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疑うということへの陰謀論

つい最近から、#clubhouseというサービスが流行しはじめている。
フォローしている人の話している(あるいは参加している)ボイスチャットがラジオ配信のように番組として僕たちのアプリ上に現れ、軽率にもその輪の中に参加できる。自ら配信のルームを作成してラジオ配信のようなものを行うこともできるし、視聴者はそこに挙手することで配信に参加ができる(可能性が生まれる)。コメント欄もなければ、視聴者数も確認しにくいような仕様になっており、音声以外のコミュニケーションは極力切りおとされている。それが幸か不幸か、ホストの人同士の個人的な会話を誘発させている。視聴者にとって、それはまるでカフェテリアで隣の席の人の会話を盗み聞きしているような感覚で、どんなにその内容がくだらないとしても、その興は冷めない。時に話し手は有名人同士である場合があって、その時に僕たちはそれ自体の絡みに熱狂することがあるけれど、本当に僕たちが#clubhouseに求めているものは、話し手に回ったときのコミュニケーションと、聞き手にまわった時のプライベートを盗み聞きできるような特殊な感覚にあると思う。いづれにせよ、#clubhouseは昨今のコミュニケーションを失った現代に対して、一定の治癒をもたらした。そう思う。

なぜこのような話題からはじめたのか。僕はここ最近で#clubhouseにまつわる評判をたくさん聞いた。そこには多くの異論、疑義、熱狂が混ざっていた。現状は招待制のサービスということもあり、とても閉鎖的なコミュニティであることも寄与しているだろう。未知なものは疑いや戸惑いを生みだす。いずれにせよ、僕たちにわかることというのは、このようなことだ。#clubhouseという新しいものに関して、これまでの社会が新しいものに対して示してきた反応と同じように、疑義と熱狂が同時に立ち上がっている

僕はここ1,2ヶ月の荒廃したインターネット社会に多少の戸惑いをおぼえた。僕には決して大きな政治信条はないのだけれど、Twitter上には多くの政治イデオロギー色の強いトレンドが立ち並び、特にそれはアメリカ大統領選挙の影響をうけて、とても強大なものになっていた。それはあまりにもカオスなものに見えたのだった。一方ではあるイデオロギーの正しさを主張するニュースがみられ、他方では、全く別のイデオロギーを信じてやまない者達の主張が立ち現れる。ぼくはどうもこのような問題について考えざるを得なかった。

このようなインターネットの荒廃を、社会学者や多くの知識人たちは「フェイクニュース」「ポストトゥルースの時代」「インターネットポピュリズム」といった言葉で形容する。ニュースの真価を問わずして、イデオロギーの戦いのため、人々の感情を誘うことによって、その勢力争いを実行する。ある知識人はこう言っていた。現代には逆説的に解釈というものが存在しない世界となった、世界には事実しか存在せず、僕らは社会一部分の構成員として、都合の良い事実だけをピックアップしている、と。ある人はこのような社会の意思統合の不能性を「フィルターバブル」とも呼んでいた。ニュースメディアや多くの人の媒介によって、僕らは多くの人間の解釈を通過した情報を受け取っている、と。そこには真実的なものが失われがちである、と。
そのような社会の実態に関する分析を、ぼくはおおかたインターネットのある一面の真実として受け取っている。でも、これはそれぞれに社会を大局的にみた時の解釈に過ぎない、とも思っている。なにがそのような社会現象を引き起こしたのか、という根本的な原因は人々の主体にあるはずだ。ぼくには主体である個人の素性が見えなかった。ある統計結果では、インターネットの誹謗中傷は決して低所得層に集中しているわけでもない、といった内容が示されていた。けれど、そのような統計分析ですら忘れかけている人間の素性としての問題点を、ぼくは普遍的に見出せる気がした。それはある意味で哲学の常套手段でもあり、ぼくがこれから話したい疑うという行為についての考察につながることになる。

