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一人芝居をつくっている


なんだか毎年エントリーしているのだけれど、今年こそは初めての方とタッグを組んで(自作自演でない形で)参加したいな、と思っていた1月ごろに、同じく相方を探しているっぽかった濱野さんに声をかけて、二人でお茶をして、かなり話して、意気投合したように思えて、オンラインで打ち合わせを重ねて、エントリー前だと20時間くらいかな、話して、作品の構想も二転三転して、ひとつの枠組みに落ち着き、濱野さんがエントリーシートを書いて、タイトルも決めてもらって、んで提出し、倍率が高いらしいと聞き、自分は過去に参加したこともあるから半分以上諦めていたのだけれど、無事に参加することになり、僕も福岡に帰ってきて、実際のリハーサルを6回かな、してて、はじめの打ち合わせからだいたい作品のことを40時間弱くらい、進めてきていて、第一段階がまもなく形になるというところで、全然稽古場の写真とか撮ってないから載せるものもないのだけれど、今回新たに取り組んでいることとか、ここまでやっていることとか、作品の現段階のまとめメモを残そうと思って。



濱野貴将と加茂慶太郎の両方を知る人からは、「意外な組み合わせ」とか「そこ、合うの?」みたいなことを口々に言われていて、いやぁそうですよね、という感じで、ぜんぜん分かる、んだけども、とってもがっぷり四つで組みながら、作品のバトンをどちらかが長く持つとかでもなく、二人で両端持ち続けるみたいな感じで、よろしくやってこれていると自分では思っていて、合ってるかは分かんねんだけども、ちゃんと組み合わさっているよ、とそのつど答えている。



濱野さんはみんなどういうイメージだろう、結構エンタメの芝居に出ている印象が僕はあって、ハキハキ、とか、チャカチャカ、とか、ガッツ、エネルギー、とか、そういう擬音が身体のまわりに付いているような、そんなイメージの俳優さんだった。

僕は、どういうイメージを持たれているかあまり想像できないのだけれど、わぁ〜あんまり考えたくないね、どういう擬音が出てくるのでしょうね、チマチマとか、なんかそんな感じなのかな、まぁ濱野さんのそれとはちょっとだいぶ違ったジャンルのものなんじゃないかと自分でも思っていて。

で、それは、これまで結構喋ってリハーサルしてきていても、別に覆ったりするものではなくて、芝居、えーと、観てきた芝居、やってきた芝居、好みの芝居、などからくる、頭にパッと浮かんだり「やりたい」ってシンプルにすぐに思ったりする芝居のテイスト、毛色にそういう違いがあるよねってことで、人間の部分、考え方とかの部分というのはそれとはまた違うものだから、そっちの部分で投合して「一緒にやりましょう」とスタートできているので、だから、組み合わされているのだと思う。



2月にオンラインで話しているときとかは、話もあっちこっちいってしまって(別にそれもそれでいい寄り道だったのかもしれないけど)、というのも、「どんな作品にしようか」みたいな話をしちゃってると、「こんなストーリーで…」とか、「こんなことが起こって…」とか、「こんな人が…」とか、そういう作品の枝葉の部分のアイデアのかけらみたいなものばかりをぶつけ合うみたいな時間をけっこう過ごしていて、そういうアイデアは、やっぱり芝居のテイスト、毛色に基づくから、僕たちではなかなか一致することはなくて、諦めたり無理に説き伏せたりとかしたりされたりすることなく、もっともっと根本の部分を見つめて見つけていこう、と、話をシンプルな部分から重ねて、そういえば途中で、濱野さんが出演してた現場で思うところもあったようで一回この作品が頓挫しかけて、そこで僕も「ダサいっす」みたいなこと言っちゃってたりもして、これは頓挫するのがダサいって意味じゃなくてその思うところの内容とかにダサいと言ったのだけれど、まぁそんなことも経つつ、この協働での大切なことみたいなことの輪郭がだいぶクッキリしだして、加速した。


この、オンラインで喋ってるだけだったこの時間だけで、けっこう自分的には「やってよかったな」と思える経験になっていて、というのも、手近な、思いついた構想みたいなものをどちらか、誰かだけが持っていて、それを説明して相手に納得させるとか、ペーストするとか、そうなってもおかしくなかったと思うのだけど、そして思い返せば、そんなふうな創作ってこれまでにいっぱいやってきていて、いま自分はそういうふうに作りたくはないと思っているのだけど、今回はそうならずに済んでいて、ベン図を自分たちの手で広げて重なる部分を探すことができた、もっというと、その重なりを見つけて、そこで作品をつくることが今回私たちがしたいことだよね、と合意できたこと、そこの部分からできたこと、これにとても納得できていて、嬉しいと思っている。


