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哲学的生活習慣の変更・実践


すこし前に、右翼系国会議員の杉田水脈氏が「生産性がない」といった趣旨でLGBTを論じた際、各所で相当の批判がおきていた。そんな時、よく「LGBTに生産性はありますよ」みたいな根拠からひっくり返す批判というのをみることがあった。
ぼくは、こういうタイプの批判というものは、あらゆる議論において参考になるし、一考の余地が残される視点だな、と思っている。というのも、概してそういった批判は全く別のイデオロギーを後ろ盾として議論をすすめている。議論というのは、それなりの文脈と根拠というものがさかのぼれる。社会の問題の複雑性は、このようなイデオロギーが無数にあることでおきているに違いない。

ところで、ぼくは今フランスのとある大学(修士も兼ねている)で勉強をしている。専門は理学・工学だが、フランスでは一般教養の範疇として、経済学や簿記も学習する。つい最近、GDPに関する学習を行なった。
GDPといえば、日本語で「国内総生産」と訳されるように、日本が年間で総額どのくらいの生産性をあげたのか、その指標を表している。
日本の衰退、とくに全体人口の減少や高齢化に起因する労働人口の減少について、日本はひどくマイナスのイメージを持っている。そういったイメージを引き出す際に、よく取り上げられるのがGDP成長率だ。他の先進国の成長率と比較して、日本の成長率はとても低いと言われていることは読者のみなさんも知っていることだろう。
ぼく自身、これについてそこまで疑いの念を持ったことはなかった。しかし、先日うけた講義でひとつの学びがあった。GDPは国家の価値について、必ずしも適正な評価できているわけではない。というのも、GDPはその年に生産された物品の総額である。いわば商品の価格であり、単なる量的な評価だ。GDPという指標は、「各生産物のサービスやクオリティについて評価できない」という決定的な欠落を有している。
この視点をもつことすらなかった自分の無知さには驚くばかりであった。というのも、ぼくはこの視点を受け入れられるだけの経験的な感覚を持っていた。
ぼくはこれまでに、今いるフランスでの生活や、少しの間滞在していたアメリカでの生活で、少なくとも日本の方が商品のクオリティも味も高いものであると感じていた。同じくらいの値段の商品なのにも関わらずだ。サービスにおいても、同じ値段で買ったツアーやイベントでも、クオリティや礼儀の面で、圧倒的に日本の方が洗練されていることを知っている。しかし、GDPという指標だけで見たら、あるいはGDP成長率のような指標だけでみたら、そのクオリティについての視点は知らず知らずのうちに抜けおちてしまう。
けれども、「日本はクオリティの高いサービスをしててかつ品質が良い、日本はGDP成長率で負けててもすごい国だ」みたいな結論を導くためにこの話を参照してきたわけではない。もちろん、GDPだけでは測れない国の良さというものはあるだろう。また日本の成長率が上がらない理由に、計測不能なクオリティの部分、あるいは日本人の国民性といったものが関わっていることも考えられるだろう。けれど、そういった日本の今後に関する憂いをここで考えようと思っているわけではない。むしろ、ぼくはこのような「ある指標では測りきれないもの」という事例そのものについて考えたいのだ。

生産性の外側の評価軸、あるいは社会との接続点

ある指標では測りきれないもの。
GDPでいえば、ぼくたちは生産性という視点の外側にある労働者のマインドセットや、サービスに求められているクオリティというものを知らない。いわば、全く知らなかった別のイデオロギーであり、それもまた社会の中にしかと存在する評価軸なわけである。
ぼくはこのようなものを「社会との接続点」と呼びたい。GDPという指標にとらわれていると、生産性の外にあるまた別の評価を忘れてしまう。しかし、ある時に別の経験をして、僕たちは「GDPでは見落としている別の視点というものがあるじゃないか」と気づく。こんな時に、確固とした新たな評価軸を採用するわけでもないのだけれど、自分が信じていたイデオロギーの外側になにかもっと有望な視点があるじゃないか、と気づくわけである。これこそが社会という僕たちの外側にある多くのものごとについて接続するきっかけをあたえている。

