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本ノック!#2八木澤高明『ストリップの帝王』

こんにちは、カモハイです。最近、キワ物系ばかり読んでます。今日は、ストリップの帝王について、感想と内容を交々に記録をつけていきたいと思います。

内容
本書は昭和初期から平成前期において大いに賑わったストリップ業界の”ドン”を取材した1冊である。日本におけるストリップの歴史がこれ1冊でだいたいわかる。

****Amazon紹介文*****

ヤクザと闘い、警察を出し抜き、ストリップ業界を支配した元銀行マン!!
( 中略)​
このような武勇伝と裏腹に、帝王と呼ばれた男・瀧口義弘は線の細い銀行マンだった。
福岡の進学校を卒業後、福岡の福岡相互銀行(現・西日本シティ銀行)に勤めていたが、昭和50年ストリッパーとして活躍していた姉に誘われ、その日のうちに辞表を出して劇場に飛び込んだ。
以降、彼は帝王としてストリップ業界を差配するまで上り詰める。
15年以上にわたり、日本各地、世界各国の色街を取材し、ストリップ劇場の栄枯盛衰も見てきた著者が描く、悪漢にして好漢の一代記!!

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ストリップ・・・それは非常に蠱惑的でひめゴトをオープンにしてしまう禁断性を併せ持つステージ。今や、ストリップ劇場は最盛期からめっきり数えるほど減ってしまって、過去の栄華はどこへやら。作者の言葉を引用すると「斜陽というよりは落日寸前の芸能であるストリップ」である。
そんなストリップの最盛期は月収1億8千万円。その世界を切り盛りした大物の取材記録である本書を1章ずつとりあげながら、そして感想も交えながら書いていく。

1章:芸界ー銀行マンストリップ業界に入る


本書の主人公は瀧口義弘。
瀧口は1941年、昭和16年の生まれである。
wikiによると”福岡県宗像郡河東村に生まれた。福岡県立宗像高校を卒業後、福岡相互銀行に入行する。1975年(昭和50年)、34歳のとき、ストリッパーだった姉の桐かおるから突然掛かってきた一本の電話で、その日のうちに銀行に辞表を出して、1ヶ月の残務整理の後に、翌月には彼女が経営する木更津の木更津別世界で経理の仕事を始める。”

瀧口は、福岡相互銀行(現・西日本シティ銀行)に入社して10年、このときすでに妻と2人の子を養う一家の大黒柱であり、エリートなサラリーマンだった。
しかし、彼には幼い時からヤンチャで豪胆で腕っぷしの強い、ヤンキーかという姉がおり、その姉がストリップ劇場で脱いでいるが、帳簿をつけに明日からこい、といわれ、妻子を置いて、なんと翌月には木更津まで着の身着のままうつってしまった。
そのことを妻や子に相談などしなかった。「一度言ったら聞かない姉だから」と、簡単に引き受けてしまう。
一方、姉といえば、ヤンチャがすぎて勘当同然に家をでたのに、なんとストリップ劇場に両親や弟を呼び寄せ、劇場の運営を手伝わせていた。
しかし、両親は年老いてきたため、田舎に帰りたかった。そこで白羽の矢が立ったのが瀧口である。
このような経緯で、優秀サラリーマンであった瀧口はその後の人生をすべて投じることとなるストリップ業界へ華麗なる転身を遂げた。

この、とんでもない姉は桐かおりと言って、ストリップダンサーのなかでも「レズビアンショー」で大人気を博した女性である。桐かおりのショーは、”ビジネス”レズビアンではなく、本物のレズビアンショーだった。ショーの相手の女性は恋人であり、その恋人とは同棲していた。桐のショーの詳細は書かないが(本をよんでみてね)、なんとも艶やかで、ホンモノからくる真剣さに客はたちまち夢中になった。
そんな姉の頼みにより、どんどん引き込まれていく(というか引きずり込まれていく)弟の義弘である。はじめは経理だけだったが、後に「コース」(いわゆる手配士)として、ストリップショーの日本全体を握る「ストリップの帝王」になるのであった。

