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嫉妬を運ぶ仲介業者

本稿は、やさしさの哲学の続編である。直接「やさしさ」という主題に取り組むわけではなく、周辺にあるものから少しずつ核心にせまっていく。

ぼくが今回の議論で念頭に置いているのは、音楽・ファッション・生活でのキーアイテム、そういったものに起きる流行やトレンドといわれる流れのことであり、そのようなものがどのようにして起きているのか、ということである。

古今東西、情報というものは大きな価値を持っていた。古来から戦争においても情報戦としてスパイを用意し、敵側の動かす駒を先読みして駒を動かせば勝利は容易いものであった。
戦術において、情報戦とは戦わずに勝つための有効手段でもあったし、ぼくらはそういった一面としての「戦いの世界」においては情報を武器として用いていたわけである。
今や世界は情報で溢れかえっている。日々ぼくたちは多くのSNSやニュースサイトから分量や信頼度のばらつきがある情報を無作為に受け取っていて、それは少なからず僕たちに意識的にも無意識的にも影響を与えている。
ここ数年になってからフェイクニュースに対する問題意識が話題に上がるようになった。嘘の情報を得たことにより、人々が誤った反応をしたり、誤った行動をしてしまう。そういった社会現象そのものが問題視されている。けれど、そう簡単に解決できる問題でもなく、事態は多くの原因と複雑な事情が絡み合っている。
情報を嘘だと何かしら断定することのできる社会正義があるのに対し、知らず知らずのうちに情報によってマインドコントロールされているかもしれないという陰謀論的見解があるのも確かである。だからこそ、フェイクニュースであると問題を断定することができるわけでもなく、事態は抽象的に形容されるだけに過ぎないものとなっている。

ここで僕の主張を少しだけ挟んでみよう。僕たちは人間が人間によって操作されているという事態を招いている可能性がある。それも、情報という武器によってである。そして、それは聴きたい音楽・着たいファッション・見たい映画・欲しい商品・ほしい食べ物、そういった全ての欲望を増幅させている。一方で、その欲望を嘘だと断定できない状況にしてしまっているのも確かであり、情報とは価値を提供するものとしても機能している。情報を知った人間は不可逆的な変化を起こす。それは良い意味でも悪い意味でも変化しなければならなくなる。そして、その変化は主体的なものなのか、あるいは誰かに操られてなのか、そこが不確定なのである。
もっともシンプルな情報についての世界のとらえ方は、情報を受け取るものと情報を与えるものの二者に分割される。たとえば、作曲家とそれを聞く聴衆の間にはシンプルな情報伝達の関係がある。曲という情報を作りあげた作曲家は、その情報をそのまま聴衆に与える。これにより、二者の関係は好調なものになる場合もあるはずだ。作曲家の音楽を好きになるような人々が、自発的に作曲家のファンとなる。対し、作曲家は自分の好きな音楽を提供することができ、ひとつの幸せを得る。このような世界観において、僕たちは個別の意志が個別に働いているようにみえる。しかし、現実はそう簡単ではない。
作曲家と聴衆にはつねに媒介者を生んでいる。楽曲という情報を販売する仲介業者や、楽曲という情報を評価する批評家など、聴衆の間でのコミニュケーションや作曲家とは別の意志が介在する情報表現が無数に発生する。つまり、シンプルに切り分けられるような聴衆と作曲家がいるはずもなく、その間には無数の仲介業者が発生しているといえる。そして、そのような仲介業者によって現実のニュースの伝搬・商品の販売・音楽の再生数から映画の興行収入まで、幅広く影響を与えているといえる。情報は得てして仲介業者となってしまっている。産地直送の情報は相対的に減ってきている。

