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第2章 古代の戦争から読み解く 第3節 ペロポネソス戦争―プーチンの戦争に重ねる

第1章 ジオポリテイ―ク序説

第2章 古代の戦争から読み解く
第1節 古代都市国家の成立・王国の成立―エクメーネからの発展
第2節 ペルシア戦争―大胆な地政学的解析
第3節 ペロポネソス戦争―プーチンの戦争に重ねる
第4節 古代中国の誕生と戦国時代
第5節 アレクサンドロスⅢの東征
第6節 中国の統一
第7節 カエサルのガリア遠征とローマ帝国帝政

第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界

 ペロポネソス戦争(BC431-BC404)は、ペルシア戦争(BC492-BC449)の18年後に、アテネを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟との間で古代ギリシア全域にわたり行われた戦争である。

1 古代ギリシアの有力都市国家とデロス同盟・ペロポネソス同盟

 ギリシアは、バルカン半島が地中海に延びる南端に位置し、古代マケドニアから東にエーゲ海、西に長靴状イタリア半島の踵(かかと)を臨むアドリア海南部とイオニア海に面し、温暖・乾燥の地中海気候の影響を受ける特徴を持っている。
 エーゲ海の北深部に沿って東へは、ペルシア帝国陸軍がギリシア侵攻時に通過したヘレスポントス(現ダーダネルス海峡)、そしてマルマラ海、ボスポラス海峡、黒海に通じている。マルマラ海から南は、アナトリア半島、ペルシアに至る。
 この時代、ギリシア中部、エーゲ海に突き出したアッティカ半島のアテネ、ギリシア南部のペロポネソス半島に位置するスパルタ、スパルタとアテネの中間のコリントス地峡の勢力コリントスは、ギリシアの都市国家群を代表していた。ギリシア中部以南に比べると北部のマケドニアは、都市国家としての先進性や国力においてアテネ、スパルタに比肩するほどではなく発展途上であった。後世のアレクサンドロスⅢにアリストテレスのように優れた家庭教師がつき王道を学ばせたのもその積極進取の気風の表れであろう。

 ギリシアの北部エーゲ海西深部には、備中鍬(びっちゅうぐわ)に似たフォーク状の三本刃の半島が南に突き出ており、半島の西側の付け根に、現在ではアテネに次ぐギリシア第2位の大都市テサロニケが在り、この時代、マケドニアを代表する都市国家であった。テサロニケから南東に延びる三本刃の半島はマルマラ海から黒海、或いはアナトリア半島との交易、ペルシアの脅威に備える陸・海の要衝であり、別けても、食糧自給が困難なアテネにとってこの要衝の制海は、覇権の掌握及び黒海植民都市からの食糧補給シーレーンの最重要チョークポイントとなっていた。

 ギリシアの都市国家群は、ペルシア戦争時に大同団結して防衛作戦を成功させた。しかし、戦後の悩ましい情勢は、アテネを盟主とするエーゲ海島嶼とイオニア半島のギリシア系民族の都市国家群をまとめた「デロス同盟」と、ペロポネソス半島において、スパルタを盟主としてそれぞれの加盟都市国家の独立性を尊重する「ペロポネソス同盟」との対立であった。

 ペロポネソス戦争は同盟間の確執が戦争に至った史的事例である。両同盟について概観しておく。

デロス同盟

 ペルシア王クセルクセスⅠのギリシア侵攻に備え、ギリシア諸都市国家は、アテネとスパルタの呼びかけに応じてギリシア連合を構築した。緒戦においてギリシア連合軍はスパルタを盟主として戦った。
 ギリシアは、100万を超えるペルシア帝国陸軍が北からギリシアへ直接侵攻し、エーゲ海正面からペルシア帝国海軍が同時侵攻する挟撃作戦に対抗するため、エーゲ海の制海を確保、維持することを優先した。このため、戦闘艦保有数で他の都市国家保有戦闘艦の総数を超える200隻を出動させることが可能な圧倒的シー・パワーを誇るアテネがスパルタに替わって主導権を握ることになった。

 アテネのシー・パワー、スパルタのランド・パワーの構図が描かれるきっかけである。アテネは、海軍力でペルシアを制し、エーゲ海イオニア半島に近接するレスボス、キオス、サモスなど島嶼を含んで同盟結成の布石を打ち、アテネ南東エーゲ海キクラデス諸島のデロス島において軍船・兵員、加盟年金の供出を義務として同盟を発足させた(BC478-BC477)。イオニア半島小アジアのエーゲ海沿岸、およびエーゲ海島嶼都市国家群はアテネを盟主としてそれぞれの防衛を依存することで、ペルシアに対し有利な防衛戦を期待することになった。

 しかし、アテネの同盟結成の真の狙いは、ギリシアの覇者を目指したスパルタに優る勢力の結集であった。アテネは、最盛期に200余の都市国家が加盟した同盟の主要ポストをアテネの将軍たちで独占することに成功し同盟の主導権を握った。