ストリップショーの種類と歴史


ストリップの歴史

ここでストリップの歴史を振り返りたい
【出雲阿国の登場】
話はさかのぼるが、歌舞伎の始祖である出雲阿国がこのストリップショーの起源といってもよい。もともと阿国はどこかの神社の巫女で、神社の修繕費を集めるために芝居で踊り始めたという。この芝居は基本的には性的な内容なものが多く、後には遊女が出演する遊女歌舞伎・女歌舞伎とよばれる歌舞伎が登場する。
この舞台に上がる遊女たちの芸や踊りは言わば「サンプル動画」である。舞台上で気に入った遊女を首席にあげたり、夜の華をつんだというわけである。

【額縁ショー】1947年~
戦後、大衆演劇がもてはやされたが、テレビの普及によって衰退していくと、その一座がストリップショーをはじめるといったことが多かったようだ。
ストリップショーの黎明期には、それはただ「裸の女性がステージにたつ」ことだけを意味していた。
今と何が違うのかといえば、「女性が宙に浮いた額縁の下部分に女性器を見えないようにして全裸で立ち微動だにしない」という「額縁ショー」と呼ばれる形態である。
本文によれば「黒いカーテンに覆われた、青い光が照らし出す。そのカーテンが開かれると、黒と金で縁取られた額縁になかに、一糸まとわぬ乙女の姿ががあった。スポットライトに照らされて、娘の肌は薄桃色に輝き、乳房を露わにして立っている。それを縁取る額縁が照明の光をきらびやかに照り返し、豪華な「絵」を作り出す。残念なことにその額縁は、娘のへそ下あたりを横木手腰や太ももと隠している」といった様子で、大変に盛況だったらしい。
この額縁ショーは1947年1月に新宿の帝都座で初めて行われた。タイトルを「ヴィーナスの誕生」という。

この時代は、ちょうど赤線廃止にむかう性風俗への締め付けが厳しくなった時代である。
女性が大衆の前で裸をさらすようなことはない時代だった。本書によると”多くの男たちが一目見ようとおしかけ何時間も列をなした並んだ”そう。ただ、裸で微動だにしない素朴すぎるショーをみるためだけに。
このショーは「すこしでも踊り子が動いたら(即ち性器が露出されれば)逮捕する」と警察が通告していた。それほどにこの時代は女性のストリップのなどありえなかったのだ。

近年、あの飛田新地が自粛し営業をしなかった期間がある。
正確には暖簾をださなかった時期だ。これは、2021年に開催された東京オリンピックの期間である。

東京オリンピックといえば、我々には2021年が記憶に新しいが、1964年に開催された「元祖」東京オリンピックの時代にこのストリップが性風俗の大々的摘発が行われた時である。
戦後の日本の復興を象徴する平和のスポーツの祭典を日本は必ず成功裡に終わらせたかった。

しかし、いつでも関西のほうはどんどん過激なショーにシフトしていった。
規制も少しずつ緩和されて、行水ショーなど、さまざまに趣向の凝らしたものが誕生する。少しずつ下半身の露出は増えるものの、やはりそれは禁忌であり、1分以上下半身を露出したとして1948年には広島の劇場が公然わいせつ罪で摘発をうけた。

【特だし】1970年代ころ~
特だしとは、全裸の女性が女性器をみせるショーである。現在のスタイルである。後述するが、この後さらにストリップは過激になるが、現在のスタイルをつくったのはこのころである。
【花電車芸人】
また特だしが始まったころから「花電車芸人」が現れる。ぶっきらぼうな説明だが、要は女性が、女性器を使って芸をするのである。
ファイヤー・ヨーコさんの芸は「女性器から火を噴く」こと。
ちなみに、花電車芸人の名前の由来は、本文によると「装飾された路面電車が花電車とよばれ、客を乗せないことから、芸者が性器をつかうものの、男を乗せないことから、そう呼ばれるようになった」そうである。
他には、女性器をつかっておもちゃのラッパを吹いたり、書道をしたり、吹き矢をしたり、客が言った方の色の碁石を性器からだしたり、性器でタバコをすったり、そういうものだ。
しかし、この花電車芸人は実は昭和初期かそれ以前から存在する遊郭の娼妓たちの芸の一つであった。赤線が廃止されて以降、次々にストリップに流入したわけである。

