楽しいことは終わった

計画は全部中止だ
楽しみはみんな忘れろ
嘘じゃないぞ
夕立だぞ

井上陽水「夕立」

 なにも楽しくない。なにも楽しくなくなった。せめて散歩だけでも、と思い、続けているが、どうして歩くだけで楽しくなるのだろう。なにも楽しいはずがない。おれは、今日、こんなにも歩いたのか、と一日のおしまいに思うだけである。おもしろいわけがない。
 なにも楽しくないのは、と心の中で反論を試みる。それは、おれが、今、病気であるからで、心ない他人のせいで、悩んでいるからだ。人生のなかで、これからなにも楽しくないということはない。そう言ってみる。本当だろうか。そんな常識をおれは信用しない。これからの長い人生、なにも楽しいことなどないのだ。なにも楽しめないのだ。おれはなににも感動しない。街を歩いて、自分だけの楽しみを探そうとしても、だ。
 将来有望な男を捕まえて、なに不自由なく暮らしたい。男は、私が退屈しないために、きっといろいろ与えてくれるはずだ。服屋で私が、かわいい、と一言いえば、男は近くの店員をみつけて、すぐにカードで支払ってくれる。男はうまい料理屋を、いくつもいくつも知っていて、毎晩、私をそこへ連れて行ってくれる。男は、広い部屋と、高い酒と、おとなしい動物と、上限のないカードと、若くてかわいい男たちをどっさりくれる。そこで私は貴族にでもなったつもりで、酒を飲む。煙草を吸う。若い男たちと遊ぶ。男は休みがあれば、旅行につれて行ってくれる。箱根に。パリに。ナミビアに。アカプルコに(ロス市民はみんなアカプルコに旅行したがるものだ)。
 一日の終わりのホテルで、私はインスタントのコーヒーを飲み(インスタントコーヒーだって一級品に決まっている)、つぶやく。
「なにも楽しくない。なにも楽しくなくなった。これからの人生なにも楽しいことなどないのだ。なにも楽しいはずがない。なにも楽しめないのだ。私はなににも感動しない。なににも驚きをおぼえない。完璧な夫が手を変え、品を変え、私を慰めてくれても、だ」
 楽しいことは終わった。

もしも 棗が一つもなくなったら
わたしはなにをして
夜をすごせばよいのでしょう

岸田衿子「棗のうた」

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