いつもとは違うある日の記憶

朝4時に起きて、喪服に着替えクルマで西に向かう。普段はプリウスを礼賛している私だが、一日で往復700kmを走るとなると、BMWを選んでしまう。社会人として世に出た時、同じ会社の同じ部署に同期入社した友人が急逝したとの知らせを受けたのは前日だった。亡くなる二日前には元気でゴルフをしていたそうだが、急性くも膜下出血で帰らぬ人になった。知らせを受けた時は、香料だけは知人に託し、通夜も告別式も失礼するつもりだった。最近では疎遠であり、葬儀の場も東京から遠く離れていたからだ。でも、夜寝る時分になってもなんとなく落ち着かず、仕事を放り出して告別式に行くことにした。

東名は順調で時間に余裕が出来たので浜名湖のサービスエリアで休憩を取った。精神に余裕の無い時にロング・ドライブをする羽目になると、メルセデスからBMWに買い換えたのは失敗だったと思うようになる。

告別式には大勢の人が集まり、驚くほどたくさんの花が供えられ、今もし自分が死んでもこんなにたくさんの供花はこないだろうな、と思った。残された奥様は沈痛な面持ちで、でも子供たちはまだお父さんが亡くなったという事実を受け入れられていない様子だった。小生も、焼香を済ませ棺を見送ってもまだ、その友人の死という事実を受け止められずにいた。だから涙も出なかった。

出棺を待つ間ずっと、近くに停まった参列者の黒塗りのレクサスがアイドリングを止めなかった。環境技術を売り物にしている自動車メーカーの役員車だ。なんというだらしないことか、と腹が立ったが、告別式の場で喧嘩をするのは慎んでおいた。

棺を見送った後、普段着に着替えて、近くの病院に見舞いにいった。夏に同じ会社の後輩が急性脳梗塞で倒れ、幸い一命は取り留めたものの右半身に障害が残り、リハビリに取り組んでいる。その後輩は自分が倒れるまで”自分が働きすぎとか、ストレスが溜まってるとか、全然気がつかなかったっすよ。だって、同じ会社にはもっと働いてる人もたくさんいるじゃないですか。”と言った。あるひとつの求心力に吸い寄せられると、人は自分がどれほど無理をしているのかが見えなくなってしまうのだ。ナチスや大日本帝国陸軍じゃあるまいに。それにしても、30代40代の働き盛りが次々に倒れるなんて、どういう会社だ?

病院を出ると一気に東京までクルマを走らせ、自宅に着くとタクシーに乗り換えリッツ・カールトンに向かった。金沢から来ている旧友が泊まっている部屋に行くためエレベーターに乗ろうとすると、見目麗しい女性の従業員に呼び止められ、どのようなご用件ですか?と訪ねられた。多くの人が乗り降りしているエレベーターの前でそんな尋問を受けているのは私だけだ。結局、友人にレセプションまで迎えに来てもらうまで、私は見張られていた。彼女の目には私が余程みすぼらしく映ったとみえる。

リッツ・カールトンの部屋で夜景を見ながら男4人で再会の祝杯をあげる。なぜかバブルの頃に赤坂プリンスで飲んで騒いでいたころのことを思い出した。

ほどなくして階下のビルボード東京に移動。ゲソ天とこち天をワインで流し込みながらマイケル・フランクスのライヴ。この店ではゲソ天とこち天の盛り合わせを”シーフードのフリット”と呼ぶ。シーフード・フリッターかフリット・ドゥ・ラ・メールじゃないのか??そんなことに苛立ちながらマイケル・フランクスを聴いていると、マイケル・フランクスが実はモーズ・アリソンの物真似なのだと気がついた。

ライヴが終わると男四人で階下に降り、蜂蜜入りのソフト・クリーム。その後ラウンジでペルノーを飲みながらクレディ・スイスのダイレクターだというアメリカ人とご対面だ。最初は適当に喋っていたが、700kmのドライブと2本のワインがしっかりと効いてきて、ラウンジのソファーで居眠りをしたら、ホテルの従業員が慇懃無礼に私の肩を、トントンと叩いた。

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これは12年ほど前、2007年10月5日にmixiに書いた日記です。もはや毎日何をしていたかなど正確に覚えていられない年齢になってしまったのに、何故かこの日のこと、この日に感じたことは、今もはっきりと記憶に刻まれている。告別式で見た亡き友人の子どもたちは、もう成人したことだろう。彼らの心の中に、お父さんは生きているだろうか。

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