「疑う」ということへの「陰謀」論

僕たちは、よくものを疑って生活している。変にお得な情報を売るメールが来た時に、まず僕たちはそれが詐欺ではないか勘ぐるであろう。そこにはひどく凡庸な、でも人間にとって基本的な「疑い」の効能が見える気がする。
かつて哲学者のルネ・デカルトは「我思う 故に我あり」と言った。これは非常に有名な一節であるが、これについて20世紀の哲学者ハンナ・アーレントはある注をつけていた。「我思う」における「思う」というのは、当時ガリレオや後々の世代に登場するニュートンといった科学精神の礎を気付いた者たちの「思う」に近い、と。そのような科学精神において「思う」という行為は、現実をしかと見つめるような真実探究の心に根差している。そのため、これはどちらかというと現実世界を「疑う」ということに近い、と。目の前におきているリンゴの落下という現象について、より真実みのある事実を発見する。そのような現実をのぞむ時の「疑い」こそが、デカルトの称揚した「我思う」である、と。アーレントは最後に、豪快にもデカルトの名言をこのように言い換えた。「我思う 故に我あり」は、むしろ、「我疑う 故に我あり」、であると。

ぼくはアーレントの議論が正しいかどうか、であるとか、デカルトが本当にそのような気持ちで言ったのかどうか、とか、そういうことには興味がない。問題はその「疑う」という行為における一つの効能として、アーレントがあげたような「目の前の現象を疑い、真実をつかもうとする姿勢」が含まれているということだ。
ここでは科学的精神といったおもくるしい言葉で説明されているけれど、端的に言えば、僕たちは、目の前で起きていることが本当かどうかということを疑問視して、より本当の、より正しいものを知ろうとする力を秘めているのである。その力によって、ぼくらはより正しく世界を理解できるという希望を持っている。「疑う」という行為には、そのような世界をより理解可能なものにする役割がある。

でも、このようなことを言ったはいいけれど、ぼくには「疑う」という行為において、相反するもう一つの効能があると考えている。
20世紀にアーレントが科学的精神としての「疑う」という行為を示してから、半世紀以上が過ぎ、現代では「疑う」ということに関して別の意味がたちあがっているような気もする。たとえば、トランプ元大統領が再選するだろう、という願望が仮に僕たちの心の中にあったとすると、バイデン勢力にとって都合の良いようなニュースを見た時に、それがフェイクではないのか、と疑いだすであろう。同様に、バイデン支持の人々に対して、トランプ勢力にメリットのある情報が流れていたとしたら、その情報の真偽を疑うに違いない。このような自分にとって都合の良くないものが現れた時に発生する疑いというものが、僕たちの世界には必ず存在する。こういった「疑い」は、ある意味で「目の前の現象を疑い、真実をつかもうとする姿勢」と同等のものである。かつてガリレオが地動説を唱えた時に、天道説を信じていた多くのキリスト教徒たちは、ガリレオの説について「疑い」を向けた。このような「疑い」もまた、その「疑う」という行為に関する効能を十分に示している。その違いは単なる動機に過ぎない。ガリレオは純粋な好奇心により生まれた、現実の尺度についての「疑い」であり、キリスト教皇らの疑いは、現実において通用している常識と反する物事への違和感から生まれた、現実の尺度についての「疑い」である。ガリレオが信じていたかもしれない科学的精神と、キリスト教徒たちが信じていたであろう聖書の教えが、偶然にも異なる結論を出していた。そのことが問題になっているわけであり、双方ともその行為にいたるまでで同じ「疑う」というプロセスを踏んでいる。そして、そのような「疑う」というプロセスによって現代の問題、たとえば、トランプ元大統領に関するフェイクニュースに対する対応の違いが生まれている。ある人は真実を探そうという姿勢で、そのニュースを疑うかもしれない。ある人は都合のいい自らの信条にあう情報としてそれを受け取るかもしれない。ある人は自分のイデオロギーと反する情報だとしてそのニュースを疑うかもしれない。

ここまでの話を整理しよう。
僕たちは「疑う」という行為によって同時に二つの可能性を手に入れているはずだ。第一に、「疑う」ことで僕たちは世界をより正確に理解することができる可能性を手に入れる。そして第二に、「疑う」ことで僕たちは世界とは少し離れた自分の世界の中にある虚構の世界に迷いこんでしまい、世界をより正確に理解できなくなってしまう可能性を手に入れる。
これを聞いて、もしかしたら第一の可能性はそもそも存在しない、と考える人もいるかもしれない。「疑う」ことは「別のことを考える」ということに過ぎない、のであると。たしかに「疑う」ということはそれだけであり、そもそも本当の世界の真実というものは存在しない可能性が高い。むしろ全てが虚構という可能性だってある。けれど、現状の社会問題や、通説として我々に共有されている社会問題というものをまぎれもない現実だとして捉えることができないのであれば、世界をそもそも善くする、という発想が生まれてこないだろう。ぼくはそのようなある意味ではロマンチストな社会の改善というトピックを信じ続けている人間の一人であるし、そのような信条を持っている人は少なくない、と思っている。だからこそ、このような二つの可能性に切り分けるべきであると思うし、その二つの可能性を理解することで、「疑う」という問題をより明確に理解できるようになると思う。

