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第2章 古代の戦争から読み解く 第5節 アレクサンドロスⅢの東征―アリストテレスが教授した覇権の握り方

第1章 ジオポリテイ―ク序説

第2章 古代の戦争から読み解く
第1節 古代都市国家の成立・王国の成立―エクメーネからの発展
第2節 ペルシア戦争―大胆な地政学的解析
第3節 ペロポネソス戦争―中原争奪の地政学
第4節 古代中国の誕生と戦国時代―中原争奪の地政学
第5節 アレクサンドロスⅢの東征―アリストテレスが教授した覇権の握り方
第6節 中国の統一―始皇帝が示した統一のガヴァナンス
第7節 カエサルのガリア遠征―ローマ帝国帝政の布石

第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ヨーロッパ大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界

 『王道論』、『殖民論』をアレクサンドロスⅢに与えたアリストテレスは、東征の撤退に際して「ペルシア湾からユーフラテスの地理学的探査」を求めた。アリストテレスの真意は何か? そこには”Geopolitik”及び「地政学」的示唆が潜在している。

 アレクサンドロスⅢの功績については、とかく戦術・戦闘面での英雄性が喧伝されるが、東征を追ってみると、東征が ”Geopolitik”に満ちていることが分かってくる。別けても東征開始以降は覇権を賭けた「地政学」の匂いが芬々(ふんぷん)としている。

 また東征は、人間が群れを成す都市国家という単位から地球規模 ”Globalization”へと人間の群れが構造を変革する現象を見せている。その典型は、東西文明が融合したヘレニズムの顕現である。

1 マケドニア王国と父ピリッポスⅡの大望を継承

 ギリシア神話最強の英雄神ヘラクレスと神話時代トロイ戦争の英雄アキレスの係累とされるアレクサンドロス3世(BC356-BC323・以下「アレクサンドロスⅢ」という)は、ペロポネソス戦争後にギリシアを統一したコリントス同盟盟主の父ピリッポスⅡ(BC382-BC336)が暗殺されるや、古代ギリシア・マケドニア王国アルゲアス(ギリシア神話「百目の巨人アルゴス」にちなむとされるが、ペロポネソス半島にもアルゴスの都市名が存在)(王朝(BC700-BC310)国王、コリントス同盟盟主を継承(在位BC336-BC323)した。
 青年国王アレクサンドロスⅢ誕生直後は、その実力を軽視され、父ピリッポスⅡのギリシア統一戦争において初陣を飾ったアレクサンドロスⅢの活躍に一旦は敗れたギリシア中部の強力都市国家テーベの再挑戦を受けた。しかし、アレクサンドロスⅢは、テーベを返り討ちし、跡形もなくなるほど徹底的に破壊、殲滅し、ギリシア国内において「アレクサンドロスⅢに歯向かえば滅亡を免れない敵無し」の強力な立場を築いた。

 アレクサンドロスⅢは、父ピリッポスⅡのペルシアへの東方遠征の大望をも継承した。遠征開始前には、テーベの挑戦を退け、次いでマケドニア以北の脅威を殲滅し、長期に及ぶ東征間のアルゲアス王朝の安定的覇権の維持を保障できるようギリシア本土および周辺脅威の一掃を図った。

 2世紀にローマで活躍したギリシア人の政治家・歴史家であるアッリアノスが遺した史料『アレクサンドロス東征記 “Alexandrou anabasis”』(『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌』 大牟田章訳・岩波文庫上下・2001年)に依れば、東征前の掃討作戦は次のとおりである。

 紀元前336年秋から紀元前333年春の国王即位後2年半は、マケドニア北部に隣接する有力都市国家が存在する地域(現ブルガリア・ルーマニア)、黒海西岸やイストロス川(現ドナウ川)流域に集団を形成していたトリバッロイ人、ゲタイ人、イリュア諸族を平定、帰順させ、休む間なくテーバイ壊滅作戦を敢行、そしてその勢いをかってアテネとの「非戦と友好」を成立させる話し合いを成立させている。

 東征開始に際して後顧の憂いなく脅威を払拭したことは、今日の軍事的合理性から当然であり、しかもアレクサンドロスⅢがわずか2年半で母国の安全保障に必要かつ有効な軍事行動を成し遂げたことは、アレクサンドロスⅢ戦闘軍団の能力の高さを示すものであった。

