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やさしさと暴力/信頼と契約

やさしさと暴力

やさしさとはなんだろうか。受動的にやさしさを感じるときと、能動的にやさしさを行使するときで、僕たちはそもそものやさしさのあり方が異なるだろう。
ぼくは非常に消極的な方針でやさしさというものを「感じる側」、つまり受動者の側から考えた。その時に導き出した結論はこうだ。やさしさを恣意的に与えることはできない。やさしさは、ぼくたちが感じてやる必要のあるものだ
例えば、やさしさというのはどんなに人がやさしくあろうと行為したとしても、そのやさしさに対し反発を受ける場合は絶対に発生する。言ってしまえば、真に純粋なやさしさを行為者が現前させることはできない。やさしさには人それぞれにばらつきが存在する。あたり前なことだけど、そのように言わざるを得ない。
しかしながら、このような議論があってもなお、人は誰かにやさしくしてやりたいと思うのである。その思惟にはどのようなたしからしい構造があるのだろうか。今回のテーマの一つは、この「やさしさはどのように行為しようとされるのか」ということにある。

ところで、ぼくの発想の前提にある「暴力」という概念について整理しておこう。暴力というものは世の中に常に存在するし、だれもが加害者になれるという点において、不可避なものだ。暴力は生まれる前から存在していて、その存在を否定することはできない。例えば、暴力を受けるということは「やさしさ」で述べてきたようなものと同様に、受動者があとで解釈するタイプのものだ。たとえ僕たちがどのように弁明したとしても、気づかないうちに人をいじめている可能性だってあるし、パワハラになってしまう場合がある。そのようなことが往々にしてあり得る。暴力の本質もまた、このような概念としてのユビキタス性にある。暴力は排除しようとしても、気づかないところから湧き出てくるだろう。
ここで本題に戻り、僕の主張を述べよう。
やさしさというのは、そんな世の中に偏在する暴力を、肩代わりしてやる所作ではないだろうか。ひどい暴力を肩代わりして、教訓的な暴力を与えてやる。暴力に種類が明確に存在するわけじゃないけれど、ぼくたちはそうやって暴力を肩代わりするのことで、努力して「やさしさ」を示しているのではないだろうか。暴力の肩代わりによって、ぼくたちはその暴力を経験しなくてもその暴力を回避することができる。
そもそも、やさしさにおける暴力の肩代わりとは、前提として「同じように経験した暴力」を受けて欲しくない、という認識によって発生しているのではないだろうか。例えば、なにも知らない赤ん坊が熱湯の出ている蛇口に触れようとした時、母親はその赤ん坊の手を叩き、蛇口に触れないようにするだろう。それは、ある意味で赤ん坊に対する暴力だが、その暴力こそよりひどい暴力を肩代わりしたような暴力であり、その暴力自体がやさしさを示していると言えるのではないだろうか。
このような「受け継がれる経験」を変えたいと思う運動としての、能動者の「やさしさ」が、暴力の肩代わりを実行する。原爆の恐ろしさを将来に伝えることは、そのような「受け継がれる経験」の伝承といえる。原爆を使ってはならない、というやさしさの表現であり、そのような形でしかぼくたちはよりひどい暴力を避けることはできない。「よりひどい」とされるような暴力を避けるために「やさしい暴力」をぼくたちは受けることになる。
一方で、この「受け継がれる経験」というものは非常に厄介な概念だ。「受け継がれる経験」が果たして暴力的なものと判断されるのか、あるいはやさしさであると判断されるのか。このような判断は人によって様々だ。そのグラデーションにこそ人間の自由な判断が潜在しており、言葉の暴力性をユビキタスなものにしている。

信頼と契約

「19時に集合ねー」とLINEで約束をして、しばらくして待ち合わせ場所に向かう。待ち合わせ場所に2人が集合するまでは、僕ら2人は別々の時間を生きている。僕はとてつもなく遅刻の癖があり、よく約束の時間に遅れることがある。時間とは、同じ速度で動いているようで、実は全然違う速度を持っているんじゃあないのだろうか?
時間には私的な時間と公的な時間が発生するのではないだろうか。2つの時間がめぐりあう瞬間に、遅刻に代表されるハレーションが起きる。このような公と私の時間の非同期性はとても重要なものである。そもそも世界に暴力が発生するのはなぜかと考えたとき、ぼくらは人への信頼というものがあるのではないか。今回のテーマのもう一つはそのような暴力とやさしさの深淵にある「信頼」という概念の探究にある。

