掌編小説「徘徊都市」

 十七時三十分発Y駅行の高速バスはどれでしょうか、と聞くと、バスの運転手は眼鏡を額まで持ち上げたまま、バインダーから顔を上げて、オオヤマコージさんですか、と反対に尋ねてきた。少し面食らって、いいえ、違います、と答えると、彼は非礼を詫びる言葉を簡単に述べて、オオヤマさーん、オオヤマコージさーん、いらっしゃいませんかー、と叫びに回りに行った。O駅のとある高速バスステーション前後の道路には、様々な地名をつけたバスがみちみちと詰まっており、クラクションやキャリーケースの音、各交通会社の運転手たちが乗客の名前を呼ぶ声で騒がしかった。
 O市K区O駅周辺が複雑で迷いやすいことは、兼ねてから知られていたことではあったが、近年の再開発や駅改修工事により、その複雑さはさらに増している。駅周辺は多くの人々で混雑し、電車やバス、周辺道路の交通に大きな悪影響を与えている。特に、O駅構内は人であふれかえり、身動きが取れないまま、現在も運転再開の目処が立っていない。——通勤にO駅を利用している女性は語る。「何度ここに来ても、道を覚えられないですね。一つ曲がる角を間違えると自分がどこにいるのかわからない。歩いていたら、いつの間にか、知っている道に辿り着くみたいな感じですね。本当に眉に唾をつけないと(いけない)」と、駅前の巨大液晶ディスプレイで報道番組を見ていると、隣のおじさんが赤いキャリーケースに座って、「こんなん政府がどうにかせんとあかんぞ」と怒鳴り、足元に緑のリュックサックをおろしたおじさんが頷いている。実際、テレビで見たこともある国会議員も含めた視察団らしき人たちを、ぼくは見たことがある。O市だか某省だかの役人を引きつれていた。彼らが無事に帰れたかは知らない。とにかく、ぼくは乗るべきバスも乗り場もわからないまま彷徨っている。今頃、どこかのバス乗り場では運転手が、ぼくの名前を叫んでいるかもしれない。広場には、目的地に辿り着けない旅行者たちが、青く疲れた顔で大きなテレビ画面をみつめている。——明日は雨が降る模様。出かける前は傘の準備をしてください。ぼくはここ一帯の建物や地下街が収容できる人間の数を考え、息がつまった。

 もう一週間ほど、K区のあたりを歩きつづけている。バスはもう行ってしまったはずだから、探しても仕方のないことなのだが、それ以外にすることもなかったので、ぼくはとにかく歩きつづけている。果たされない未練だけを残して、そぞろに歩く幽霊になった気分だった。それでも、未だにここの土地に対する勘というものが持てなかった。三番街や32番街はみかけるのに、一番街や27番街だとかはまだ見たことがなくて、気が遠くなる。それに、再開発や改修は未だに続行され、狭い迷路の中に、さらに狭く小さな迷路が錯綜するようになり、K区は人為によってつくられた未踏の洞窟となった。そのくせ、物流は止まらないので、地下街よりも深いところに、外へとつながる《抜け穴》があるとしか思えない。
 道路にぎっしり詰められたバスや自動車の排ガスに空気が澱み、キャリーを引く旅行者たちの咳払いが目立つようになった頃、一匹の巨大魚のような人の《群れ》をみつけた。いちばん、年かさの男を先頭につけた《群れ》からは、悲愴と諦観を動力に敗走する、機械兵のような異様さがあった。《群れ》の一人によると、彼らはここで迷子になったきり、彷徨い続けてしまった者たちの共同体らしい。「どうやらK区には、地下街よりも奥深いところに外へつながる大きな一本道があるらしい。私たちはそれを探しているんだよ」。やっぱり、そうなんだ、そうだと思っていたんだ、とぼくは興奮して、無意味に腕を振りながら言った。ところで、皆さんは、もう三番街や32番街以外をもうみつけましたか。ぼくはまだみつけていなくて。「私たちもかなり歩いたけど」と言って、彼は少し考えてから言った。「まだみつけていないんだ。でも必ずあるはずだ」。ぼくは仲間に入れてもらう代わりに、五歳くらいの男の子の面倒をみるという役割を負った。
 男の子は、まだ文字が読めないらしく、見えるものならいちいち何でも知りたがった。O駅、U駅、地下鉄M線、東U駅、K駅……K駅、O駅、地下鉄M線、U駅、東U駅……地下鉄M線、O駅、K駅、東U駅、U駅……という言葉をぼくは何度繰り返しただろう。そして隊列も、迷路をどうどう巡りした。この中に、狐か狸がいて化かしているのではないかとさえ思った。「なんで手がつめたいの?」男の子がぼくの手を握って聞く。

 例の《抜け穴》がどうやら某地下街の北館と南館をつなぐ通路のあいだに隠されているという情報が、ほかの《群れ》から知らされたとき、ぼくたちは互いの顔を見合って喜んだ。けれど、顔を曇らせている者も何人かいて、これまでみせたことのない目の鋭さで、彼らは後ずさりをし、ぼくらを包囲した。
「待ちなさい」と彼らは通告した。手には拳銃がある。「そこを通ることは、認めません。どうしても通行すると言うのなら、我々にはあなたがたを逮捕する権限がある」
 いますぐ、持っているものをおろして手をあげなさい、と叫んだのは、最初にぼくが話しかけた男だった。仕方なくぼくたちが手をあげようとしたとき、人波が大きく揺れた。キャリーやリュックの大群は、南下する海流と北上する海流とがぶつかりあったように、右へ左へ流れ、互いに反発し、ついにぼくたちを包囲する網を破ってしまった。その瞬間、いちばん年かさの男から、《解散》を命じられ、ぼくは男の子と一緒にその場を逃げ去った。
 ようやく、ぼくは男の子と二人で、漫画喫茶までなんとか退避した。男の子は漫画を数冊もってきて、絵を読み、コマごとにふきだしの読み方をぼくに尋ねた。きりがないので、結局ぼくは漫画のせりふをすべて、絵本の読み聞かせのように読みあげる。終わらない工事のために建設用の重機の音が、遠く近く騒がしく鳴っていて、あの《抜け穴》にはもう辿り着けないだろう、と考えながら。

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