青線の女たち
薄野などの花街の代名詞で、
「赤線」(アカセン)」という言葉を、
聞いた事はあるでしょうか。
今の若い人たちには、聞き慣れない言葉かも
知れません。
官許の元に設けられた遊郭街のように、
表向きは特殊飲食店と称して売春行為が行われていた
地域の地図を、警察が赤い線で囲んでいた為、
赤線と呼ばれるようになりました。
それに対し、一般飲食店の届け出のみで
売春行為も行われていた屋台や街娼などが
たち並んでいた地域は、青い線で囲まれていたので
「青線」と呼ばれていました。
今の薄野では、屋台を見かけることも
ほぼ無くなりましたが、昭和32年の新聞記事には、
中央寺や新善光寺、成田山新栄寺の周りには、
100軒以上の屋台が並んでいたとの記載がありました。
屋台の多くは、畳1枚にも満たない
小さなツブ焼の屋台で、店に近づくと年増の女性が
ニュッと顔を出し、タニシに似たツブ貝を
焼いて出していたそうです。
店主は、客の様子を伺いながら
「お兄さん、貝は美味しいかい?
よかったら別の貝もあるよ」と声を掛け
客が同意をすると、若い女性を手配し
近くの安宿へと促すのでした。
屋台に立つ年増の女性たちというのは、
大半が若い頃に自身も客を取っていた
女性たちだそうです。
薄野の寺町界隈で育った方にお話を聞いたところ、
「お寺の境内では、いつも朝な夕なに
何処から来たのかわからないけど
子供たちが遊んでおり、
今思うに、母親が仕事をしている間に時間を潰していた
子供達だったんだろうな……。」
とのこと。
赤線から零れてしまった女たちは、
青線街で、身を寄せ合うように
暮らしていたのでした。
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