 同盟は、加盟の拠出金金庫をデロス島に設置、管理していたが、アテネは、ペルシア戦争終結後、カリアスの和約(BC449)が成ると、金庫をアクロポリスに移し歳入歳出を独占管理し、また、戦後も負担金を徴収するなどパワー・ポリテイックスの行使を露骨に示し、同盟諸都市国家の内政干渉、アテネ軍の駐留、監視団派遣、アテネ無産階級の入植、土地の強奪、度量衡と通貨のアテネ化、裁判権のアテネ集中を行った。こうしてデロス同盟はアテネ帝国化し、同盟諸都市は属国化した。

 このようなアテネの覇者然とした行動はデロス同盟諸都市国家の反発と不満を募らせて行った。アテネは、力で同盟諸都市国家を抑圧し、離反には軍事的な制圧を行った。例えば、ナクソス島の離反(BC470頃)は武力鎮圧され、ナクソス島はアテネに直接隷属する「市」とされた。

ペロポネソス同盟

 古代ギリシア最古の、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟は、半島諸都市国家間が「同盟諸国は、スパルタと同じ友と敵を持ち、スパルタの率いるところに従う旨の誓いを交わした『本質を防衛的性格とする』軍事同盟」(BC550-BC366)を約していた。
 ペロポネソス同盟の軍事行動は同盟会議で決定され、スパルタは同盟会議の招集と主宰、戦時の同盟軍指揮権を委ねられた。

2 ペロポネソス戦争発端の事件

 ペルシア戦争において、アテネの名将テミストクレスの智謀とアテネ海軍の海戦勝利が決め手となったペルシア軍撤退は、デロス同盟盟主アテネを権威主義的振る舞いに走らせ同盟国の離脱を誘発することになる。

 古代ギリシアの北辺西部、イタリア半島の長靴の踵を臨む、アドリア海とイオニア海とが接する位置にケルキュラ(島)が在る。ケルキュラは、一時、コリントスの植民都市国家であった(BC435)が、その後、植民市エピダムノス(現アルバニア第2の都市ドゥラス)を経営する立場に至っていた。

 ペロポネソス戦争は、このケルキュラ、コリントス、エピダムノスが関与した事件を発端とする。

 エピダムノスは、内紛と周辺民族との武力紛争に手を焼いていた。そこでエピダムノスは、いわばパトロンであり、当時古代ギリシア第2の海軍を保有するケルキュラに仲介と軍事支援を要請した。しかしケルキュラからは「無しの礫(つぶて)」であった。エピダムノスは、窮余の一策として因縁浅からぬコリントスに救援要請を切り替えた。
エピダムノスの要請を受け、守備兵と施政官を派遣し植民者の公募を始めたコリントスに対して、ケルキュラはエピダムノスへ派兵、エピダムノスを陥落させたばかりではなく、コリントス支配の各地で略奪に奔(はし)った。

 ケルキュラは、自らの行動によってコリントスが軍備を増強し反攻して来ることを恐れアテネに援軍を求めた(BC432)。アテネは、デロス同盟を離脱し、しかもペロポネソス同盟に鞍替えする都市国家が増えている情勢を読み、ペロポネソス同盟との戦いを必至としてデロス同盟の盟友をつなぐ援軍をケルキュラに送った。

 BC433年、ケルキュラ南方シュボタ諸島海域でケルキュラ・アテネ連合とコリントス・ポテダイア連合の、トゥキュディデスが古代ギリシア人都市国家間同士最大と言う艦隊決戦が行われた。初戦はケルキュラの圧勝であった。コリントスはその後海軍戦闘艦を増強、再戦し、ケルキュラにコリントスの損害をはるかに上回る損害を与えたが、勝敗の決着を付けられず、両者が勝利宣言して終わった。

 翌BC432年、アテネはコリントスの植民都市でありながらデロス同盟に加盟していたテサロニケ南方のポテダイアにコリントスとの離反を促すが、逆に、アテネの高慢な態度に対する反発に促されたポテダイアのデロス同盟離脱を招いてしまう。同調するマケドニア・ポテダイア、そしてコリントスはアテネとの対峙を固めて行った。アテネはこの風潮が伝染して行くことを警戒し、陸・海軍を派遣、軍事的圧力によって窮極の打開を図った。

 アテネはデロス同盟の覇者としてエーゲ海に覇権を確立し、隷属市や軍事力を積極的に拡大していた。これに対し、自治独立を重んじるペロポネソス同盟は、アテナイの好戦的、覇権的な拡張政策が全ギリシア世界に及ぶ事態を懸念していた。
 これらを背景として、勃興する覇権主義勢力と旧来の自治独立の地政学的思想の対立が諸都市国家間の権益や同盟政策と結びつき「デロス同盟対ペロポネソス同盟」の構造が顕現した。デロス同盟離脱都市国家からの軍事援助要請とペロポネソス同盟への加入意思の表明が増えているペロポネソス同盟では、同盟会議を開催し支援対象都市国家に対する援助と対アテネ(デロス同盟)の宣戦を決議した(BC432)。