エントリーから本番までが短いし、上演時間も30分だし、手間をかけないという理想もあるかもしれないけれど、そして、手間をかけることが必ずしも良いとも思わないけれど、そこを軽視せずに取り組めていて、諦めなくて良かったなと思っているし、毛色が違うからこそ、タッグ組んでみて、「ここはお互い通じてるよね」みたいなものを信じてみてはしっくりこない、みたいなことを繰り返せて、だから知れたことだと思うし、これらは自分が演劇創作の作品の外側でいまやりたかったこと、取り組みたかったこと、直面したかったことだから、現時点でも成果感を持っているのだけれど、このまま上演作品も、作品こそ、二人ともが納得の形になればいい、なってほしい、したいと思っている。




ということで、ここまでが主にエントリー前の、実際のリハーサルに入る前の話で、エントリーして、ラインナップ発表されて、いま公開されてる作品情報はこちら。

『在るべき形へ』

出演・原案:濱野貴将
構成・演出:加茂慶太郎

「僕の友人の話なんだけど.....」話し始める男。場所はどこかの医療施設のようで、彼はここで暮らしているらしい。
「僕もここ長いんだけどさ、」友がそこを去っても、彼はそこにいる。もはやいつから、どうしてそこにいるのかもよく覚えていない。毎日は同じ表情をして通り過ぎてゆく。隣の芝生はもう青くない。「でもね、」今日は違う。その友人が会いに来る。
男が決意するまで、あと30分。



ここから先は、具体的に作品の話、リハーサルで何に取り組んでるかとか、現段階の作品の形とか、そういうの書くので、ネタバレしないでおこう、という方はここで閉じてくださいね、本番観てから読んでいただくのも楽しいかもしれない。



ここまで読んでくれてる方はとても関心を持ってくださっている方だと思うので、よかったら濱野×加茂チームから予約してくださ〜い。

https://www.quartet-online.net/ticket/fuk24?m=0zhfjfe

6/8(土)16:00~[ a d f ]
6/8(土)18:30~[ c b e ]
6/9(日)13:00~[ c b e ]
6/9(日)15:30~[ a d f ]
私たちは b チームです。なので[cbe]のほう。
3作品の真ん中で発表します。












注意:ここから先は作品の内容についても書いています










劇への抵抗?

ざっと、あらすじの正解率というか、本番の上演との整合率は60%くらいかなという感触で、作っていくなかでやっぱり変わってくるなぁというか、作られるもののほうがいまは大事に思えていて、あらすじにビタビタにハメにいこう、とはあんまり思っていなくて、そこの合致を求める人がいたら本当にごめんなさいと思っている。



クレジットにも[作]がないように、この作品は二人で作っていて、加茂はここのところいつもそうなのだけど、戯曲を基にしないというスタイルを取っていて、今回もそこは譲れないというか、まぁなんせ書けないし、書けないのは技術の面もあるし、なんかその流れにまだ納得できないというかしっくりこないからで、二人で話していても戯曲を用意するのは違うね、となったので、戯曲はない。

のだけど、本番で話すことはほとんど決まっていて、その話題運びとか、こんなことは話すでしょうね、このワードは出てきたくないね、とか、そういう喋る内容のことを最近の稽古ではいったん決めていっている。



最近の自分の演劇との距離感のひとつに、「への抵抗」がある。

演劇の評価みたいなとこって、これは評論家とかそういうレベルではなくて、Twitterに書く感想みたいな、個人的な感想レベルの話なのだけど、それでの評価は、劇、すなわち物語の評価と、演、自分のいまの解釈だとそれはほとんど演出と俳優が担うのだけど、当日そこの空間で何が生まれるかみたいなこと、それの評価の二軸を混合しながら下されることが多いと思っていて、つまり、劇さえ良ければいい演劇とされることもあれば、その逆で演の部分だけよくても「よかった」とされることがあって、合わせ技でどちらも良い場合はもっと良い、みたいな、ごめんなさいかなりざっくりなんだけど、そのどちらもよくないと演劇としてはダメなのかもしれないとは思うのだけど、なんとなく世間的には、劇か演かそのどちらかでも良いものであれば、いい演劇作品として受け入れられる、そんなふうに感じていて、自分はけっこう、観客のとき、演の部分さえ良ければそれで満足するタイプで、濱野さんもわりとそっちっぽいんだけど、自分はけっこうそっちの過激派で、劇については極論マジでめちゃくちゃ軽んじているフシが今のところあって、だって、劇がいいだけなら、演劇じゃなくてもいいんじゃないかと思っちゃったりするから、、、もっとここを今年は勉強していきたいと思っているのだけど。

