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器用貧乏になりたい

「あなたは器用貧乏だから何かに一点集中する癖をつけたほうがいいよ」とインターン先の上司に言われ、「器用貧乏だから、その癖を治さないとうまくいかないよ」というようなことをどこぞのキャリア支援の大人にまで言われてきた。それまでは、器用貧乏という言葉も知らなかったが、大学に入って何度も耳にしたこの言葉にいつしかどんどん自信を無くしていた。器用貧乏になんてなりたくてなったわけじゃないのに、いつの間にかレッテルを貼られた気がして、とても嫌だった。

文章を書いたり、写真を撮ったり、料理をしたり、WEBサイトをつくったり、旅をしたり、語学もそこそこできるし、お菓子もつくれるし、どんな環境でも生きていけそうな胆力もままある。でも、「わたしは〇〇屋さんです」「〇〇で生きていきます」「こんな原体験があって、こんな未来をつくりたいです」みたいなものが一切ない。そこそこ当たり障りなく生きていけるオールラウンダータイプなんて揶揄されることもある。

いや、でも待てよ、実は、言葉の意味を調べれば、そんなにネガティブな意味じゃないのかもしれないと期待して調べてみるも.....。

なまじ器用であるために、あちこちに手を出し、どれも中途半端となって大成しないこと。また、器用なために他人から便利がられてこき使われ、自分ではいっこうに大成しないこと。

やはり、器用貧乏というのは、なんだかいい響きではなさそうだとますます悲観的になる。

そんな風に、何度も器用貧乏という言葉を反芻するうちに、心の奥底のチクッとした痛みに付随するように「わたしはどうせ器用貧乏だから何も見つからずうまくいかない」「一生器用貧乏な人生なんだ」と呪いをかけて生きてきた。

時は過ぎ、2021年1月「ワシは器用貧乏じゃけえなあ!」と愉快に笑うおっちゃんがいた。おっちゃんは、広島県の山奥に住んでいて、時には家具を作り、畑を耕し、水道工事をし、薪を割り、毎日めじろに餌をやり、自作の機械まで作ってしまう。なんと、最近はTwitterも見ているらしい。恐るべし、器用貧乏の神。これが、器用貧乏のラスボスか......!と衝撃を受けた。ふらふらと山奥まで来たら、ぶっ飛んだ器用貧乏に出会ってしまった。

こちら、まな板を自作するおっちゃん。

「ん、もしや、わたしは器用貧乏ではないのか......?」

疑いもしなかった器用貧乏人生に、ついに疑念が生まれた。山奥にいると、壊れた水道にあたふたして何をすればいいかわからないし、家具も日用品も作れないから車で山から降りて30分の無印良品に駆け込むし、自分が食べるお肉の捌き方すらも知らない。こんなにも、生きていくための基本的なことが何もできないだなんてびっくりした。要領さえ掴めばそこそこなんでもできると思っていたけれど、水道修理は微塵も要領が掴めなかった。

こうして、器用貧乏にもスペシャリストがいることを知った。どの世界にもすごい人はいるもんだ。

こうなったら、あんなに嫌いだった器用貧乏という言葉がなんだかとても尊いものに思えてきた。せっかくなら、わたしも、スペシャルな器用貧乏を目指すぞと条件を洗い出してみる。

・衣食住をはじめとした生きるために必要な知恵を実践できる
・始めから最後まで一通り自分でこなすことができる
・なんでも手を出してみることができる好奇心がある
・頼まれたことは断らずになんでもやってみる
・器用貧乏に誇りを持っている

こうして眺めてみると、まだまだ何もできない、ただの貧乏だ。

わたしこそが器用貧乏だと名乗るには、衣食住全てにおいて、そこそこ身の回りの世話を自分でできるくらいには、知恵をつけて、挑戦してみなければならない。何もやっていないのに、23年しか生きていないのに、器用貧乏だなんて、烏滸がましい。そして、おっちゃんから、器用な人はとても豊かだと学んだ。頭で想像したものをさっと形にできる、おいしい野菜を育てられる、何事も楽しそうに取り組める。

こうして器用貧乏への道は始まったばかり。わたしも死ぬ前くらいまでには、おっちゃんみたいな愉快でスペシャルな器用貧乏になれていたらいいな。

友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。