「話すだけで良い」フェーズ

 今のカウンセラーの先生(最初の先生と違う)と精神科の先生にみてもらってだいたい一年くらい立つはずだ。いろいろ薬を調整してもらったり、とりとめのない話を聞いてもらったり、実生活のアドバイスをしてもらったり……それでもなお人生を終わらせてしまおうと思ったことも複数回あったが、なんとか均衡を保てているのは二人の先生のおかげだと思っている。けれどここで、不遜でプロに失礼な言い方をすると、たぶん私は治療の内容や診断はもうなんでもいいようなフェーズに入っているような気がする。もう治療がいらないということではなく、少なくともこの二つは「なにもなくても来て良い場所」になっている。そして、話すだけでなんとなく自分は良くなっている気がするのだ。私は孤立していないはずだけど、社会との関係が希薄という錯覚に陥っている。その錯覚をゆるく解いてくれるのが、カウンセリングであり精神科の治療だった。現状の報告からフィードバック、普通の世間話をしてもらうと、「なんだ、まだ私、普通に人と話して生きているじゃん」と思えてくる。一生無能感に苦しめられるだろうという強迫観念に沈んでいるところを、治療を介して多少なりとも私にもやれることはまだあるんだと思い直す。落ちてまた浮揚し、進んでいく感覚に近い。話すだけで良い。というか、その対話や信頼構築のテクニックがプロなのだろう。カウンセラーの先生が変わって引き継ぐときに、いろいろヒアリングをされたのだが、ゼミの先生の名前、通院先の場所、主治医の名前、飲んでいる薬の名前なども聞かれて私は驚いた。そんなことまで聞いてくれるんだ。と思うし、話すにあたっても実名をあげたほうが実感がわく。話も就活、卒論、アルバイト、家族、生活習慣とアクチュアルなことが中心で頼りになる。一方、精神科の先生は頼りないなと思ったのが第一印象だった。でも、精神科には厳しい医師が多いと聞くなかで先生は穏やかだったので通院を続けた。先生の話は少しずれていて「文学がお好きなんですね」と言われたときは気恥ずかしかったし、「カーディーラーなど適職じゃないでしょうか」と言われても私は免許を持っていなかった。とはいえ、それが不愉快というわけではなく、表層でははずれているけど、私のことを丁寧に観察してもらえている感覚があった。あとは漢方がよく効くという話をきいたり(神田橋療法というらしい、私にはあまり効かなかった)、昔の就活の話だとか、要はむしろ先生の話を聞く方がおもしろいのだ。診療によってまちまちだが、私が淡々と話す回より、先生からたくさん話をされる方が元気になれる。話す、聞くという関係は社会生活そのものだ。とにかく、私はまだすべてにおいて切れているわけじゃないと、何度も確認できるから「話すだけで良い」フェーズに入ったんだと思う。根っこは自分が無能で孤立しているのではないかという不安なのだから、話すことが最適な処方となる。まあ、またやばくなったらそうとも言えないかもだけど。それと余計なことを付け足すと、私はCBT(認知行動療法)にずっと関心があって、近医にそれを専門とするところがあったのだが、予約がいっぱいでとれなかった。これをトリガーに一度未遂をして、今の病院に行っている。正直、今の病院でよかったなと思う。このときは、本当に終わらせてしまいたかったのと、薬にでも診断にでもすがってなんでも良いから助けてほしいと両方思った。疾病利得という概念にも悩んだが、実際に苦しいのだから、その対処の仕方が知りたかったし、今思えば疾病利得だろうがなんだろうが切実なのは変わらない。それを言い募る連中がまともなセルフケアの仕方を知っているわけでもない。適切に生きようととった行動なんだから、悩む必要なんかなかったのだ。さて、CBT自体は伊藤絵美先生の著作で勉強して、実践しているし、楽しい治療法だなとは思いつつ、結局はそういう技法にこだわりなくやれるのがいいなと思う(ちなみに、伊藤先生の著書には問題解決の際、「そのとき昼食は何を食べるか?」から決めていくことに目が洗われた)。だから、酸っぱいブドウじゃないけど、予約できなかった病院でそうした「話すことの安心感」が得られるかの保証はあるわけじゃなかったし、今のままでよかったんじゃないかな。

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