だから、今のところの自分の解釈だと、劇への抵抗感っていうのは、イコール物語への抵抗感だと思っていたのね、物語を演劇製作者側が規定して、示して、差し出すこと、それに対して抵抗があって。

先日の実験ラボの取り組みの前提、スタンスもそこに通ずる物があると思うのだけれど、僕と宮崎さんのなかでは、ていうか宮崎さんは、「俳優がワガモノ顔でセリフを言うのを避けたい」と言っていて、僕もそれに賛同していて。

だけど、いまんとこ書いてて公開されてるあらすじはめっちゃ物語なんよね、これはある種しょうがないことで、あらすじを提出する必要があったと思うし、ここの折り合いをどうつけるのだろうか、おそらくイコールではない劇と物語の線引きを探ること、がひとつ今回のポイントだと思ったので、物語的なあらすじで提出した。



実験ラボとあわせて、なんとなく自分が気づいているのは、いま自分が「これはやりたくない」と思っていることが2つあるということ、そしてその先。

物語のなかで、感情、感想、心理を明確に提示したくない
Aは〇〇と思ったからこれをした、とか、これが起きてAはこう思っている、みたいな、心理・精神にまつわる因果関係を、作品のなかで用意しない。観客がどう受け取るかは自由であり、演出的に「こう見えるだろうな」という意図はあるのだが、”明文化”してしまわない。

これは、戯曲・物語の段階で、それを避けたものを書くことは可能だと思う。できごとや経過だけが記されていればよいのではないか。自分はこう思っている、みたいなこと、例えば「悲しい」みたいなことを書かないでおけば、そういう物語を用意できるのではないか。てか、それが戯曲か。

だから、物語をまるごと忌避するのはちょっとお門違いかもしれない。

出演者を登場人物にしてしまいたくない
舞台上にいる俳優が、舞台上にある物語のなかの存在となってしまうと、その上演は物語の伝達の機能に終止すると思う。上演中、その身体がそこにあることをそのサイズで受け取れるために、役を背負わせない。

これはいまでも、そう思う。
セリフをそのままに説得力のあるように”演じる”ということへの抵抗感は残っている。
現実、劇場内での時間軸空間軸に紐つける演出が必要で、それがあれば、回避できる気もしている。

たぶん自分が、演劇というか芸術そのもののリテラシーがまだまだだいぶ低くて、物語とか心理とかをけっこうステレオタイプ的に受け取ろうとするフシがあって、勧善懲悪とかハッピーエンドとか、いやそこまで単純な受け取り方はもはやしてないんだけど、あいついま嬉しいだろうなとか、凹んでんなとか、こういう人間だよなとかって、けっこう気安く他者を自分軸で判断しちゃう人で、気を抜くとそっちに流れていっちゃいそうになるときがあって、でも、これわりと最近気づいたんだけど人ってそんな単純じゃなくねって、知らん分からんで当たり前だよな、否定も肯定もする立場にないよな、みたいなふうに思いながら生きるようになっていて、そう流れるリスクを避けられるなら避けたいと思っている部分がこの背景にある気がしている。



で、今回の作品では、舞台上の濱野さんは友達の話をするんだけど、それは時間経過があってできごとがあって、その友達だけじゃない登場人物もいて、そういう「おはなし」をするんだけど、その登場人物に自分からなりにいくことはなくて、ただ、物語については、けっこうしっかり物語なのかもしれない。心理とかの明示を避けつつの。



という、あらすじにも関わるような、作品の「おはなし」の部分の中心をいま二人で組んでいるところ。

一人芝居で、出てきた俳優が身の上話をするみたいなの、なんかもうそれだけで工夫なさそうでありきたりで面白くなさそうに感じちゃうんだけど、それはあくまでテキスト上の話で、といまのところ整理している。