 アレクサンドロスⅢが多くの大事を成し遂げ得た背景には、誇り高き出自だけではなく様々に優れた事象の後押しがあった。

 その第1は、父ピリッポスⅡが乞うてアレクサンドロスⅢの家庭教師としてマケドニアの哲学者アリストテレス(BC384-BC322)をアテネから招いた慧眼が挙げられる。この当時の「哲学者」は森羅万象に通暁する学者を言ったが、アリストテレスは抜きん出て人格識見に優れ、その感化が当時13歳であったアレクサンドロスⅢ青少年期の”Geopolitik”な感性を育て、思考と行動の基礎を作り東征の支えとなった。
 アレクサンドロスⅢの国家統治に係るリーダーシップ、軍事上の指揮統率、東征に伴って生ずる植民など、アリストテレスの指導は、アリストテレスの哲学の具現、別けても国家リーダーの理想像を追求するという意味でアレクサンドロスⅢ個人が対象となっているという関心から見ると興味深い。アリストテレスの倫理学には、アレクサンドロスに影響を与えたリーダーシップに敷衍する片言隻句(へんげんせっく)がある。

 「人間の最善の行動は理性を発展させた卓越する活動であって、その政治的な実践は快楽にとどまらない幸福をもたらす」とし、加えて「理性的であるためには中庸が重要である」ことを指摘している。
 さらに、アレクサンドロスⅢへの助言となったであろう「恐怖と平然に関しては勇敢、快楽と苦痛に関しては節制、財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、名誉に関しては矜持、怒りに関しては温和、交際に関しては親愛と真実と機知が伴わなければならない。ただし、羞恥は情念であって徳ではない。それは羞恥が全体を補完するのではなく、その場限りのよきものだからである。徳には醜い行為が似合わない」(文責:筆者)の言葉が遺されている。

 残念ながらアレクサンドロスⅢには、成功の連続と若気の至りで自らの神格化に乗じた時期があった。アッリアノス『ギリシア奇談集』(松平千秋他・岩波文庫)に依れば、父ピリッポスⅡは、平常心を堅く維持して傲慢に陥らぬよう、人間が陥りやすい驕りの戒めとして毎朝部下に「ピリッポス、貴方は人間です」と3度言わせ自制を新たにしていたという。しかし、アレクサンドロスⅢは、ペルシアを征服するとギリシア人に自身の神格化を求めたとされている。
 
 統治について、アリストテレス自身は、小規模都市国家を対象に理想を追求していたが、アレクサンドロスⅢの時代、古代ギリシアの伝統的都市国家体制が世界国家の形成へ向かう変革を認識した様子がうかがえる。それはアレクサンドロスⅢに書き送った「東征時における統治」についての教示『王道論』・『植民論』における、おそらくは例示したであろうペルシア帝国ダレイオスのバビロン・エジプト・シリア・リュデイアなどに対する従来の統治体制を尊重した委任統治の事績の紹介などにおいて、国家統治のスケールが都市国家の域を出ていることに照らし合わせることができる。

 アレクサンドロスⅢの成功には、ピリッポスⅡに招かれてアリストテレス門下に学んだ仲間「選ばれた同世代の青年たち」の強い紐帯意識が支えとなっていた。後に彼らはマケドニア王国の中核を担う存在となった。アレクサンドロスⅢ東征間に国王不在のガバナンスを支え、東征に従軍して直接に支えた仲間の重要性は想像に難くない。人間の親近感や敵対感の生ずる最も大きな要因は相互の嫌悪に起因することは古今東西不変である。彼らの紐帯は、アレクサンドロスⅢの人格に引き寄せられるところもあったであろう。

 増して重要な人物が居た。

 それは、ピリッポスⅡとアレクサンドロスⅢの2代に仕えたマケドニアの将軍アンティパトロス(BC397-BC319)の存在である。
 ピリッポス2世の下でアンティパトロスは、主としてギリシア内都市国家との外交・行政を担当しマケドニアの権威と主権を維持することに腐心し補佐していた。またピリッポスⅡの遠征時には留守居役を担い、またピリッポスⅡの全権を担ってマケドニア外都市国家派遣特使の役割をも果たしていた。
 ピリッポスⅡが暗殺された後も青年国王アレクサンドロスⅢを支えた。加えてアレクサンドロスⅢ東征時、アンティパトロスはマケドニア本国に居てマケドニアの安定と脅威からの安全保障を堅持する功績を挙げている。

