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キャパの基礎知識

有名なカメラマンのロバート・キャパ(1913~1954)。
戦場写真や報道写真、著名人のポートレートなどで有名な方で、国際写真家集団の「マグナム」の結成メンバーでもあります。
実はこの方のお名前、偽名なんですよね。

ハンガリー出身のキャパは、十代後半で左翼運動に参加して逮捕され、ベルリンに渡ります。
1932年に大恐慌が起こり、仕送りが来なくなった彼は通信社の暗室で働き始めます。
コペンハーゲンで講演するトロツキーを撮影したのもこの頃のこと。

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↑ キャパのデビュー作 レフ・トロツキー

(ボリシェヴィキの党員として10月革命で活躍したのに追放され国外で活動していた頃。その後NKVDの刺客に頭をピッケルで殴打されて死亡(怖っ))

その後はユダヤ人排斥が激しくなり家族は離散(両親はユダヤ系)、ブダペストに残った父親は行方不明に。
キャパもあちこちに移り住み、1933年にはパリに落ち着きます。

ところが彼の写真はほとんど売れず、困窮します。
そこで出会ったのが、ゲルダ・タロー(1910~1937)。
この人もユダヤ人で、ドイツから逃れてきていました。
二人は恋仲になり同棲します。

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↑ ゲルダ・タローの寝姿 キャパが撮影

(朝の寝床で愛しい人の寝顔を見て撮影したくなったのか……分かるぞ、キャパ!(笑))

このゲルダ・タローというのは偽名で、本名はゲルタ・ポホリレ。
偽名を使っていた理由は分かりませんけど、芸術家の岡本太郎から「タロー」と名付けたそうです。
キャパの本名はアンドレ・フリードマン。
タローは(← 変な感じ)、アンドレを「裕福で有名なアメリカ人カメラマン、ロバート・キャパ」として売り込む策を思い付きます。
写真を売り込むにはネームバリューが必要だったこともあるし、ヨーロッパの国同士でゴタゴタしていた時期だけに、離れたアメリカの人間としたほうが自由に動けたようです。

二人は精力的に撮影をし、二人の写真はキャパ名義で売り込まれ、段々と売れるようになっていきます。
そしてキャパの名を世界に知らしめた、一枚の写真が1936年に写真誌Vu(ヴュ)に掲載されます。
それがこちら。

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↑ 『死の瞬間の人民戦線兵士』 (別名『崩れ落ちる兵士』)

(矢作俊彦・大友克洋の伝説的名作コミック『気分はもう戦争』の最初の扉絵にもなっている)

「スペイン内戦で撃たれた瞬間の人民戦線兵士」と言われていましたが、実はこの写真、演習中に撮影されていてこの兵士は死亡しておらず、更に「ただコケただけ」とか「撃たれたフリをさせた」とか「キャパじゃなくてタローが撮影した」とか言われています。
でもこの写真はアメリカのLIFE誌に転載され、キャパの名は一躍有名になります。
タローの策、大成功!

そしてキャパは、タローにプロポーズします。
しかし、タローの答えはノー。
タローは写真を通して真実を伝える仕事にのめり込んでいき、またその仕事は認められていきます。

ところが。
1937年、スペイン内戦の取材中に戦闘による混乱に巻き込まれ、暴走した戦車に轢かれてタローは亡くなってしまいます。
最後の言葉は、

「私のカメラは大丈夫なの? まだ新品なのよ」

だったそうです。
8月1日、タローが27歳になるはずだった日に、パリにおいてフランス共産党は大規模な葬儀を行いました。
タローの仕事は、政治的にも大きな影響力があったことを表しています。

タローの死を知ったキャパは、何日も泣き続けたそうです。
そしてその後、彼は世界中の戦地を飛び回り、数々の名作を残していくのです。
まるで、タローの遺志を継ぐように……

タローには才能があり、優れた写真を多く残していますが、初期のキャパはそれ程ではなかった。
キャパはその後の頑張りで、世界で認められるカメラマンへと成長していったのです。

1954年、第一次インドシナ戦争の取材中に、北ベトナムのドアイタン付近で地雷を踏み、キャパは亡くなりました。
享年、40。
二人の偉大なカメラマンは、どちらも長く生きることはできなかったのです。

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↑ Robert Capa


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