それにいたる過程について。



注意:ここから先はマジで作品の内容について書いています







原案

この作品というか企画は、最初にお茶をしたときに挙がった、濱野さんの持病とのつき合いをかつて一度作品にしたけれど、それをリライトしたい/演劇とのつき合い方を今後改めるかもしれず、区切りを持ちたい、という2つが、企画のスタートのうえではけっこう柱になっている。



濱野さんにはチック症状がある。
23年間それとつきあっている。

これを、この機会(創作もそうだし、会場での時間もそう)の根幹にする、というのが、私たちの取り組みの中心にある。

稽古中もしょっちゅう症状が出る。
濱野さんは、信頼してる相手の前じゃないとあんまり出ないんだけどね、と言ってくれている。



そのことが、どういうほどのものなのか自分にはわからない。
濱野さんはとても、とてもしんどい思いをたくさんしてきたと伝えてくれる。けど、そのしんどさみたいなことは、僕に分かることはできなくて、想像することしかできなくて、それは言うまでもないことなのだけれど。



これを、企画の中心としては据えつつも、作中ではどのように置くかということがはじめから大きな話題としてもたげていて、それは「おはなし」のなかに登場する可能性もあったのだけれど、そうではなくて、「おはなし」の外側で、けれど作品に大きく影響する関わり方をする。



(これを書いて公開することについて、濱野さんに許可を取っています)







実際のリハーサル

これまで6回、稽古場でリハーサルをしてきていて、その過程。
毎稽古A4ノート3ページくらいメモが増えていくんだけど、客観的なメモではなくて、演出家である私が拾った、すごく主観的なメモ。



①4/16
近況を話しつつ、踊ったりしてみてもらった。
まず5分間ただ立ってみた。その際に微細に動いた手などの振動を全身で鳴らしてみる、全身で面白がってみる、というのをした。
その際に出てくるチックの症状は、それに合わせたくなったり、信頼したくなったりするものだね、と話したりした。
加茂は、濱野さんの、”魅せ”の要請が、肉体にとても行き届いているのだなと感じて、「動き出すときに終着地が決まっているように見える」と伝えた。

外からの人/内の人
「一人芝居だから良かった」
砂いじり
お客さんといる時間
演じようとする自分
後ろから見られている感覚
音ばかり聞いていた
デザイン/思いやり/性格
印(じるし)
なにもないことの焦り
自分のなかでのつながり




②4/18
タイトルを話題にあげて、それから連想できることについて話した。
そこからワードを拾って、「流れ」をキーワードに濱野さんに小作品を上演してもらった。すね毛をカウントしながら抜くというのをしていた。加茂はなにそれと思ったがおもしろかった。とても。
「集中している間はチック症状が出にくい」という仮説でスタートしたらしいその作品では、チックの症状が出たらカウントを一からやり直すという行為がなされていた。上演では、悔しがったりする演技的な部分もあったと感じたのだけど、加茂はその行為の部分にときめいた。
その後、エピソードを話して、症状が出たらまた頭から話し始める、というのをやってみた。
加茂はそれを見て、とても興奮した。ほんとうに。

楽観的
漂い続ける
無理にチカラは加えない
人にはどうにもできない自分の悩み
流れのままに
流れ→意識の流れ・開き




③4/21
先の稽古でエピソードを話してもらうときに、加茂は「舞台上でお客さんに喋る感じで」と伝えた。「舞台上で」「お客さんに向けて」「喋る」とはどういうことなのか話し合った。空間と人数に呼応して、客席に座るひとり一人にベクトルを向けて、人数分の矢印を伸ばしながら喋る、ということになった。
サンプルとして、どういうレイヤーがしっくりくるのか、イメージを出し合った。保護者説明会、三者面談、ラジオ、大人数のカウンセリングを経由して動物園、フクロウやフラミンゴの圧、というところで、フラミンゴって飛ぶのに助走が必要で、動物園ではその助走距離が取れない絶妙な広さで飼育されているらしい、という話に二人でおもしろ、となり、動物園に(それぞれで)フラミンゴを見に行こう、と話した。
その後、2分くらいの長さの友人とのエピソードトークを3本、しかしうち2本は嘘のエピソードというのを披露してもらって、どれが正解か当てる、というのをした。正解した。進行形の記憶は叙述的でつらつら、パッケージ化された過去の記憶にはカット割りが入っていて、ブロック的だね、と話した。
さらに、本当だったエピソードを英語で喋ってみたらどうなるか試した。話しているとき、思案しているとき、ベクトルのメリハリがすごく効いていたように見えた。
盛り沢山な日だった。