2 アレクサンドロスⅢの行動に見える”Geopolitik”

 アレクサンドロスⅢ東征時、今日の「地中海・バルカン半島、小アジア(アナトリア半島)・中央アジア・レヴァント(中東)・北アフリカ・エジプト・西アジア・インド・パキスタン」の全体を表す地図は無かった。しかし、ヘロドトスの『歴史』や『旧約聖書』は現在の特定の地名と記述上の地名が一致すればイメージが形成される。
 ところがその時代に遡ると自分の立ち位置を中心に、例えば、古代マケドニアの王都ペラに立って、ペルシア帝国ダレイオス大王が建設した「王の道」がどこからどこまで通じていたかなど他国の者にはイメージできない。

 本稿第1章第2節で紀元前600年頃に描かれた「バビロンの古地図」と紀元前500年代にギリシアで描かれた地中海中心の地図を紹介した。このことから、紀元前4世紀には、様々な情報に基づき、アリストテレスがアレクサンドロスⅢの東征に必要なペルシア帝国とその周辺をイメージできる地図を示すことが可能であったと想像してもいいだろう。
 ちなみに、ヘロドトスの『歴史』やトゥキュディデスの『戦史』に記述された「地誌」は、地図を描き得る情報を提供しているのではないだろうか。

 第2章第2節、第3節では軍事的合理性という文脈で、遠征部隊の移動速度や歩幅を示して、移動距離や移動時間が算出される例を提示した。今日の地図の精度には遥(はる)かに及ばないにせよ、経験の積み重ねがより正確な地図を描き、時間と距離が織り込まれた行動計画に反映されたであろう。
 地理学から地図が生まれ、組織的・計画的軍事行動から地図上の正確性を生み、行動という動態情報から時間と距離の感覚が研ぎ澄(す)まされ、速度の概念導入が移動手段を発達させていった。そのような変革が軍事から市民社会に還元され、市民社会においてさらに進歩を生むことで戦争に反映される現象が繰り返される。これが20世紀半ばに発生した「軍事上の革命現象”Revolution in Military Affairs : RMA”」の概念であって、「ペルシア戦争・ペロポネソス戦争・アレクサンドロスⅢの東征」において既に発芽していたと言える。

 アレクサンドロスⅢが目指したペルシア帝国征服の対象地域は、現在のパキスタン、イラン、イラク、クウェート、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、トルコ、キプロス、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル、エジプト諸国を包含している。
 ペルシア帝国は、紀元前3000年頃から存在した有史最古の文明諸王国等を包含、併合して大帝国を建設した。それらは、シュメール、バクトリア、パルティア、トランギアナ、ゲドロシアエラムを支配していたペルシア王国、メディア王国(BC550後のイラン)、世界最初の帝国と言われるアッシリア王国(後の新バビロニア王国)、小アジア・アナトリア半島に勢力圏を持つリュディア王国、エジプト王国、航海術に長け地中海沿に植民都市を経営していたフェニキア、インド北西部のパンジャブ、アラビア湾東岸地域のシンドに及んだ。

 「戦争において勝者が敗者に勝者の意思を強制する」ことは古代から今日に至るまで不変である。しかし、ペルシア帝国建設にペルシアが属州化した敗戦国の統治は実に地理学的環境に柔軟な適応が図られていた。ペルシアは、ペルシア帝国流の統治体制を押し付けることをせず、バビロニア、エジプト、アッシリア、バクトリアなど、環境決定的統治が行われて来た王国に従来の国体維持を認め委任統治させたのである。

 アレクサンドロスⅢは、10年間に及ぶ東方遠征において類を見ない戦役勝利を重ね、ペルシア帝国に加え、ギリシアからインド北西部に至る版図を征服した。
 アリストテレスの示唆やペルシア帝国の統治の成功に学んだ異民族支配は、委任とアレクサンドロス(イスカンダル)化という、今日言われるハイブリッドな柔軟手法に拠って浸透させ、既成かつ継承された先住民族の生活態様・風俗文明は、アレクサンドロスⅢがもたらした先進性と融合された。それは、後にローマ帝国が用いた「ローマ化」の先鞭である。