少しだけ話が逸れてしまったけれど、ぼくが言いたいのはただこの「疑う」という行為によって、人々はとても賢ぶった感じになっている、ということである。僕らには「疑う」という行為をした時に、同時に二つの可能性が立ち上がるわけである。その二つの可能性は、結果的にどのようなものとして受け取られるかはわからない。人の心の中で「疑う」ことの動機は結果的にどちらかの結論を得るはずである。そして、そのどちらもが「疑う」という行為の効能による。
でも、どんな結論に落ち着いたとしても、「疑う」という行為でバイデンを支持している人もトランプを支持している人も、何かしらの結論を得ているわけである。根本的に、ぼくは「疑う」という行為の有用性や偉さといったものはほぼないのではないだろうか、と思っている。別にニュースを勘ぐって見ることが自分の賢さにはつながらない。疑っていたって、そのニュースは真実である可能性も虚構である可能性も、同等に存在するはずなのだから。「疑う」ことによって、誤った結論にたどり着くことがある、というごく当たり前な話によって、僕たちはニュースを疑うことに関してなんの偉さも持たないことはわかるはずなのである。

けれども、ぼくはこの「疑う」ということによって今書いているような現代社会問題について思考を巡らしてきたわけだし、ぼくの思考には幾たびの「疑い」があったわけだから、巨大な「疑い」に起因する誤りの可能性が残っているはずである。それでもこのようにして「疑う」ことの無価値さを主張したいのには、ぼくの今書いている文章にあまり有用性や偉さが存在しないということを伝えたいからでもあり、「疑う」ということがひどく凡庸なものであるということを伝えたいからでもある。
「疑う」というひどく凡庸な行為が非凡なものになるためには、「永遠に疑いつづける」しかない。それこそが哲学者というものの非凡さなのであるが...。

「疑う」ということはひどく凡庸なものである。だからこそ、僕たちは自己に内在するメンタリティやイデオロギー・政治信条やアイデンティティを構成する何か大事なものたち、それぞれの応答にひきづられて結論を導く。それによって、僕たちは「疑う」ことによって自己を飼い慣らすのではなく、自己のアイデンティティに「疑う」ことが飼い慣らされてしまっている。それこそが「疑う」ということの本質的な欠陥である。

じゃあ「疑う」ことに意味はないのか。そのように落胆してしまうことも早計である。ここまでの話は「疑う」ということに対するほのかな陰謀論である。僕たちはそのような陰謀を持つことで、疑うことへの価値が変わるはずなのである。世界はイルミナティに支配されていないかもしれないけれど、支配されているかもしれない可能性を考えることが陰謀論と呼ばれる所以である。僕たちはそのような陰謀論を常に抱えて生きている。そして、そのような陰謀論を払拭すること自体が野暮なことなのかもしれない。

楽しむ陰謀論

僕たちに数少ない本当のものとして授けられているのが「楽しさ」であると思う。純真無垢な全身の熱狂というのは、変えられない喜びのはずである。ぼくたちにはそのような「楽しさ」を大事にしていく義務が、人生の幸福のために存在するはずである。
たしかにトランプ支持者たちは嘘を受け取っているのかもしれないけれど、そこにある熱狂は、なんらかの「楽しさ」を孕んでいる。そして、そのような「楽しさ」こそが全身で純然に喜べるもののほとんどであり、たいていの人にとって、ロジカルな物言いではそのような「楽しさ」を凌駕することはできないだろう。陰謀論とは、常に楽しまれるようなものなのである。
古の哲学者は、哲学者のことを「智を愛する者」と定義した。それは思考で真実探究を永遠に目指し続けることの「楽しさ」を共有できる人にしかわからない真髄を表現している。
#clubhouseに熱狂する人もまた、そのような楽しさに由来している。新しいものに人は「疑う」という凡庸な行為をしがちだけれど、それ以前にあるような全身から湧き出る楽しさや熱中を忘れてはならない。未来予測をしようとして、ロジカルにものをいうこともまた「楽しい」けれど、それと同じくらい、ロジカルでない戯言にも「楽しさ」が存在する。




疑いを捨てよ 楽しみへ浸かろう





以上。

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