いかに人を信じることができるのか。ぼくはその問いが根源的に存在していて、どうしてぼくは人のことを信じて生きていけるのか、それにとにかく不安があった。きっかけはおおくの人間関係のトラブルで、それは中学高校と立て続けにつづき、自分の家庭環境においても、そのような考え方を促すような楔が何本か刺さっていた。
こうした問題意識を僕自身が有していることに気づいたのもごく最近である。というのも、ぼくはいかに人を信じることができるのか、という問いではなく、人はどうしてこんなにも自分の言っていることを伝えられないのか、という問いに置き換えていたからだ。信頼を裏切られた時、人はその理由を自分に押し付けたくはない。その過程でぼくは意味を伝えられない構造になっているようなこの世界自体に対して責任を向けた。しかし、伝えられなくても伝えられるようになっているこの人間社会の方が、ぼくらにとっては重要なものかもしれない。
ぼくたちは真の意味で自分の思っていることを相手には伝えられない。言葉には複数の意味があるし、自分の心の中にも複数の含意が含まれているというのがある。そもそも言葉にした時点で消えてしまう含意だってあるし、言葉そのものにも多義性がある。そんな中でもどうにかして伝わるように工夫するということはあきらめてはならない。伝えられないことによる「裏切り」「傷つけられる経験」というものが僕をそのように駆動させていた。そんなわけで、どうしたら僕の思っていることを伝えられるのか、というテーマを考えているうちに、ぼくは「やさしさ」というテーマを見つけた。テーマが変わってしまったのである。ちゃんと自分の思っていることを伝えることは難しいし、困難だ、けれど、あきらめずに伝える心持ちとしての「やさしさ」が大事だ、という風に。
「やさしさ」について考えれば考えるほど、ぼくは「暴力」という問題に接近した。それもそのはずである。ぼくの原体験は「暴力によって傷ついた自分」がいて、それをいかに避けるのか、という意識の蔓延にある。
「やさしさ」というものを定義することはすごく難しい。けれど「暴力」というものを定義することからはじめれば良いのではないか、と気づいた。暴力とは、そもそも、というか、あらゆる「伝えられうるもの」は、暴力的な要素を持ちうる。暴力は、ユビキタスに存在するのだ。だからこそ、その暴力を経験した主体は、ほかの人に、その暴力を受けてほしくないと思う。固有な暴力を肩代わりして、別の暴力に差し替える行為、それこそがやさしさであると思うのだ。いずれにせよ暴力であるという点には変わりがないけれど、ぼくたちはどうしても暴力を肩代わりしたくなる時があるのだ。そして、それは利己的であるとか利他的であるとか、そういったものに関わらず発生するもので、暴力とおなじように、やさしさもまた「受け取ったものが判断する」タイプのものだ。やさしさもまた、ユビキタスに存在する。

「信頼」という問題は、これまでの議論からついに辿りついた極地かもしれない。ぼくははじめから、人を信頼することに興味があったのだから。信頼はどのようにして発生するのだろう。そして、どのようにして人は人のことを信頼できるのだろう。
信頼もいろいろな種類があるけれど、ぼくたちは信頼の多くを「契約」というかたちで管理している。約束とも言い換えられる。約束を僕たちは構えてしまう時がある。それは無意識的にであれ意識的にであれだ。約束は裏切られうる。それでもなお僕たちは勝手に約束を心の中でしてしまう場合がある。約束もまたぼくたちが他人に対して勝手に交わしてしまうものの一つであり、勝手に変わりうるものでもある。約束は裏切られると傷つく。でも、その約束は勝手に結ばれたものの場合もある。
より社会が構造化されると、社会は「契約」という高度なツールを発明する。公に公表された約束だ。ぼくたちはお互いを信頼すれば、契約を実行することができるようになる。けれど、現実世界は私的な約束としての「信頼」と、公な「契約」の境界は曖昧で、契約だけで社会が回っているわけではないということは明らかである。契約は信頼できない僕たちにとっての一つのソリューションだ。でも、信頼できる時だってある。信頼できる時は契約の外にある営みだって発生する。契約で執り行えることと、その外にあることは確実に存在する。
「信頼」とはそのような私的な空間における他者への認識であり、「契約」とは、それを他者の世界の中で具現化したものである。往々にして、そのような経緯を持った公の感覚と私の感覚は異なる。ぼくたちはどうしても世界とは別の認識をとることがある。その差分はいつまで経っても縮まないだろう。

公の契約と私の信頼。
このような大きく分岐する「信じる」という営みのあり方は、両者の存在なく成立はできない。たった1人で生きている分には、信頼を勝手に寄せていればいいだけで、外部との調停を作る必要はさほどないだろう。けれど、どんな社会にだって他者というものが存在していて、この公的な存在を無視することはどうしてもできない。人のいない世界をサバイブしていたとしても、日が昇る時間や、野生の動物たちの生態系はぼくたちの私的な時間に依存せず動いていく。ぼくたちは世界の内部と外部を有していて、往々にして外部との調整を行う必要が発生するものなのだ。

公と私の間にある、文化の層

「やさしさと暴力」というテーマからはじめて、「信頼と契約」という対比に向かった。この信頼と契約にも私的な空間と公的な空間の対比があり、公的な存在は日々の生活で不可欠な調整(コンセンサス)を必要としていることがわかる。

ここでぼくは、公と私の間にある「文化の層」をとりあげたい。公と私の間には常に何かしらの規範が存在する。公的なものと私的なものはそのようななにかによって繋がれているはずなのだ。ぼくはこれを「文化」と呼ぶ以外ないと考えている。というのも、文化というものは、おのずと立ち上がる社会や世界の雰囲気のようなものだからだ。文化は私的な面もあれば、公的な面もある。そして、特定の社会には特定の文化が発生していることもまた注目に値する。文化には「地域性」が存在する。特定のコミュニティにおいてでしかあり得ない規範というものが「文化」においては存在できる。そのような「文化」の多様性こそが人間の自由な営みを肯定し、公的なものそれ自体の自由さを定義している。


われらは文化的な生物であるがゆえに、私と公の間に自由を生み出す。






以上。


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