なぜ話すのか
お客さんは話を聞いている・聞かされている・聞かざるをえない・思わず聞いてしまう・盗み聞いている・片手間で聞いている
”と喋っている”→聞いてくれているつもりがある
小さいzipファイルがたくさんある
単語から想像する能動性
鉄板エピソードなんだな




④4/23
初めて朝に集まった。
この日にひとつ大きな方針を決めたので、いったんメモの形式から逸脱する。

この作品を成り立たせる要素として、いくつか分解できる。
前提として、濱野貴将が当日のぽんプラザホールで観客の前に立つという事実があるのだけれど、そのうえで、そこで濱野さんが何をしているのか、上演を上演として捉えるときの分解。
・レイヤー(何が何に/身体・空間)
・様式(どう/ルール)
・内容(何を/発語)

これらをいったんここまでの材料でそれぞれ固めて、ひとまず形にする(Ver.1)。それに、その後のリハーサルで変更(構成・演出)を加えていく、ということにした。

加茂はこれまで、特にマルレーベルでの『る?』や『一等地』では、クリエーションでとにかく要素を出して、風呂敷を広げて、あんなこともこんなことも、これらをどうまとめ束ねるか、というやり口で作ってきた。
「まず形にしちゃう」というやり方に、挑戦というほどのことではないのだけど、今回は試しにそういうやり方でやってみようと思った。
昨年参加してた倉田翠ダンス講座で感じ取ったことと関連する。

ひとまず、レイヤーは「フラミンゴ」、様式は「チック症状がでたら振り出しに戻る」ということにして、ではこれから内容を考えていきましょう、ということになった。

クリエーションでの話題がクリアになって、今作を作りあげるまでの道筋がここで明確になったと加茂は感じた。

というかそもそも、観客に向けて喋るというフォームでいくということについては、先の稽古での振り出しに戻りながらのトークに加茂がとんでもない魅力を感じて、それでいってみませんかと提案し、そうなった。踊るとか、演じ抜くとか、メタに立つとか、いろいろあってもいいのだけれど、時間に限りがあるとか現実的な選択基準を抜きにしてもこのやり方を信じたいと思うほどに惹かれた。なので、今回のこのVer.1は、様式が先んじている。




ということで、引き続き4/305/1の稽古でも内容の話をした。
企画の柱のもう一つに、演劇との付き合い方というのもあるから、濱野さんがなんでいま福岡にいるのかとかそんな話を聞いて、自分語りは聞いてられないね、とか喋って、友人ってどういう人がいるんですかとか聞いて、憧れという感情について喋って、数字が苦手だという話を聞いて、「帰ってくる」のは物理じゃないかもね、という話になり、チェックポイント、残機といったワードも経由しつつ、一人、濱野さんの実際の友人の話をすることになって、いまはそのカット割り、話題上の構成をおこなっている。

次回かその次の稽古で、Ver.1は形になるのではないだろうか。








演劇、覚悟、あるいは逃げ

演劇作品として差し出さなくてはならないと思う。



演劇であること、とは、つまり、そこの場所でフィクションが生じるということ、と、今のところ納得している。標榜するほどではないが。
今回の作品は今のところ、作者の一人である濱野貴将の、身体的特徴かつ実話という、大きなリアルを、基にしている。

ドキュメンタリーやセルフケアを目的としていない、発端とはしていないのだけれど、そのように映る可能性は今のところとても高いと思う。

目的としていない、というのは、つまり、チック症状が本人にとってどういったものなのかを観る人に伝える、例えば”ツラい”のだと伝えるような、そういうことを目的としているわけではないということ。
内容については、その友達の話をすることで、例えば過去の自分を救いたい、というようなことを目的としていないということ。

結果的に、観る人の感覚が、濱野さん本人のものとすごく近いものになったり、濱野さん本人が救われてしまう可能性はあるのだけれど、それを目的とはしていないということは、とてもとても重要だと思っている。
作品が何かを伝える必要は全くないと日頃から思っているが、その一周外側で、それが目的ではないのだ、ということが、逆に、観客に伝わる必要がある、とすら思う。



濱野さん本人は、全然だいじょうぶ、と言っているけれど、というか、やっぱり誤解を招きたくないので一応書くのだけれど、僕から「これをやってほしい」と強くお願いしてやってもらっている、ということには今回なっていないから、二人の意思でこれをやっているのだけれど、僕は、もし自分だったら、リハーサルで何度も、自分の特徴と、向き合い続けること、試すことには、耐えられないかもしれない、

