の中で1番楽しみにしていた場所がフィンランドであった。というのも、ぼくは死ぬまでにどうかオーロラを見てみたい、と思っている節があるからだ。

・ヘルシンキ


ぼくはストックホルムの中心部を少し離れ、東部海岸付近のエリアまで電車で移動した。そこからはなんと、フィンランドの首都ヘルシンキまでをつなげる巨大フェリーの運航がなされている。ぼくはそのフェリーの下等チケットを前もって購入していた。出航の1時間前に出発の船場に着き、ぼくはとてつもなく大きなフェリーに乗船して18時間余りのフェリーでの旅を楽しんだ。フェリーの中は豪華にもレストランやお土産ショップであふれていた。
ヘルシンキに着くと、そこはこれまで訪れた北欧二カ国の首都よりも寒い場所で、海風がとてつもなく身を凍らせた。建物はどこかロシア風の真っ白な建築があったりと、ヨーロッパ風のものにロシア的なものの混在が感じられる、どことなく異質な国であった。フィンランドといえばムーミンが有名である。ムーミンショップを訪れてムーミンのグッズを買ってみたり、ヘルシンキで有名な孤島や、博物館の観光スポットを巡ることとした。サウナが有名な国でもある。ホテルではなぜかサウナサービスまでついていた(そこまで高いホテルではない!)。経験するものの多くがフィンランドっぽいなにかであり、そこにフランスでも日本でも感じられない特異さがあった。人も良ければ、英語もすんなり通じた。皆がやさしげであったから、とても過ごしやすくあった。そんなわけで、ぼくはフィンランドの首都を離れ、今回の目玉でもあったフィンランドの街へ向かう。

・ロヴァニエミ



ヘルシンキ空港はこれまでに訪れた空港の中でも随一のキレイさであった。その空港を出て、北極圏に含まれる、ぼくの人生で訪れた街の中でも一番北に位置しているであろう、ロヴァニエミという街に出向いた。というのも、ここにはサンタクロースの村と呼ばれるサンタと会える場所、そしてオーロラが見える場所があるのだ。
街はとにかく寒い。やはり北極圏なだけある、雪が降りしきっていた。ぼくはオーロラを楽しみに胸を躍らせながら宿を取った市街地へと繰り出した。
結果から先に言おう。オーロラは残念ながら見ることができなかった。オーロラを見るための最低条件はたった二つである。①光がまわりに少ないこと、そして②天気が晴れであること、だ。残念ながらぼくには運がなかった。天気はあいにくの大雪で、空を眺めることはできなかった。ロヴァニエミはオーロラが二日に一回みれるような場所である。ぼくの運の悪さを呪うしかない。諦めて、ぼくは泊まった宿に附設していたサウナを楽しんだ。その上で、次の日にサンタクロースの村でサンタと出会って、写真をとり、満足することにした。
しかし、オーロラが見れないことは本当に残念であった。若いうちにまたチャレンジしたい、北欧でなくとも、北極圏まわりでオーロラを体験しにまた旅立ちたいと思うばかりである。

デンマーク

ロヴァニエミでの悲しみも束の間、飛行機でヘルシンキにとんぼ返り、今度はヘルシンキからデンマークの首都コペンハーゲンへと飛んだ。
デンマークもまた、そのほかの北欧諸国と同じく独自の言語を持っており、独自の通貨を保有している(フィンランドだけはユーロを適用している)。デンマークにいられたのはほんのわずかであったが、自転車道の整備がとてもされていたこと、どことなくドイツ色が他の北欧国家より感じられたこと、やはり冬の寒さはその他の北欧諸国と比べても緩やかそうであること、色々な気づきがあった。食事は美味しいものがあったし、インフラもしっかりとしている。しかし、スウェーデンのストックホルムで見られるほどの洗練さは感じられなかったし、街が綺麗なのか、といえばそうであるとは頷けないものであった(もちろんラテン諸国と比べれば綺麗であるが)。世界三大がっかり観光名所こと「人魚姫」も見に行った。ベルギーの小便小僧ほどがっかりはしなかったけれど、まあそれなりのサイズ感でしかなかった。デンマークはおそらくギネス世界記録の発祥の地で、その博物館も訪れることができた。また、デンマーク発といえばLEGOが有名であり、実際デンマークの各所にレゴ的なモチーフが扱われていた。
一通り色々なものをコペンハーゲンで見たが、それでもデンマークというのがどのような国であるのかあまり見当がついていない。街はやはりストックホルムやヘルシンキが魅力的であった。それと比べると、ヨーロッパの中心大陸と繋がっているデンマークの個性はよく見えない感じであった。