 アレクサンドロスⅢの業績は、征服戦争に勝利したことだけではなく、古代ギリシアとメソポタミア・エジプト・ペルシア・インドの古代オリエントをつないだ「ヘレニック世界」形成の成功である。
 ヘレニズムという文明の東西融合は、戦争史において、まったく異質な文明を有する勢力圏同士が戦った場合に必然に発生を見ることが多い同質同種のものとして見ることができる。しかし、アレクサンドロスⅢの場合、勝者が敗者に強制するのではなく、先住民が歓迎し受容するかたちの融合を図っていたことが今日でも有形無形に遺されている。
 アレクサンドリア、イスカンダルと名付けられた都市建設、或いはアレクサンドロスⅢ自ら先住民族の風俗習慣に適った婚姻関係を結んだこと、ドラクマ貨幣を通貨として広域にわたり共有、流通させ両替を簡便にし、交易の広域活性化を促したこと、ヘレニズムの影響が言語の共通化にも現れ、現在のアナトリア半島トルコ領北東部黒海沿岸は古代都市国家ポントスからの歴史を継承しアレクサンドロスⅢのヘレニズム伝播はこの地方にギリシア語を伝えていることなどはその代表であった。

 このようなアレクサンドロスⅢの東征が及ぼした東方への文明の伝搬、融合、共有という ”Geopolitik” 現象は、古代の都市国家群に「世界化”Globalization”」のRMAをもたらしている。さらには、アレクサンドロスⅢの生涯で示した”Geopolitik”、そして覇権という文脈の地政学は、カルタゴ(現在のチュニジア・チュニス)のハンニバル、ローマを帝国に導いたカエサル、フランス市民革命後の皇帝ナポレオンなど後世の英雄たちがテキストとして学び、”Geopolitik”及び「地政学」を代表する現象を再現することになる。