ここまでの話を前提に、僕の論点を整理しよう。僕が今回語りたいことは、以下のような話だ。
第一に、情報の能力についてである。情報とは武器にもなるし、価値の提供にもなる。つまり、送り手の武器としてメリットにもなるし、受け手の知見が増えるという意味でメリットにもなる。そして、どちらのメリットが有効か、あるいは双方にメリットがあれば良いものなのか、情報の能力によって変化することを明らかにしなければならない。
第二に、情報の責任についてである。情報によって変わってしまうものを僕たちはどうやって「責任」というテーマから考え直せるだろうか。情報によって失われたかもしれない自由な思考の復元には、何のせい(だれのせい)で起きている、といえるのだろうか。
第三に、ぼくたちは情報をどう受信すればよくて、どう発信すればよいのだろうか。情報の性質が分かったとして、どのように行動すればよいのだろうか。これがわからない限り、何かしらの不毛さが情報受信につきまとうだろう。どのようにしてこの不毛な世界の混濁を乗り越えるのか、これがわからないと、僕たちは思想を読んで自己意識を変える意味がなくなってしまう。
情報信号は伝送する時に必ずノイズが入ってしまう。それでも価値を伝送することができるのには、元の信号を復元する技術があるからだ。情報は意味論からみても多くのノイズが載ってしまっているのだろう。それはある種の仲介業者を経て起きていることでもある。僕たちはそのような仲介業者をやめて、仲介業者のない情報を手にとるチャンスが必要だ。本稿がその一助となれば幸いである。


1.育ちの良さと意識の無意識化

日々の生活で、僕たちはなんの問題もなく知り合いに会えば挨拶をするし、レストランに行けば箸やフォークを使って食事をとる。これはごく普通な生活の行為だけど、そういった所作に正しい行動をとっているかどうか、ということを判断される。人はこのような基準のことを「育ちの良さ」だなんて残酷な言葉を使って表現することがある。箸の持ち方が正しいかどうかとか、名刺の受け取り方が正しいかどうかとか、そんな本質的ではないけれど、細かい所作に価値がおかれる領野というものが、たしかに存在する。情報というものは、知っているだけで社会的な優位性を持つことがほとんどである。それは身だしなみや日々の所作においてすら、同じことである。「育ちの良さ」とは、育ちの良さたる基本的技術を知っているかどうか、ということに由来している。

しかし、世の中には「育ちがいい」といったことを鼻から意識していない人もいる。本当に裕福な家庭に生まれ、幼い頃からしつけを受けていた人は、もしかすれば、何も意識をせずに「育ちのいい」所作を為すのかもしれない。これはどういうことなのだろうか。情報とは武器でありながら、価値提供をなすものでもある。けれど、これは情報を与える側の視点にすぎない。情報を受けとる側はもしかすると、情報を受け取っていることすら気づいていないかもしれない。いや、もっと残酷にいってしまえば、情報を受け取っていないフリをしているかもしれない。そもそも、そのような情報を受けとっていないようなフリをして、平叙の生活をこなすということ、それこそが情報格差を産んでいるように思えるのである。

かつて、仏教学者の鈴木大拙は仏教の修行における理念を「無意識を意識化し、そのまたのちに意識を無意識化する」ものであると言っていた。仏教の理念、たとえば涅槃や八正道から解脱することなどという教義を知り、我々の知らなかった世界(無意識)を意識化する。そして、すでにあった不要な意識を今度は無意識世界に解き放っていく。これはひどく興味深い考え方だと思う。このような理念は多くの人文的な学問分野にもある知見だと思う。世界に対する新しい解釈基準を提供するけど、もう一方では世界に対するガセの解釈基準を無意識化してしまおうとする。「育ちがよく」なるには、「育ちがいい」とされる技術を意識化し、もう一方で「育ちがわるい」とされる僕らの社会的所作を無意識化することが必要になっている。
情報とは、受け入れるのに2段階の変化があるようだ。新たな情報の意識化と、ガセの情報の無意識化。新たな情報を信じ、それに取って代わられた情報を知らないフリする。ここまでがセットになって、僕たちは世界認識を変化させている。そして、そんな「情報を知らないフリする」ことの横行こそに世界のゆがみがある気もする。僕たちの多くは、一度知ってしまった情報を知らないフリすることができるほど、利口な頭で生きているのだろうか。

ここまでで、僕たちは新たな情報の能力について視点を設けることができたと思う。情報の獲得とは、無意識の意識化であると同時に、意識の無意識化を有している。これを通らずに、情報を得るということ、あるいは情報をうけとるということ、それぞれの責任を考えることはできないだろう。ではここまでの洞察から、僕たちは情報にどういう責任を考えればよいだろうか。