外側があるんじゃあないのか」と気づくこと。それ自体の価値は実際のところわからない。というのも、そういう価値の重要性を説いても、外側になにがあるかわからなければ、重要性を説く理由もないわけである。また、それと同じくらい、外側の評価軸がわかったからって外側の評価軸を重要視することもなにがしかの違和感があるのだ。
ぼくは今、留学生としてフランスで生活をしていて、日本の常識では見られないような社会の風土というものを感じている。だから、フランスでの生活が日本のスタンダードよりも当たり前なものになりつつある。日本の世界において当たり前なものの外部に、フランス的なものがあることを知ったのである。ところで、ぼくはこの「知ってしまった」フランス的世界を日本の世界におしつける道理があるんだろうか。ぼくとしては、自分にとっての外部たるフランス的世界を明確に認識したとしても、その外部性を日本に持ち込むことにはなにかと抵抗感がある。
SDGsという概念についてもそうだ。
SDGsとは、国連の採択した環境問題・世界的な不平等問題などを改善するために提案された14個のルールである(正確な説明は各位で調べていただきたい)。ぼくはこのような仕組みは西洋主導の、資本主義システムに環境対策を動員する仕組みとして、おそらく欧州の土着性があるはずだと思っている。それが国際的な環境対策の旗印となっていることに、どうも違和感がある。近代化・西洋化のような巨大な文化侵食が前提におきている取り組みのように思えてならない。というのも、ヨーロッパにおけるグリーンエネルギーの実装や環境対策の実践は、民主的な市民の主張やそれらの声を原動力とした欧州の政治手腕によって実現されている。資本主義市場という、放っておくと環境破壊の方向へ進むシステムに、民主主義の力で環境問題の仕組みを「接続させた」という具合に見えるのだ。これは、欧州にある圧倒的な市民の環境対策に対する同意をもとに実現されている取組みであり、そのような前提は、はたして欧州以外の各国にも共通するのだろうか。中国のような共産主義国家のシステムに、このような取組みがそのまま受け入れられるだろうか。そんなことはないだろう。日本についても同じことが言えるんじゃあないだろうか。もちろん、環境問題や世界的な不平等は解消されるべきである。ただし、同じ手段を共通して実践することの有効性があるとは限らないだろう。だからこそ、ぼくたちは本当の意味で環境問題とか社会問題を解決するために、自分の世界の中にとって1番有効な方法を模索するしかない。たとえば、海外にはない習慣として、日本にはゴミの分別・リサイクルのためにベルマークを集めるみたいな文化があって、そういうものは図らずとも多くの日本社会の個性を形作っているだろう。ヨーロッパにはないやり方での環境への配慮は当然考えられうるはずだ。

ここまでの主張だけを見ていると、ぼくはSDGsやその他の海外の文化を日本に持ち込むことに反対しているように思えるかもしれない。けれど、ぼくは決してそう考えているわけではない。SDGsのような国際的な指標は、日本に当然流入される。そして、それはある意味仕方のないことである。それこそがぼくの考え方の核心であり、よくわからない自分の世界の外部にあるもの、「社会の接続点」に対する妥協であり受容である。僕にとって、こういう外部からの侵略というものはしょうがないものなのである。どうしてしょうがないかといえば、暴力は世界に偏在していて、知らない間に暴力を受けていることは普通であるからだ。だからこそ、僕たちは外部からの侵略をも受け入れた上で、自分の世界における最適な道を見つけなければならない。

