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舟もなく ──No Boat in Sight

川をめぐる五つの断章


1 向こうの人びと

川の両側には異なった人びとが住んでいる

一方の岸に住む人びとは その場所で千年の時を生きている
彼らの毎日は そのほとんどが祈りと瞑想に捧げられている
一日六度 彼らは 川に来て泳浴し 祈り 瞑想する
夜明け 朝食後 真昼 午後 日没 真夜中

もう一方の岸に住む人びとはある季節だけ川のほとりにやって来る
彼らはふだん 川から離れて散り散りになって生活している
一年に一度 ある季節になると川のほとりに集まって来る一族の大きな祭を催す
言い伝えでは 遠い昔 彼らの祖先がそこから旅立ったと伝えられている

両岸に住む人びとは お互いを知らない
彼らを隔てている川幅は広く お互いの姿は芥子の粒ほどにしか見えない
どんなに大きな声も相手にはとどかない
けれどもお互いに相手の存在を知っている
川の向こう側に見える相手の人影を見逃すことはない

千年の時を生きる人びとは 向こう岸の人びとを恐れている
彼らはいつの日か 川をわたって襲って来る
それは 伝説が伝える「最後の日」だ
わが身をまもる術はない
なにしろ彼らは 不可能と思われた川をわたってやって来るのだから
一年にー度 向こう岸に人影が現れると
千年の時を生きる人びとはいつもにも増して
熱心に身を清め 折り 瞑想する
川に向かって祈りを捧げる
「聖なる川よ われらが罪を許し われらがとこしえの平安を護りたまえ」

一年の時のめぐりを知る人びとは 向こう岸の人びとを敬っている
彼らは 遠い昔 別れを告げた自分たちの祖先の末裔だ
伝説は 始祖の地を捨てて川を渡り 旅立った―組の男女の物語を伝える
彼らの日々の生活は厳しい
川を離れた荒地での日々は 耕作も 遊牧も 商業も容易ではない
ごく少数の成功者を除いて 彼らの大半は貧しい人びとだ
祭のたびに回顧される過ぎ去った一年は 決して平穏なものではあり得ない
彼らは川に向かって折りを俸げる
「聖なる川よ われらが罪を許し われらが始祖の地へ渡らせたまえ」

2 舟に住む人

都会の片隅 細い路地の奥に一般の小舟が置かれている
あたりに川や水の気配はなく
見上げれば巨大な高速道路あるばかり
車の流れと騒音は絶えることがない
小舟にはひとりの老婆が住んでいる
老婆が誰なのか どうして小舟がそこにあるのか 誰も知らない
毎日 夜明け前のひととき、老婆は小舟に横たわったまま耳をすます
ごうごうという激しい流れの音が聞こえる
この都会に住むすべての人びとの心の中に見えない川が流れている
人びとは自分の心の中を流れている川に気づかない
あるいは 気づいていても注意を払わない
ただひとり 老婆だけが毎日 夜明け前のひととき その音に耳をすます
その時間 人びとの心を流れる見えない川はひとつの大きな流れに集まり渦巻く
激しい川の音を聞きながら 老婆は静かに涙を流す
ある日 老婆はいなくなる
路地の奥に残された小舟を見て 何人かの人は老婆のことを思い出すだが すぐに忘れてしまう
何カ月かたって 路地の奥の小舟も無くなる
夜明け前のひととき
流れる川の音を聞く者は もう誰も居ない

3 生まれなかった子供たち

森の中の清らかな流れ
澄んだ水

銀色の小魚が遊ぶ

川の川底には生まれなかった子供たちが横たわっている
遠い昔のある日
長い金の階段が天と川底とを結んだ
川底から天へと階段をのぼった者は誰もいないが
雲の間から姿をあらわした大勢の子供たちが
階段をおりて川底に向かい
森の草木と生き物たちは
こぞって祝福の音楽を奏で子供たちを迎えた
子供たちはてんでに川底に横たわり
いまもその場所でまどろんでいる
丸い小石が小さな枕
香りのいい苔と水草が敷布
流れる水のベールに覆われて

夢見る者はひとりもいない
なぜなら子供たちはまだ一度も生まれていないのだから
夢で反芻するような記億もなく
ただ平穏な時だけが 永遠に過ぎていく

銀の小魚たちは知っているだろうか?
無心に泳ぐその川の
せせらぎは子供たちの寝息
川面のきらめきは子供たちの微笑み
すべての川はそこに始まり
すべての水はそこに還る

4 水の記号

砂の帯 川の痕跡
かつては偉大な川がここにあり
人びとをいつくしみ 恵みの源となった
照りつける日差しの下
旅人は砂の帯をさかのぼる
ときおり立ち止まって屈み
砂に水をあらわす記号を記す
この旅の目的を忘れないように
水をあらわす記号は
いつも柔らかな曲線で描かれる
小さな円を描き 手を洗う
大きな円を描けば 家族の食事の支度ができる
三本の曲線を並べれば川
何層かの波を描けば海になる
雫のかたち
渦巻き
水の記号を記すたびに さまざまな川の記憶がよみがえる