9.日帰りドイツ旅🇩🇪

友人と共に深夜のパリに赴き、そこから深夜バスに乗って12時間。パリからはほど遠いドイツの首都ベルリンにぼくたちは着いた。無泊弾丸でのドイツ旅行である。

ベルリンにいれたのはほんの数時間であったが、多くの出会いがあった。博物館島とよばれるミュージアムの集積しているエリアはとても綺麗であった。マルクス・エンゲルスの大きな銅像が置いてあったりした。ビーガンバーガーを試してみたり、ドイツビールを飲んでみたりした(美味しかった!)。地下鉄は僕の予想を超える綺麗さで、なおかつ中心駅は新宿駅に匹敵する大きさを誇っていた。駅の周りといえばラテン圏じゃ難民・ホームレスの溜まり場になりがちなのだが、ベルリンではほとんどそのような人を見ることはなかった。うまく管理が行き届いているな、という印象を持ったし、実際街にゴミは少なく綺麗な場所だと思った。
ベルリンには歴史のおもむきが残っており、1番印象に残ったのはベルリンの壁であった。壁があったあたりのゾーンに近くなるとすこし街に荒みが感じられ、壁の跡地にはナイスドイツの悪しき歴史についてのディスプレイが長い道のりに展示されていた。突如はじまった周辺でのデモ活動の怒号をBGMに、ぼくたちはそのディスプレイをまじまじと見たものであった。
ドイツという国は冷戦下も国家が分断されていて、ここ数十年でやっと復興した面のある国であることを再確認させられる。そんな歴史の爪痕を感じながら、ぼくたちは再び深夜バスに乗り合わせて、パリへの帰路に着いた。



10.オランダ旅行🇳🇱


フランスのある街から飛行機で飛び、オランダは首都アムステルダムに向かった。一泊二日でアムステルダムの多くを堪能すべく、アムステルダムに住んでいる友人の知恵も借りて多くの体験をした。

オランダといえば、読者の方はどんなものを想像するだろうか。僕が行ってみて感じたのは「自転車・海・大麻・風俗・LGBT」である。
とにかく自転車の数が多い。実際にレンタサイクルをしてアムステルダムを走り回っても感じたことだが、自転車さえあればコンパクトな街をどこへでも行ける。環境にやさしい、というお題目もさることながらアムステルダムという街に自転車は似合っていると思った。
アムステルダムについてすぐ気づくのは自転車だけでなく潮の香りである。実際、生のニシンを利用した料理であったりコロッケの原型となる料理(コロッケは日本がオランダから輸入した料理らしい!)があったりと、非常に興味深いものが多い。
また、アムステルダムには「Coffee Shop」と書かれている大麻を売るお店がいたるところにある(コーヒーを売っているのではない!)。そう、オランダは大麻の販売・使用どれもが合法の国家であり、もはや大麻といえばオランダと言われるくらい、ヨーロッパの観光客は大麻を吸いにオランダへ来る。ぼくも実際に大麻を吸ってみることにした(日本人であっても、オランダで吸うことは何も問題がない!)。というのも、オランダに住む友人からの説明で、もはや大麻はあたり前すぎるものになっているという話があり、しっくり来るものがあったのだ。日本でタバコと酒があたり前に吸われているのと同じように、大麻が嗜まれていることがよくわかる。大麻には大別してアッパー系/ダウナー系と呼ばれる2種があり、テンションを上げるものかリラックスさせるものかで分けられる。自分は友人の買ってきたダウナー系のものを一吸いしただけだが、思わずせきこんでしまった。おそらくタバコを吸い慣れているような、肺にガスを取り込むのに手慣れている人間の吸うものなのだろう。ぼくはうまく楽しめる人間ではないな、と思った。吸ってみるとそれなりの高揚感があり、非常に面白い経験ができた。日本において、大麻はそのほかの危険薬物の入口になるいわゆる「ゲートドラッグ」としての危険性が強く言われているわけだが、やはりカルチャーの異なるオランダで大麻はそういった効能が弱いのだと思われる。そして、驚くべきことにオランダは大麻以外にマジックマッシュルーム(これは流石に危険すぎる!)の販売も自由化していたりする。流石に大麻ほど至るところにマジックマッシュルームの販売所をみることはなかったが、それがそれとして売られていることにはかなりの衝撃があった。
アムステルダムのもう一つの側面といえば、風俗店が街のいたるところに(しかも人通りの多いところに)存在することだ。しかし、日本人が想像するような風俗街とは業態が異なり、娼婦の女性一人がワンルームを借りて取り仕切られるような、独立事業者が複数に乱立している感じだ。特にRed Light Streetと呼ばれる風俗街のメインストリートはセックスショーと呼ばれるような性的なモチーフを扱うパーティ会場まで存在する。ぼくはアムステルダムの夜、友人とともに風俗街を練り歩いた。驚くべきことに、アムステルダムの風俗街は恐ろしく観光地化されており、また、恐ろしいほどにアムステルダム当局によってうまく管理されている。ぼくが訪れた夜は、大量の観光客でごったがえしており、その人気ぶりに驚いたものである。必ずしも観光客皆が風俗サービスを文字通りうけるために訪れているわけではなく、やはり珍しいもの見たさに来ているという感じである。いろんな文化をヨーロッパで経験したけれど、このように公然と風俗街が広がっているアムステルダムには稀有なものがある。実際に赤くライトアップされた個々の風俗店に入っていく人は、地元の常連だったりお調子者の観光客くらいである。いやはや、そうはいってもあの景色は異様なものがあった。Red Light Streetのど真ん中には風俗街を生きる娼婦についての博物館 "Red Light Museum"というブースがある。ぼくも見学に入ったのだが、いかにアムステルダムの娼婦の権利が守られるようになっていて、実際にどのように風俗サービスが行われているのか事細かく展示されていた。なるほど、娼婦とサービスを受ける人間はすごく対等なディールをしている。とにもかくにもあのストリートには異様なものがあった。夜道を歩いていても、当局の管理人が立っていて、交通整理を「ちゃんと」やっていた。
次の日の朝、街を歩いていると夜にはちゃめちゃした後で道端がゴミだらけだったりする。しかし、午前中には清掃トラックがものすごい勢いで街を綺麗にしていく。パリでは街にゴミがあっても誰も綺麗にすることはないけれど、アムステルダムではしっかりと「街の清掃」という概念があることに驚いた。それは、しっかりとした町のコントロールができている証でもある。
じつは、ぼくとその友人は一緒に夜中Red Light Streetで(風俗は経験しなかったけれども)通称「セックスショー」と呼ばれる催し物に40ユーロ払って参加した。その催しは、15分おきに裸同然の男女が入れ替わり立ち替わり、SMっぽいショーをやったり、バナナを食べさせたり、挿入プレイをやったりなんでもありな1時間のショーを披露してみせた。そのショー自体は性的であることはもちろん美的ななにかをも感じさせられて非常に興味深かった。また、演者を茶化すような観客がいると客演の後ろに控えている強面のSPが出てきて観客をつまみ出すようなこともあった。これも、Red Light Streetがとても管理された空間であることを思い知らされた。ある程度通りのメインにある催しに参加したということもあるかもしれないが、観客の方のクオリティコントロールもちゃんとされていることには感服するものがあった。
クオリティコントロールされている証に、聞くところによると、オランダは小児教育の満足度が世界でもトップクラスなのだそうだ。それに、街中で障害者を見たりすることもあれば、LGBTの旗を掲げているカフェも多くあった。驚くべきことに、こんなにもドラッグにオープンな国なのにもかかわらず薬物中毒者のごとき人であったり、ホームレスの存在を街中で確認することは一切なかった。どんな少数派も受け入れている上、そのクオリティコントロールにも成功しているこの国のあり方はとにかく興味深かった。

