馬鹿はよく歩く

 図書館から帰るのに、バスを使うのがどうしても癪で、歩いて帰ろうとしたら、曲がる角を間違え、反対方向の道をずっと歩きつづけたせいで、帰宅するのに二時間半ほどかかった。反対の道を進んでいることに気づいたとき(知らない駅を過ぎようとしていた)、そして引き返して、これずっと前にみた店だな、最初みたときはもうちょっと空も明るかったな、と思うときの情けなさ。ああ、馬鹿とは私のことです。
 散策の時間を思索の時間に充てて、近代の思想家はよく歩いたというイメージがあるし、京都には「哲学の道」という桜の名所があるけれど、私の場合は阿呆が、考えなしに、向こう見ずに歩いているだけのこと。帰るための適切なルートも考えていなければ、思索なんかあるもんじゃない。生産ではなく、消費のための歩行。ひたすら時間とエネルギーが費やされる。時間を金で買う発想が、私にはない(だけど、反対に金のために時間を売りたいとも思わない。社会を憎んでいるのかもしれない)。だから、バス賃と徒歩の労力が天秤にかけられない。移動に金がかかることがどうしても痛い。じゃあ、稼げばいいじゃないかとなるが、そこで腰が重くなるし、もう、生まれてこなければ良かった、と馬鹿なことを考える。賢い人はよく歩いて、より賢くなるかもしれないけど、馬鹿がいくら歩いても馬鹿なままである。じゃないと、曲がる角を間違えて、小一時間進み続けることなんてしない。
 春になると、道にいろんな花が咲いている。梅、椿、ハクモクレンに雪柳。それほど興味なかったのに、花に目をとめて、楽しめるようになったのは、馬鹿でも歩いていたら少しは賢くなるということなのかもしれない。庭に咲いている花の名前は、未だに知らないけど。

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