砂の帯を歩く旅人はみなひとりきりだ
誰かが砂に描いた水の記号を見つけた時だけ
旅人は別な誰かの存在を感じる

「渇望」している記号

私と同じ──
旅人はつぶやく
時には 記号に新しい線を書き加える
そうやって もはや記号とは言えない巨大な図となったものもある
水をあらわす解読不能な曼陀羅
砂に描かれた記号を誰も消さない
ただ 雨と風が 長い時間をかけて線をぼやかしていくだけだ
消えかかった線を後から来た誰かがなぞり書き直す
そうやって何世紀にも渡って伝えられた記号も多い幾世代にも渡る

「渇望」する旅人たち

旅の終わりは決してこない
誰も泉には行き着かない
ふたたび川がよみがえり
旅人たちが記した膨大な水の記号を 一気に押し流す日は決してやって来ない

5 花が降る

川岸辺で暮らす若者がいる
汚れた川
水は濁り あらゆる汚物が流れて来る
とうの昔に魚や生き物はいない
若者は川底をさらって生活の糧にしている
若者はその仕事を彼の父から受け継いだ
父はそのまた父から仕事を受け継いだ
三代にわたる仕事について 言い伝えられた教えはただひとつ
浮かんでいる物には価値がなく 沈んでいる物にだけ価値がある

どんなにこころを奪われても 浮かんでいる物に手を触れてはいけない
若者は毎日 細かい目の荒を持って 川に入る
川底をさらい 沈んでいる物を探す
浮かんでいる物には価値がなく 沈んでいる物にだけ価値がある
──しかし 沈んでいる物の大半もなんの価値もない役に立たずだ
けれども若者は教えをまもり 毎日 根気よく川に沈んでいる物をさらい
さらった物を水で洗い 乾かして 丁寧により分ける
ガラスの瓶や金属の破片 少額のコイン 光る石 欠けた陶器……
一年に一度か二度 本物の金貨や宝石 古い神像 あるいは錆びた銃器などが見つかる

ある日 若者は仕事をしながら不思議な物に気づく
小さな桃色の花が一輪 川面に浮かび 流れて来る
川下から川上へ!
汚れた川の流れに逆らって
川面に浮かぶあらゆる汚物と逆行して
一輪の花が流れて来る
半身を川に浸かった若者は 思わず手をのばして その花を拾い上げようとする
父の教えを思い出す
どんなにこころを奪われても 浮かんでいる物に手を触れてはいけない
若者は差し出しかけた手をひっこめて ── 花を見送る
いままで嗅いだことも無いようなかぐわしい香が
あたりに漂う川上に向かって流れていく一輪の桃色の花の香り

その日から 不思議な花とその香りが 若者の頭から離れない
川底をさらう仕事をしていても いつの間にか手を休めて
気がつくと じっと川下の方を眺めていたりする
あの花がもう一度流れて来ないかと
当てのない期待を抱いて

──ある日、若者は決心して旅に出る
川下に向かって川岸を歩く
川下に行けば行くほど 川は濁り
流れに浮かぶ塵芥の量も増えていく
悪臭もひどい

「俺はどこに行こうとしているんだろう?」
若者は考える
あの花がどこから流れてきたかを知りたい
「なぜ?」
若者は自分でもわからない
川幅が少しずつ広がっていく
流れは次第にゆるやかになる
その底に 静かな狂暴さを沈めて…‥

三日日の朝 若者は足をとめる
淀んだ川の悪臭の中に あの花の香りが微かにただってくる
若者は見る
はるか向こうの対岸に ひとりの少女が立っている
朝の光をまぶしそうに見上げて微かに微笑むその口許に
──あの桃色の花が一輪
若者は思う
あの少女のいる岸に渡りたい
川幅は広く 水は深い
だが 若者はつよく願う
「俺はあの少女のいる岸に渡る」
次の瞬間 若者の姿は巨大なー匹の象に変わる
象になった若者は 黒い水に足を踏み入れ ゆっくりと川を渡りはじめる
少女のロから一輪ずつ吐き出される桃色の花が
いったん天に舞い上がり 川を渡る象の背中に降りかかる
川は次第に深さを増す
川底のぬかるんだ泥が象の足にからみつく
思いもよらぬ急流が象の足を押し流そうとする
けれども象は ー歩一歩 注意深く 恐れずに川を渡っていく
川は次第に深さを増し
象の姿が少しずつ沈んでいくけれども象は歩みつづける
やがて 象の姿が川面から消える

象の背中に降りかかっていた花が 川面に浮かび
川下から川上に 静かに流れていく

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