経験に訴えかける

ぼくはここで国家という非常に大きな共同体を例に「自分にとってベストなやり方をつくる」ということの重要さを唱えた。もちろん諸外国から影響を受けるかもしれないけれど、日本はそれを受け入れた上で自分の世界の最適解を見つけるべきだ、というように。
これは、そのまま僕自身の一人の人間としての思想に、相似の関係がある。どうもぼくにとって、世界は、暴力の偏在するしんどくてつらいもののように思えてならないのである。だからこそ、そのための忍耐のようなものを鍛えねばならない、というふうに考えが続いていく。
しかし、この考え方は、あくまで僕の過去の経験や、それをどのように打破してきたのか、という僕自身の成功体験などに由来する部分が、確実にあるだろう。それは、僕がどんなに否定しても浮き上がってくる批判のひとつとなりうる。いわば、ぼくは、読者の中でも、同じように世界の暴力性を痛切に感じ、そして、その痛切さをもとに共感してくれる読者に対して、その各々の経験に訴えかけている部分があるんじゃあないだろうか。
こういった哲学の手法には、「経験に訴えかける」という面において、限界があるんじゃないだろうか。そんなことを思う。どんなに頑張っても、僕たちは人の気持ちを分かり得ない場合がある。大抵の人は、学校や職場でそういった意思疎通のできない人との出会いを経験したことがあるはずだ。しかし、もちろん分かり合える時もある。そして、それはその人の経験に訴えることによって共感を形作っている(僕のこの主張自体も、僕の経験を、記憶の引き出しから取り出して、読者の記憶にそんな経験がないかどうか、語りかけているだけにすぎない)。
経験というものの外に出ることのできない人間は、どうやってそこから離れた思考をとろうとしたのか。それこそがメタ認知的な思考法として表れてくるものだろう。経験を共有していなくとも、思考の経路はその場の議論において追従できる、といった具合に。古来から哲学はこういった議論をよくしていた。こまかい内容には触れないけれど、ある一定の結論として哲学でいわれているのは、「経験がなくても僕たちが議論の上で共有できるのはロジカルシンキング」ということだ。要は「経験する」という自分の世界の外部に触れるための構造を自己認知の内部に反転させることで、その認知の仕方をブラックボックス化して、そしてそれを一致と見なす、みたいなことを行っている。これを簡単に表現するなら「メタ認知的思考」とか「メタ的思考」という風にいえると思う。
でも、メタ的思考って本当に意味があるんだろうか?
ここで「社会との接続点」という話題に戻りたい。僕たちの世界の外側に、なにがしか自分の知らない評価軸があるんじゃないかと疑う、それ自体はかなり「メタ的思考」と言えるわけだけど、ぼくは、そんなメタ的思考すらも一つの経験に由来しているように思える。というか、「社会との接続点」に人がたどり着く時、なにかしら人生において重要なイベントが起きて、考え方が変わるからそういうメタ的思考にたどり着くんじゃあないだろうか。メタ的思考は、同じ経験をふやかして、べつな風に解釈しているだけだと批判されたら、どうだろう。ぼくたちは、そんな批判に対しては黙るしかない。
メタ認知的な思想の変更は、経験を固定した上で僕たちの内部を変遷させている。いわば、外部から受けた暴力をどうやって受け入れるか、という領野である。これはこれで意味がある、とぼくは信じたい(なぜなら、ぼくは哲学が好きだからである)。だけれども、本当に変えるべきは、ぼくたちのまわり、環境や社会といったものにほかならない。思考を変えても、現実が変わらなければ、厳しいものは厳しい。それでも、どうして環境に関与していかなければならないのか。その核心は「経験の問題」である。経験しないと、伝わらないこと。経験に訴えかける、ということができないことこそが、問題の根幹にある。だから、ぼくたちはどうにかして、おなじ経験を押しつけていかなければならない。それこそが、哲学に意味を与えるんじゃないだろうか。
ぼくは、こういうことを一人の人間として実践していきたい。メタ的思考が、外部からの暴力に対する内的な妥協だとすれば、やさしさをもって社会に打ちでることは、哲学的な生活習慣の変更をもたらす。生活習慣という日々のルーティーンを哲学を持って変更していく。それこそが、せっかくこねくりかえして考えたメタ的な思想に実効性を与える。これをぼくは「哲学的生活習慣の変更」と呼ぶことにした。

ここまでで、ぼくは僕自身、あるいは一個人のマインドセットに注力して、思考の流れを書いていた。けれど、ぼくの思想はそれ以上の射程をもっていると信じている。むしろ、社会における思想として、これをどのように公表させるべきだろうか。ぼくの哲学における、公表のための戦略をここで提示していきたい。


やさしさの実践・戦略


意識改革ではダメだ。
経験に訴えかけるようなメタ認知的な社会の接続は機能に限界がある。
実践だ。
どのようにして己のやりたいことを共に経験させるものとして社会に繰り出すか。

これこそがぼくの思想を伝えるための鍵になる。気をつけてほしいのは、これはみんなに対して求めている行為ではない。むしろ僕の提唱する哲学というもののあり方についての話だ。メタ認知やメタ的思考による内的な意識改革はもちろん思考の過程で僕が行っていることだし、読者のみんなにもおきているかもしれない。しかし、それは経験に訴えかけているだけにすぎなくて、一つの哲学として、意識改革だけを求める哲学は、もはや限界が見えているのだ。「哲学の伝導性」という視点において、言い換えるなら、哲学を広めるための方法として、実践というものは絶対に欠かせないはずなのだ。