2.嫉妬は誰の責任か

ここで、嫉妬ということについて話しておきたい。一見すると、「情報の責任」という主題から離れてしまうように思えるが、嫉妬という日常によくある感情から僕の意図に切り込むことができる。
嫉妬という感情はきわめてあぶなっかしいものである。というのも、ぼくたちは嫉妬に囚われてしまうことが多いからだ。自分よりなにか凄いものを持っていて、そして自分の劣位が圧倒的に示された時、人は嫉妬に狂ってしまうことがある。自分の持っていないものを誰かが持っていた時、人は嫉妬を覚えるだろう。特段、自分と似たような境遇にある人にそのような違いを読み取ってしまうと、人は自分の無力さを感じざるを得ない。多くの場合、嫉妬とは厄介な感情であり、それを哲学的に扱うことは危うさがつきまとう。嫉妬は常に精神の防衛反応として現れる。いわば、自らの正当化のため、言い訳を作るために表れる反応といえる。そのような、精神衛生における防衛反応の「外側」に出て、自らを反省の方向へ誘うことはとても難しい。それに、哲学的な思考がなされようとも、その細かな内実は、嫉妬の当事者には伝達しがたさをはらむ。
しかし、だからこそ、嫉妬について考え直したい。その危うさについて最低限の認識を持つことで、嫉妬をコントロールしたい。そのような心持ちもまた「精神衛生」という観点において重要になるはずだ。
僕は、いまの精神状態が「嫉妬」から距離をとったものなのか、自信がない。けれど、これまでの人生を振り返ってみて、比較的安全な視点から「嫉妬」を考えることのできる時期であると見立てている。これより、嫉妬を使って「情報の責任」を考えてみよう。僕たちは嫉妬にどれだけの思考を回らしてきただろうか。

まずは嫉妬について、より具体的な状況をもとにして考えてみたい。近頃、有名アーティストと有名美人女優が結婚するというニュースが巷で話題になったことがあった。日常生活でしばしば耳にすることがあるニュースである事に変わりはないだろう。この情報に対する人々の反応は様々であった。真摯に結婚を祝福する者もいれば、片方の人間に嫉妬する者もいたはずである。この反応の多様さは、各々の興味関心だけでなく、彼らの境遇にも因ることは間違いない。片方の人間に強い思い入れのある者は、己の願望が「裏切られた気持ち」になりうるだろう。他方で、あまり関心のない人間は軽く祝福するか、あるいは無関心のままであろう。いわば、その人の立場によって持つ感情も、「嫉妬」の強度も異なる。嫉妬とは、弱ければ「うらやましい」といったニュアンスに過ぎないが、強ければ「裏切られた」というニュアンスにまで達する。よくよく考えてみると、嫉妬には複雑な問題が絡んでいる。というのも、「嫉妬」には必ず「所有」の観念が関係しているようであるからだ。「うらやましい」と思うのも、「裏切られた」と思うのも、それは当事者がそれを「欲しい」「所有したい」と思うからこそである。「嫉妬」する人は、何かしらの実体を「所有したい」あるいは「所有した気になっている」という前提が存在している。そういった欲望に対して、新たな情報が揺さぶりをかけることで、人間に「嫉妬」という反応が生まれているように思える。
「嫉妬」には、対象に対する「信頼」という感情が決定的に欠落している。僕たちは、相手を信頼することができれば、すぐにも「嫉妬」を解消することができる。相手や対象のことを「所有物」としてみなすことなく、対等に扱う、それこそが「信頼」するということだ。しかし、情報を受け取っているばかりでは、このような「信頼」を獲得することは難しい。これは情報の特性ともいえる。情報には「信頼性」がない(僕は情報の工業的な側面や技術的な側面について語っているのではなく、情報の意味論的な側面の話をしている)。そもそも、「信頼」というのは相互的なもので、お互いが認めるということがない限り、信頼は相互に獲得できない。しかし、情報は不幸なことに一方的に受信者の心を揺さぶるのみである。そこに「信頼」を見つけることはむずかしい。

なぜ人は嫉妬するのか。表面的な理由を探りあてるとすれば、それは各々の立場に起因するだろう。心的距離が近いものほど、手に入れられなかった時や、手に入れられていないことを見せつけられた時の嫉妬は大きくなる。しかし、その根底にある理由を引き出せば、「情報の責任」というものを導ける。僕たちは、芸能人の新婚ニュースを真に意図して手に入れているわけではなく、不可抗力に情報として受容してしまっている。情報は、僕たちを勝手に揺さぶりにかけている。そこには、「信頼性」がない。いわば、僕たちは情報のことを「人間」や「対象」と同じように扱うことができていない。情報は無形なもので、僕たちにただ一方的に揺さぶりを与えることばかりしている。だからこそ、「情報の責任」というものを据え置くことが大事なように思えるのだ。果たして、嫉妬することは、嫉妬する者の責任なのだろうか。往々にして隣人同士の喧嘩が情報伝達のミスによるものであるのと同じように、トラブルの原因をトラブルの発起人に求めることが正しいものとはいえない。情報という「信頼性の低い」ものに対しても、責任を要請して良いはずだ。

