掌編小説「ない」

 道中、なにかなかったような気がした。なにがなかったのかわからなかったのだが、実家のマンションに着いて、結局それは歩道橋であったと思いいたった。ここにいた頃は、たいてい自転車で移動していたし、手前に横断歩道もあったので、十回も渡ったことのない歩道橋である。なくなっていても、はじめは気がつかなかった。
「なくなったんだね、歩道橋。気づかなかった」と母に言った。
 どこの、と母は聞き返す。
「薬局の前」
 古かったからね、と母は言った。
「子供も少ないだろうしね」
 年寄りはたくさんいるよ、と彼女はリモコンを握り、ああいうのは、と「やっぱり、夜中に撤去するのかな、そんな気配はしなかったけど」と呟き、チャンネルを替えたのだった。

 夜になって、私たちは出前をとった。ウーバーで注文してみたい、と母に頼まれたが、うちではほとんどやっていなかった。結局、母が二年前のチラシを取り出して、「ピザでいいんじゃない」と言った。石窯で焼くという触れ込みのピザ屋は、大手チェーンではなかったが、どのチェーンのものより安かった。定価にデリバリー料が加算される仕組みで、私が取りにいってもよかったけど、数百円支払うことにした。
 届いたマルゲリータのMサイズは、どのチェーンのそれよりも一回り小さかった。それでも母は半分も食べなかったし、私もぜんぶは食べきれなくて、数切れ残した。

 翌朝、コープの移動販売車の音楽で目が覚めた。にわかにあたりは騒がしくなり、母が玄関の扉を開ける音がした。私はだれもいないリビングで、寝巻きのままソファに寝転び、テレビをつける。けれど、テレビはいっさいみないまま、私は携帯電話で歩道橋の撤去の仕方について調べた。マンションが再び静かになる頃、母から電話がくる。
「悪いけど、荷物取りにきてくれない」
 階段を降りて、私は米を運んだ。
 朝食に昨日のピザをオーブンであたためながら、私はフライパンを借りて卵を焼いた。それから、寝巻きの袖でオレンジジュースのパックから滴を拭って注ぎ、カットベジタブルを拝借した。昼頃、私は自室の服を段ボール一箱にまとめ、車に積んで帰った。
 薬局の前を通ろうとすると、緑色の歩道橋が目の前にあった。橋からは「スピード落せ」の横断幕が垂れていた。歩道橋がないと思ったのは気のせいだった。私は最寄りのコンビニに車を停めて、タバコを買い、その足で歩道橋まで歩いた。
 歩道橋では黒ずみのようなガムや古い吐瀉物が乾いている。自転車用のスロープを女の子たちが走って降りていく。私は橋の真ん中あたりに立って、手すりに腕をかけ、横断歩道の方をみた。砂があがるのか、目が痛くなる。手すりも砂利でざらざらしていた。
 私は歩道橋を降り、わきで目薬をさした。

テーマ「橋」①

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