〈コラム〉東方遠征の概要

 紀元前334年、アレクサンドロスⅢはへレスポントス(現ダーダネルス海峡)を渡峡直後、現ガリポリの対岸のグラニコス河畔でペルシア軍4万に1万8千の勢力で戦い勝利、緒戦で先頭を切って戦うアレクサンドロスⅢに対するペルシア軍の畏敬と恐怖が始まった。
 アレクサンドロスⅢはトロイに立ち寄り、心酔する英雄アキレウスの墓に詣でた後、アナトリア半島を南下、古代リュディアの首都サルディスを一蹴、さらに南下してイオニア人が建設したミレトスを攻略、続いてヘロドトス誕生の地ハリカルナッソスを攻略、紀元前334年は、アナトリア半島中央部、現在のトルコの首都から南西へ70kmに在る「王の道」が通るゴルディオンで越冬、軍を再編成した。
 紀元前333年春から紀元前332年秋、中東とヨーロッパを分ける山岳の要衝キリキアを越え、地中海の東の突き当り、アナトリア半島付け根に位置するタルソス東方のイッソスでダレイオスⅢ率いるペルシア軍10万に対し、アレクサンドロスⅢ指揮下4万が挑戦して勝利、後に、この地がイスカンダルと名付けた都市国家に変貌する。
 アレクサンドロスⅢは敗走するダレイオスⅢをダマスコ(現在のダマスカス)まで追撃、ダレイオスⅢの停戦講和申し入れを拒絶した。
 アレクサンドロスⅢは、シリア、フェニキアではテュロスの包囲戦に勝利し、ガザを攻略、さらにエジプトを目指して進軍した。
 紀元前332年秋から紀元前329年夏、まずエジプトを無血占領、アレクサンドリア建設を開始した。この間、紀元前333年春から翌年秋にかけてペルシア艦隊のエーゲ海制海作戦が行われたが、紀元前332年、アレクサンドロスⅢ側の艦隊がこれを制圧した。
 アレクサンドロスⅢはペルシア帝国の深部へと展開する。フェニキア、シリアを逆行しティグリス川上流地域に侵攻、紀元前331年、ガウガメラ(現在のイラク北部)においてアレクサンドロス軍歩兵4万と騎兵7千、ペルシア軍の歩兵15万と騎兵3万5千及び戦車200両の20万の兵力が激突、アレクサンドロスⅢ自ら率いる騎兵がペルシア軍を断裂させダレイオスの再敗走を強いた。
 アレクサンドロスⅢは、ガウガメラ戦勝利後、バビロンに入城、ペルシアの王都スーサを占領、さらに帝都ペルセポリス(現イラン・ペルシア湾沿岸に近接するファルース州)を占領し焼き払った。
 紀元前330年、アレクサンドロスⅢは、メデイア王国の王都エクバタナを攻略した。ペルシア王ダレイオスⅢは、副指揮官でバクトリアのペルシア総督ベッソスに謀殺されペルシア帝国は終焉する。ベッソスは後にアレクサンドロスⅢに誅殺された。
 アレクサンドロスⅢのペルシア帝国の次の目標は中央アジアであった。現在のコーカサス地方、ウクライナ、ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタン地方を制圧するが、原住民のゲリラ戦の継続に苦戦する。
 紀元前329年夏から紀元前326年春、中央アジアにおける先住民ゲリラ相手に苦戦の連続であった。ベトナム戦争においてアメリカ軍がゲリラ相手に苦戦した様相と似通っている。アレクサンドロスⅢの軍は、昼夜分かたぬゲリラ攻撃を行う部族に対して、肉体と精神の耐性バランスが崩れ、PTSD症状を起こしていたのではないだろうか。中央アジア侵攻作戦の停滞は、前線基地バクトラ(現アフガニスタン北部)からの撤退を決心させ、アレクサンドロスⅢはインドへ向けて転進する。
 紀元前326年春から夏、タクシラ(現パキスタン・パンジャブ地方)に展開、インド軍との戦いにインダス川を渡河するも激戦となった。しかし、このヒュダスペス河畔の原住パウラヴァ族との戦いでかろうじて勝利するも、ゲリラ戦法にアレクサンドロス軍兵士に厭戦気運が生じ、部下の願いを聴き入れ、アラビアへの侵攻を含む東征の断念に至った。
 紀元前326年秋から紀元前324年初頭はペルセポリスへの帰還である。戦地からペルセポリスまでの直線距離は2,000km超である。撤退行動につきものの混乱は起きていない。アレクサンドロスⅢ軍の遠征が、軍律・隊容において如何に整然としていたかを物語る部隊展開と言えるだろう。この撤退行動をもってアレクサンドロスⅢの東征活動は停止した。
 紀元前324年春から紀元前323年夏、アリストテレスの要望で、インダス川及びペルシア湾一帯の探査が行われた。この要務は実に地理学的であり、”Geopolitik”、「地政学」に直結する基本的姿勢である。
 アレクサンドロスⅢは麾下将官ネアルコスを海軍提督に任命、ネアルコスは、インダス川を下行、ペルシア湾に出ると湾岸沿いにユーフラテス川河口を目指し探査を行った。この間、異民族との戦闘、漁民との遭遇、鯨との出逢いなど経てホルムズ海峡に至り、ペルシア湾北端からユーフラテス川を遡上、ティグリス川支流を辿りペルシアの王都スーサ(イランの南西部イラクとの国境地方)でアレクサンドロスⅢ陸軍と合流し探査航海を終結した。
 この航海は、ペルシア湾を北上することでアラビア半島周航の東側の地理学的情報を得ることにもなり、実に”Geopolitik”かつ「地政学」的な意義を見出すことになっている。
紀元前323年、アレクサンドロスⅢはバビロンに帰還すると発病、死亡した。 
 ディアドコイ(1人称はディアドコス)はギリシア語で「後継者」を意味し、アレクサンドロスⅢ没後の紀元前301年、現在のトルコ、ヨーロッパとアジアを分かつダーダネルス海峡・マルマラ海・ボスポラス海峡の南、アナトリア半島中部のフリュギア・イプソスにおいて行われたディアドコイ戦争をアレクサンドロスⅢの後継者決定の戦争と位置付けている。アレクサンドロスⅢが平定した領域は、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアの3国に分割され、ヘレニズム3国と呼ばれる。
 アンティパトロスはアレクサンドロスⅢの遺児を後見しマケドニア王国の維持に力を尽くすが、マケドニア、ギリシアの混乱は拡大し、アンティパトロスは病死、アレクサンドロスⅢの遺児を含む権力闘争の混乱はマケドニアを衰退させていった。