今回は「嫉妬」を題材にして情報の責任を照らし出してみた。けれど、これはあくまで情報が運ぶ感情の一つに過ぎない。情報は感情を揺さぶる。そのような根源的な人間の原理に立ち戻って、ものごとを考える必要があったのだ。

3.暴力と癒しの二分法を破壊する

前節を経て、僕たちは情報に一定の責任を導くことができた。「信頼性の低さ」である。では、このような責任を追求して全てを情報のせいにしてしまえば良いのだろうか。現実はそう簡単にはいかない。「責任」という観念は、社会契約を成立させるための重要な前提条件であり、それを完全に無形のものに押し付けることは社会が許さない。しかし、このような情報に対する「反省」は、僕たちの情報に対する姿勢を再考させる。情報は、結局のところ僕たちにどのような課題を強いていて、僕たちはどのようにこれを乗り越えなければならないのだろうか。

僕は、情報の本質的な責任に「信頼性の欠陥」をおいた。それは、情報を得た人間のもつ能力の視点からも同様に考えられることである。情報の獲得とは、無意識の意識化であると同時に、意識の無意識化を有している。けれど、これは信頼性を気にせずに、武器として情報を自分自身と同一化させた場合のみである。いわば、情報に対する人間の反応は、感情が揺さぶられるか、それをうまく利用して武器としてしまうように同一化するか、そのどちらかになってしまっている。情報には根源的な暴力性があり、情報を発信するものも、受信するものも、暴力⇄癒しの二分法に陥りやすくなってしまっている。
受信者は、情報を介して傷つくか、癒されるかという二分法にあるし、発信者は情報を介して傷つけるか、癒すかという二分法しか残されていない。情報発信者は常にマウントを取って誰かを傷つけるか、ネコ動画でもあげて誰かに癒しを与えることしかできなくなってしまっている(世界は暴力とその治療の二分法では語ることができない部分がたくさんあるにもかかわらず!)。
僕たちはこの二分法を破壊するために、情報に新たな役割を与えなければならない。それは、もっと「信頼」のできる、「やさしい」情報としてあるべきだ。情報というのは、武器でもあり、感情を揺さぶるものでもあるが、それと同時に親しみやすいものでもあるはずだ。僕たちは、もっと情報に対象としての「親しみ」を与えなければならない。それこそ、「信頼性」を少しでも与えなければ、感情が揺さぶられ、あるいは所有物として、武器として、無意識に取り込まれてしまう。情報は、もっと「やさしく」あるべきだ。生きるためには、情報は日々接しなければならないものだ。そういった情報は、決して武器でもなければ感情を強く揺さぶるものでもない。親しみやすく、「信頼」のある情報である。いわば、伝統や慣習と呼ばれているタイプのものである。そのような情報には強いやさしさがある。そういった情報は、強く疑うことすらあまり意味がない。良くも悪くも、感情を強く揺さぶらないし、誰かの武器になることも稀である。そのような優しい情報を優先しなければならない。僕たちは無作為に情報を与え続けてしまっているし、無作為に情報を受け取り続けてしまっている。現代社会はなおさらそうだ。「やさしさ」とは、そのような社会を生存する一つの方策になる。僕たちは、情報という仲介業者に対してうまく接していかなければならない。仲介業者もいろいろあるけれど、できれば土着の仲介業者に頼ったほうがいい。それこそ、精神衛生のためになる。やさしさに包まれた人生の方が、僕は心地がいいと思う。情報を疑い続けることも疲れる。全てに疑問をもつという姿勢よりも、土着の情報に触れることの方が重要だ。情報は不可抗力に手に入る時代になってしまっている。今を生きるということは、やさしさをもって世界の親しみやすさに触れることに違いない。この文章もまた、そのような「やさしさ」に読者を誘うための案内に過ぎない。


皆が最後にはやさしくあることを祈って。

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