ここから、より具体的な話題をだしてみよう。
本というのは、あるいは文章というのは、「意識改革を求めている」に過ぎないのではないだろうか。つまり、過去の経験に訴えかけているに過ぎないのではないだろうか。本を読む、というその場の経験を除けば、哲学的な文章の有効性は過去の経験に遡らなければならない。けれど、それって本当に実践的な取組みだろうか。実践というのは、より経験を巻き込んでいくものであり、現代において、本はそのような役割にいないことは、ある程度明らかだろう。だから、哲学書よりもより簡単なビジネス書、漫画、アニメの方がよっぽど経験を巻き込んでいる。

この視点は、とても重要な視点を引き出すことになる。それは、本の外にある知識を引用するような学術書が、多くの読者にとって、経験を巻き込んでいない、ということである。議論を行うための根本的な原動力には、共有された文脈というものが必要である。これを、限りなく精緻に、まじめに取り組んでいるものが論文であったり学術書にあたるものである。そして、その文脈を正しく追従するためには、「遡行」が必要になる。脚注を逐一チェックしないといけないし、途中から突然文章を読みはじめて論文の内容を理解するのは素人にとって難しい。小説はプロローグから読み進めないと、話の内容がわからないようになっているのと同じように、論文の正しい読み方は、脚注の意図まで汲み取り、正しい議論の遷移をたどることにある。しかし、そのような読み方自体が、「意識改革」を求めるための共通経験を増やす手段としてしか機能していない。それ以上のことを本や文章で行うのはなんとも難しい。そして、文脈は長くなればなるほど「遡行」するのが難しくなるし、誤読が多発するようになる。
だからこそ、大事なのは「もっと経験を巻き込むための言葉を越えた実践」と「議論そのものの遡行を簡単にする」ことだ。アニメや漫画にだって、哲学書で表現のできないフィロソフィーが存在する。問題は、そのようなフィロソフィーを哲学書や学術書のフォーマットで表現できないことにある。
哲学は、特に意識の枠組みを大事にするタイプのカント哲学的な傾向は、「意識改革」や「メタ的思考」それ自体を内省的に行うため、読書により経験を共有させる方向にむかった。
でも、それだけじゃ、哲学は哲学の外に出られない。
哲学的な意識改革ではなく、哲学的な習慣の変更を行わなければならない。内ではなく、外を変革する必要がある。それこそが、僕の思想における、戦略的な態度である。


やさしさの敵

しかし、こう「やさしさ」というものにこだわる理由を、ぼくはこれまでにまともに説明したことがない。けれど、いつもぼくが「やさしさ」について考えるとき、ユースケースとして思い出すのは「いじめ」の問題である。というか、この「いじめ」の問題は人間の直面する恒久的な問題であることに間違いなくて、これを考えるべきは哲学の役目なように思えるのである。

前提として、僕はいじめという社会的な現象に多くの暴力が関係しているというふうに思う。いじめる側の家庭内の事情もあれば、いじめられる側の家庭内の事情もあり、そして、そこに複雑なクラス内の事情も絡まり、そして、その絡み方はわずかな出来事でいくらでも変化しうる。そこには「子ども」という「経験に訴えかける」ことの難しい存在に対する「大人」の苦悩があり、少ない経験から形作られる感情は大人から予想がつくとも言えない。経験の数だけ子どもたちは暴力を受けていて、その暴力の数だけ彼らは違った態度をとる。人間と人間の複雑な感情の問題は、科学でも統計学でも資本主義でも大人でも解決することは難しく、むしろ解決することすら望まれない、ということもありえる。
この人間対人間という問題において、ぼくは「やさしさ」の実践を行いたい。その意味で、僕の問題意識は、この世界を牛耳るいくつかの視点と一線を画する。