今紹介している八木澤高明氏が、2020年に『花電車芸人』という新書をだしている。その中から、ファイヤー・ヨーコさんのおちゃめな芸前の口上を紹介したい。
「消防法など完全無視の芸、そうわたしのお股から火をふいてみせましょう(中略)この芸をみても、絶対に消防署に垂れ込まないでください。以前、アホな客が通報して、消防署員が来たことがあったんです」(八木澤高明『花電車芸人』より)

このお股から火を噴く火力は、すさまじい。ポッと火がつく程度ではなく、まさに、ファイヤーーーーーー!っといった感じだ。
このように、花電車芸人はストリップの世界を彩った。

【まな板ショー】1975~1990年ころ
まな板ショーは、これまでの(そして現在の)ストリップとは一線を画する。ある程度、ストリップのショーをした後に、なんとショーのその舞台上で客といわゆる本番の性行為を行うのである。最初にこの本番ショーを行ったのは大島椿という女性だという。
これも、どんどん過激にになっていき、SMショーや獣姦ショーを行うことになる。
戦後のストリップ史の中で最も過激であったこの時代、なんと、まな板ショーで腹上死するものや、ショック死するものが現れたというから驚きである。
また、他にも、ミルクショー(精液を飲むショー)、金髪ショー(白人ブロンドの女性のショー、後に日本人が単に金髪にしただけになる)、じいショーなどがある。
このように、ストリップが性器を見せるショーではなく、使うショーになって以降、様々なバリエーションのショーが生まれる。
一方で、性器をさらすだけではなく、使うようになってからは日本人女性のダンサーの足が遠のき、その分、東南アジア女性が出稼ぎでショーにやってくるようになった。

また、ストリップショーの舞台の横手にいくつかの個室(といってもカーテンでしきっているような個室である)が用意されるようになる。踊り子たちはそこで春を売るのである。本書によると、その芸から逸脱した行為は、客を呼ぶ劇薬にもなったが、後年には取り締まりの対象となり、個室が消えると劇場の収益が大きく損なわれ、ストリップの衰退へとつながった。

そして、ストリップショーは現在の踊り子が踊って、性器を露出するというスタイルが確立したのである。

2章


2章では、瀧口の生い立ちが詳しく語られる。戦争中を生き抜いた瀧口は、やはり貧困を経験した。
しかし、戦後には父が元々料亭であった建物を買い、すみはじめた。家の目の前は海。水泳に励み、野球に熱中する学業も優秀な少年に成長し、その後、進学校に進学し、銀行員になった。その進学校では、不良たちとよくケンカをした。といっても、他校の不良たちである。
本人がいうには、1年もかかなないうちに不良たちと50回以上に及ぶ喧嘩によって話をつけて、不良たちが瀧口の高校に脅かしに来るようなことはなくなった。

そして1章で述べたように、瀧口は実の姉によってストリップの世界にはいることになった。
瀧口がストリッにかかわるようになってからよく見かけたのは『ヒモ』である。ヒモたちは踊り子のヒモであり、すなわち、昼間からなにもせんとふらふらして麻雀やらパチンコやらして踊り子に養ってもらっていた男性たちである。
このヒモたちは、劇場にはりつき踊り子たちが収入をえたそばからむしり取っていくので、瀧口により出入りしないようにされた。
こうして、踊り子たちを大切に育て、一流の踊り子へと導いていった瀧口である。
本書内で、瀧口は踊り子たちについてこう語っている。
「タレントたちは人様を前に裸をさらして、それだけで傷ついているんです」
瀧口は、とにかく踊り子を大事にした。大事にしたというのは、庇護下においたという意味ではない。
中途半端な踊りはさせない。客に見せる最高のショーをさせる。多少年齢があがって(人気に翳りがみえても)どこかのストリップ劇場にのれるようにショーを手配する。踊り子たちにご飯を作って一緒に食べたりする。
東南アジアの踊り子たちの不法滞在の監視の目から守る。働きたいという子たちには、徹底的に働ける環境を用意する。そこにあるのは、リスペクトだ。

