殺しの労苦、殺しの徒労 『古畑任三郎』をみながら

 推理ドラマにおいて、謎は暴かれることが前提となる。そうである以上、トリックはつねに破綻していなければならない。犯人は必ず「ヘマ」をしでかさなければならない。こと、倒叙式という形式がとられた『古畑任三郎』では、犯した殺人の全貌よりも、むしろ、犯人のおかしたミステイクが暴かれることに、ドラマをみることの(サディスティック/マゾヒスティックな)快感がある。
 犯人たちにとって殺しは、契機であって、目的ではない。彼らは高い社会的地位にありながら、状況に満足していないし、あるいは危機的な状況にある。例外はあれど、現状をちゃらにしてやり直すきっかけが殺しであって、復讐を遂げるといったゴールではない。
 しかし、殺しは労苦に満ちていて、徒労に終わる。冒頭の犯行シーンから感じるのは、殺すことの身体的・精神的な疲労である。死体を引きずり出し、細工をして、血痕や証拠を始末する。息も絶え絶えのシーン。汗もかいていたかもしれない。そして、殺して間もなく古畑と対峙する……。
 たとえば、1stシリーズ第2話「動く死体」の歌舞伎役者(演:堺正章)は、ひき逃げ事件を隠ぺいするために警備員の男を殺害する。自分の楽屋から、死体を舞台まで運搬する労苦。死亡時刻を偽装するために腕時計を叩き壊すが、かえって古畑に怪しまれる徒労。あるいは、第5話の将棋棋士(演:五代目坂東八十助)は、犯行時、被害者の背広のジャケットまで畳むのだが、几帳面な細工もむなしく、普段背広を着ない彼が犯人だと疑われることになる。
 犯人たちにとって、殺しはやり直すきっかけにならない。むしろ、かったるい現実は延長し、古畑との対決のなかで疲弊し、増幅する。そして、無駄に終わる。先ほどの将棋棋士も、自分のキャリアのために殺人を犯したのに、証拠の隠ぺいためにそれすらも断念しなければならなくなる。

 柳本々々は『古畑任三郎』における犯人の「唯一の改心の道」として、殺人が暴かれ〈ダメ〉(=「自身の枠組みを失うこと」)になる必要があると述べている。完全犯罪のシナリオは、現在の自分の究極のフレーミングとも言い換えられる。古畑に追いつめられることは、それまでの枠組みが通用しなくなり、限界を迎える過程である。最後の退場シーンが爽やかなのは、改めて現状の自分自身ではもう〈ダメ〉だと認めてしまうからなのだろう。殺し(=フレーミングの実行)ではなく、逮捕(=フレーミングそのものの崩壊)がやり直す契機なのだ。

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