「やさしさ」にはいくつかの敵対的な思想が存在する。

第一に、暴力潔癖症の人間達の考え方であったり、内輪ノリを強要してくる「暴力の不可視化」を進める思想である。
くり返すように、僕にとって「暴力」とは、ユビキタスに存在して、誰もが被害者になりうるもので、そして同時に、誰もが不可避に加害者になりうるものである。だからこそ、「暴力」は抹消できない、と考える。「内輪ノリ」とは、暴力を不可視化するための小さなサークルを作った時に実現される。そして、このような試みは、交通・インターネットで繋がりすぎた人類にとって維持することが難しいものになっている。一方で、暴力潔癖症の人たちは、「目に見える暴力」の抹消に明け暮れるのみで、結局は見えない暴力が残存し続けるように思うし、それぞれが、自分の「経験に訴えかけて」活動しているに過ぎない。どこかで誰かに暴力的なショックを与えていることは間違いないし、評価軸の外に落ちる暴力は僕らの思っているよりもたくさんある。「自分は暴力者ではありたくない」という精神それ自体を否定することもできない(それもまた暴力的な否定だ)。けれど、それを集団的な思想として流布することは暴力的になりうる。そんな集団的な「認知のゆがみ」こそが、僕たちを巨大な暴力に晒している。いじめの問題とは、そんな集団的な認知のゆがみによって起きている問題だ。

第二に、統計学・スケールモデルを目指す思想である。
暴力を受け入れるという視点それ自体が僕にとってかなり重要な「やさしさ」のプロセスになっている。1人の人間と真摯にコミュニケーションする、そのこと自体がかなり大事なのである。人間は集まれば集まるほど、共通見解を作ることが難しくなる。これはひどく当たり前のことである。それにもかかわらず、集団で共通理解を作り、そして、それを最適化する方向へ我々は進まなければならず、そのために僕たちは経営学的な知恵を用いてスケールすること、統計学的に世界を掌握できないか考えがちである。でも、これは僕の「やさしさ」の実践には必要のない発想である。これらに対するこだわりは、僕たちを暴力の方向へ誘う他ない。人を集めないこと。それ自体が一つの「やさしさ」になると考えている。マッチングが統計学的でスケールを目的にした世の中の最適化の究極形だとすれば、いじめの問題を最適に考える方法が「やさしさ」の実践である。マッチングアプリの開発の真逆の位置にあるのがいじめの問題とも言える。いじめの問題に最適化できることはないし、いじめの問題に人を集めて良いことが起きるとは到底思えない。

第三に、社会へ接続、承認欲求を加速させるインターネットの成果にポジティブな思想たちである。
ぼくは、経験の大事さをさんざん強調してきた。であるからこそ、繋がり過ぎて無限に経験を摂取するようになってしまったこの世の中は、暴力に晒される度合いが増えているようにしか思えてならない。つながることを休む、といった機会も減ってきた気がする。古来から、「人間」をないがしろにしないやり方を考えるのが西洋哲学の立ち位置である。ぼくはその立場をあくまでも大事にしていきたい。社会と繋がりすぎることで、僕たちは要らぬ承認欲求を獲得してしまっている。特定個人ですら認められたい、という思いは人生のなにかを狂わせる。「認める」、という形ではなく、「やさしくある」、という形で、僕たちはもっと1人の人間に真摯に向き合わないといけない。認める、というまなざしの偽物さを超えないと、僕たちはほんとうにやさしくはなれない。「認められる」なんて、所詮「認められた」である。それを超える情動を引き出すことの方が、もっと本質的で、もっと「暴力」の少ない在り方になる。認知程度で済ますのではなく「やさしく」なって、一つ一つのことに真摯であることを諦めてはならない。


哲学的生活習慣の実践

哲学をもって、生活そのものを変更しようと打ち出す。
そんなごく小さな試みが結果的に自己の内省にまで関与してくる。だからこそ、実践を諦めてはならない。経験に訴えるためには、そもそも経験を共有する必要がある。そして、その経験を共有するために、僕たちはもっと一人一人に向き合った方がいい。集団でなにかしてやろう、なんてことは常に暴力的ななにかが絡んでくるし、僕たちはもっと一対一でのコミュニケーションに何か希望を持った方がいい。「やさしさ」は、多くある暴力のかたちを受け入れた上で、それを最もらしい形で受け入れていく試みである。そのためには哲学を持って環境を変更していかなければならない。それには内省的な経験のアップデートも大事だけれど、それ以上に環境へ自分の実践を踏み出していくことが大事になる。

コミュニケーションを諦めてはならない。単なる承認も、集団の最適化も、暴力潔癖症も、コミュニケーションを諦めるための理由にしてはならない。

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