・ストリッパーと公然わいせつ罪


ストリップは、公然にて性器を露出するのであるから、当然ながら公然わいせつ罪が適用される。
たとえば、道に全裸の男性が歩いてたらそれだけで意味が分からないし怖いし、見たくもないものをみせられている。公然わいせつ罪にあた
る。

一方で、ストリップはどうだろうか。
ストリップは「被害者のいない罪」とされる。公然わいせつ罪なのだが、そこにいるのは、性器を見たくて仕方がない成人なのだ。(ストリップ劇場は当然ながら18歳以下の入場はできない )
見せたいストリッパーと見たい観客。それも観客はみたくてお金を支払っている。
そこに、罪はあるだろうか。

結論から言えば、もちろん罪はあるのだ。
ストリッパー側に罪があるのだ。公然わいせつ罪だ。
公然わいせつ罪は、治安を守ってくれる法である。それは私たちの生活を守ってくれるといっても差し支えない。

だれも悪くなくても、罪は成立するのである。

一条さゆりという伝説のストリッパーがあいる。彼女は、公然わいせつ罪で逮捕され、9回の執行猶予付きの懲役刑、罰金刑をうけた。

一方で、わいせつの定義のあいまいさや先ほど挙げた「被害者がいない」罪状であることから、一条は裁判で争った。しかし、裁判には負けてしまった。以降、ストリッパーが公然わいせつ罪について裁判を行われたことはない。

そして、この公然わいせつ罪のため、ストリップ劇場は度々、「手入れ」を警察からうけた。手入れが入ると数か月の営業停止となり、経営者や踊り子たちの経済に大打撃を与える。

瀧口は、そのやり口が汚いとある時怒り、腹にダイナマイトをまいて「爆破するつもりで」千葉県警に乗り込んだが、火をつける間もなく取り押さえられ、執行猶予付きの判決をうけている。

さらに、瀧口はさきに書いた通り、踊り子を大事にする。フィリピン人女性の偽の観光ビザで入国させ、ストリップ劇場で働かせていたとして、5人が逮捕、瀧口も指名手配された。
時効まで約8年、その後瀧口は逃亡生活をおくることとなる。

3章


瀧口は、逃亡生活を送りながらも手配士として活躍をつづけた。瀧口を逮捕するてために、追跡チームを作って警察もおいかけた。何度か危うい目にあいながらも(ギリギリセーフのことも何度も。詳しくは本書を読まれたし)、なんと時効まで乗り切ったのである。

4章


ついに、手入れで瀧口が逮捕される。
4章以降は、その後の瀧口の人生とストリップの衰退の理由が述べられているが、すべての紹介するのはやや冗長であるので、この記事では割愛する。

感想


ストリップという、アウトローを生き抜いた、そのど真ん中にいた人の取材を通した伝記的1冊であった。
瀧口は踊り子たちを誠心誠意大事にし、そして儲けたお金は盛大に賭博にして失う。
姉の桐について気風のいい女性であるとされているが、弟の瀧口も十分に気風のいい男性である。
いわゆる仁義のある男性であったのだろうというところがわかる。

わたしは、ストリップという単語はもちろん聞いたことがあった。けれど、ストリップをする人はダンサーではなくストリッパーであると思っていた。
ストリッパーは、何らかの妖しげな音楽が流れている中、一枚一枚衣服を脱いで行って、性器を露出するに至るダンス風のショーを行う人だと思っていた。
しかし、彼女たちは、ダンサーだ。これは、実際にストリップをみてみなければわからないのだが、ダンスがあくまでも中心なのである。
実は、この1冊に触発されて、横浜ロック座と浅草ロック座にストリップをみにいった。その感想は後日noteに書くとして、とにかく、ダンスなのだ。彼女たちの体は痩せて締まっているのではなく、筋肉で締まっている。一つ一つのポーズをとり続けることにどれくらいの筋トレをしないといけないのだろうかというほどに。
そんな、芸術性を保ち育んできたのもこの瀧口という人の仁義にあったのではないかと思った。

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