オランダ、アムステルダムにはフランスやアメリカとは違った特異な「自由」が存在すると思った。自由の表現の仕方が異なる。そして、それは極端に迫害されうるような少数派をも受容している。これは、人によっては大変に住みやすい国なのではないか、と思うのである。小国なりの立ち回りを活かした国のあり方でもあると思う。そんなオランダからは、とても多くの学びがあった。


11.旅をおえて

旅はぼくに多くの学びを与えてくれた。
というか、ぼくは旅すること自体の重要性をそこはかとなく感じられた。知らない他者と話すこと、そして知らないものに触れること。そういった経験自体が好奇心の扉を開く部分があるし、その解像度がどうであれ、未知なる経験は圧倒的にぼく自身の考えを増強させたり、あるいは考えに疑問を提示したりしてきた。いずれにせよ、ぼくはうごくことで何かをつかむことができた。そして、それは世で歌われるような明確なスキルセットではないが、圧倒的にぼく自身の考え方を変革したと思う(良くも悪くもだ)。残念ながら、ぼくには各国をじっくり味わうほどの時間的金銭的余裕はなかった。しかしながら、「訪れる」という目的自体を達成することで、ぼくは少なからず刺激をもらっていた。だから、実を言うと、ぼくは対して旅行のスケジュールを明確に決めていなかったし、ホテルと移動手段だけ確保したら、その場についてから訪れる場所を選択していた。
国というのは、それなりの理由があってこそ分かれている。民族・言語・慣習、それぞれの歴史が絡み合う形で国家の土台となる部分はできているのだと、よとてもよくわかった。日本にいるとどうしても他国の存在が薄くなるが、ヨーロッパは大抵の国が陸続きに広がっている。それが意味するのものを日本という国家はあまり持ち合わせていない側面もあったりする。しかし、そんな中でも国は国としてあるだけの大層な理由を感じられた。カルチャーの側面というのは大事極まりない。そのことに気付かされる契機になっただけでも、思いつきではじめたこのヨーロッパ21カ国完全制覇の旅に達成感をおびる。
正直、ここでは語りきれていない経験がたくさんある。しかし、これで大方まとめることもできたし、この文章を読み直すことで、数年後、十数年後の自分にも、ぼくの成し遂げたなりゆきの道のりを思い出してもらいたい。そんな契機にこの文章がなってもらえれば、それだけでこの文章を書くのに時間を多くかける理由がある。記憶は思い出さなければ意味がない。そして、この体験は今もまだ消化できていない部分があるはずだ。ぼく自身の今後の哲学的成長を含めて、これを資料としたい。読者の方々にはここまで付き合っていただき感謝する。



この文章が長きにわたって保存されることを夢見る。
デジタルにアナログの質感を。


以上。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?