花瓶と日記について

 例えば道端で、綺麗な色の枝葉をつける樹木があったとする。君はそれをハサミでパチンと切って、袋にしまってスキップしながら家に帰る。階段を登り、玄関の扉を開き、カバンを床に投げ捨てた君は、袋の中の美しい枝葉のことを忘れたまま、ソファーに腰をかけてリモコンを握ったが最後、そのまま動物らしく食欲と睡眠欲を満たすだけの時間を過ごした。
 翌朝、カバンの中から財布を取り出そうとした時にようやく、美しい枝葉のこと、そして家に花瓶がないことに気づく。極めて短い走馬灯を経て、急いで空いたペットボトルに水を注いで、萎びた枝葉を挿す。大丈夫、水を吸えばきっと元通り…とまではいかずとも、昨日のように元気な姿を見せてくれるはずだ、と。
 しかし、萎れた枝葉は元に戻らない。水分の供給がぴたりと止まったにも関わらず、葉と樹皮からの蒸散は止まらない。ついには、葉にある水分を使って失われる水分を補填、そして蒸散量を抑制したことにより、美しかった葉は細胞から死んでしまったのだ。一度死んだものは蘇らない、1時間経っても、半日経っても、丸1日経っても表情を変えない枝葉を目にして、君は初めて取り返しのつかない小さな後悔を覚えるのだ。

 ところで、あるとき俺はハサミになりたかった。カッターナイフや包丁とは違って、二つの手で包むように(或いは抱きしめるように)切断する様が好きだった。ハサミは生かすも殺すも自由自在で、正方形から無理やりネコちゃんを作ることもできる。そのくせして石コロには負ける素直さもある。俺はハサミになりたかった。
 またあるとき、俺はいちごになりたかった。甘くて酸っぱくてみずみずしい、ケーキの上の真っ赤な1番星。いっそのこと自分がいちごになってしまえば、ずっとそのままでいられるなんて勘違いしたのだろうか。2日前の朝ごはんも思い出せないのだから、幼い日の記憶、ましてや感情なんて思い出せる由もない。ともかく、俺はいちごになりたかった。
 俺は日記になりたい。手垢で汚れたページには平凡だったはずの日常はなく、ビビッドな毎日が描かれている。夜の街灯や展示会、黄色い蝶々のこと、コップに並々と注がれた液体と固く締められた白いおしぼりのこと、喧嘩をしたこと、花瓶に生けた美しい枝葉と花々のこと、たくさんの動物や魚と肘までかかるゴム手袋のこと、一度きりの日々が手垢で汚れていくのが不思議で嬉しかった。ごめんなさい。

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