と思う。

これは、ツラそう、という認識が働いているからで、本人もしんどかった、しんどいと言っているし、一緒に関わっていてしんどそうに自分には見えていて、でもこれは、本当のその実というものは、誰にだって、当事者本人でさえも、わからないものなのではないかと、私は考えている。
実際にその症状により動く筋肉の運動量や頻度、起きやすい状況などの事実があって、一方でそれと生活を共にするなかでのストレスや悩み、不利益や利益、それらの複合、総合としての受け取り方というのは、受け取り手の性格や性質も絡むことで、なによりその形成にも現状にも影響を与えていて、当事者本人であっても、簡単に言語化できるものではないと思うし、そもそも何のためかに言語化したりするべきものでもないように思う。それはそれとして、あるということ、に、主観的な感情や判断を持つ度胸が今の自分には湧かない。と同時に、当事者や第三者の主観で切り取られ(味付けされ)差し出されるものを信じることもできない。

ツラそう、と思う、その症状を持たない自分による謎のマッチョイズムのようなものに自分のなかで直面して、それについては悲しい気持ちになったりしている。



このリアルは、リアルなままに差し出すべきだと思っている。
だから今のところのVer.1では、濱野さんが話しはじめて、チックの症状が出たら、またはじめから話し直すというのを繰り返す。
何度繰り返すことになるか分からないし、一度も止まらずに話し続けられるかもしれない。
ここは絶対に演出しない。

けど、話題のなかでのチェックポイントを設けている。
中学時代のエピソードが終わったらひと区切り、高校時代のそれでまたひと区切り、という感じで、そこまでたどり着けばそれ以上は巻き戻らなくて良い、とする。

それによって、濱野さんが症状と付き合いながら中学時代を過ごしてきた、その質感を、リアルタイムの等価な時間軸のなかで、擬似的に客席で体感できるかもしれない、そのように”感じられる”かもしれない、というフィクション性で演劇たらしめられないだろうか、といまのところ考えている。
ここには演出がある。



あるいは、エピソードを話す(今の)濱野さん本体に、かつての(想像の)濱野さんを重ねて観るという、シンプルなフィクションも起こり得るようにしたいと考えている。

とにかく重要なのは、その時その場所でいまの俳優が人間としてそこにいることであって、今作では”空間と人数に呼応して、客席に座るひとり一人にベクトルを向けて、人数分の矢印を伸ばしながら喋る”ということをつぶさにやること、空間に接続し続けることだと思っている。
これがこの上演を担保する。これがなくなると上演にならない。



リアルそのものを作家(私)の主観で切り取って、フィクション化をこちら側で済ませてそれを”見せる”ということは、どうにも今の自分にはできない。
切り取りはするのだ。でも、ルールとして定めて、事実の部分と質量は曲げずに、舞台上に置くことに努める。
これは、もしかしたら、作家としての逃げの姿勢なのではないか、と思わずにはいられない。本当はそんなことないって思ってるんだけど、そうであってほしいという思いが強すぎてそう信じ込んでいるだけなのかもしれない。
覚悟を持って逃げているのだ、などと言うつもりにもなれない。

あるいは、作家として、俳優の特性の搾取をしているのではないか、と、それを否定する権限は持ち合わせていない。
本人がいいと言っているからいいのだ、ということは絶対にないはずなのだ。
だけど、人間関係の最小単位、2名だけど、いまのところこれでいってみよう、と合意している、これは事実であるはずで、そこには、いち人間として立ち会っている濱野貴将と加茂慶太郎がいて、その二人の感覚を否定することも、誰ができるのだろうか、とも思う。



考え続ける。
すごく、作品をつくっているなぁと思う。

本番は、だから、作ったものを見せる、一面もあるのだけれど、けっこう、立ち会う、時間にもなるんじゃないかと思う。
物語を純粋に娯楽で楽しみたいお客さんには申し訳ないけど、そればっかりじゃない、ということで、そのようにも観れるとは思うんだけど、かといって、お客さんを不快にさせようとか、そんなことは全く思っていなくて、いい時間を過ごしていただこう、と、作っている。

舞台に立つ俳優としての、その手前の人間としての濱野貴将に敬意をもちつつ、そしてそれは同時に、人間全員に敬意を持つことと何も変わらないのだ、と、




読んでくれてありがとうございます。