 ケルキュラとコリントスの戦いは、コリントスに対するデロス同盟軍の攻勢で、ポテダイアにおけるコリントスとアテネの戦いに発展した。デロス同盟が優位に戦いを進めたが、デロス同盟離脱がポテダイアにとどまらず、マケドニアまで敵に回す悩ましい雪崩現象はとどまらなかった。ポテダイアはアテネの武装解除勧告を拒否、デロス同盟を離脱し、ペロポネソス同盟による保護と加盟を求めた。この局面において、アテネは兵力増強を重ねポテダイアを包囲、ポテダイアは兵糧尽きて陥落した。

 ここにコリントスとアテネの対峙が決定的となり、アテネに攻められ滅亡に瀕してもデロス同盟離脱を翻さなかったポテダイアの防衛戦は、ペロポネソス同盟の対アテネ宣戦を一層固くして「ペロポネソス戦争」へ突入して行った。

3 ペロポネソス戦争の推移

 BC431年、ペロポネソス同盟軍はアテネへの直接の侵攻を開始した。

 アテネは全てのアテネ市民を城塞内に入れ籠城し、ペロポネソス同盟に対する攻撃は直接に海上から行う作戦を採った。しかし、エジプト、リビア、ペルシア領、エーゲ海東部で流行していた疫病がアテネに伝染しBC429年までに市民の6分の1が病死した。また市民不在の市内では盗賊が横行するなど治安が乱れ、アテネはペロポネソス同盟と戦わずして敗戦の体に陥った。
この状況にペロポネソス同盟が停戦を申し入れたが、アテネ側は好戦的な民衆を抑える指導者に恵まれず戦争が続いた。戦局はペロポネソス同盟有利に傾き、ペロポネソス同盟軍がアテネ北西近傍のボイオティアで勝利しアテネに迫り、黒海からの食糧補給シーレーンのチョークポイントであり黒海への入り口であるトラキアのへレスポントス(ダーダネルス海峡)を落としてアテネの糧道を絶った。

 一連の戦いで、アテネ、スパルタ両軍の好戦的高位指揮官が戦死、停戦を望むアテネの将軍ニキアス、スパルタ王プレイストアナクスの意思が共有されBC421年に「ニキアスの和約」が締結された。ところが和平条件となっていた双方の領土返還に関する事項が履行されず戦争は再開された。

 BC415年、アテネは糧道の確保のためシチリア島遠征を行った。戦争の再開はシーレーンを完全に確保できる制海権が獲得されず、地中海の行動途上、シチリア島近海においてペロポネソス同盟艦隊との遭遇では不利な海戦を回避できなかった。この遠征は、アテネの劣勢により戦局を悪くするだけであった。シチリア島の攻防では、シチリア侵攻を阻止したペロポネソス同盟軍が穀物の供給地を占領し、アテネの目論見を潰した。シチリア遠征の2度に及ぶ失敗は、かえってアテネに見切りをつけたデロス同盟諸都市国家の離反を加速しただけであった。

 アテネは、BC405年、へレスポントスのアイゴスポタモイ河口(現在のガリポリ周辺域)で食糧補給活動中ペロポネソス同盟軍の急襲に敗れ、黒海からの食糧補給の糧道も完全に断たれてしまった。

 BC404年のペロポネソス同盟軍のアテネ包囲作戦によってアテネは降伏する。連鎖したデロス同盟諸都市国家の離反が止み、デロス同盟諸都市国家はアテネの支配から解放された。

4 戦後秩序と情勢の転移

 戦争の結果、盟主アテネが降伏してデロス同盟は霧消した。アテネは共和制が崩壊してスパルタ人指導の下に「三十人政権」の寡頭政治が布かれ、恐怖政治による粛清を進めた。
この三十人政権の恐怖政治は9か月で共和派に倒され、ペロポネソス戦争の敗因を作った指導者が処断された。ペロポネソス戦争に従軍していたソクラテスは、敗戦の責を問われたアテネの指導者の師であったことから糾弾され「ソクラテスの弁明」を遺して毒杯を仰いだ。
 しかし、アテネは有力都市国家として存続した。ペロポネソス戦争後、古代ギリシア最強の都市国家となったスパルタは、マケドニア、テーべ、コリントスの挑戦を受けることになる。そのマケドニア、テーベ、コリントス、そしてデロス同盟の盟主の座を失ったものの依然、有力な都市国家として再起を期すアテネはペルシア帝国がパトロンとなってスパルタに敵対する資金援助を受けるのである。

 スパルタのギリシア及びエーゲ海の覇権は、スパルタに富をもたらし、その富が貧富の格差を生み、質実剛健なスパルタの気風が失われて行った。「スパルタ教育」の名を遺したスパルタの国家防衛の仕組「リュクルゴス制度=国家安全保障のための軍国主義制度」も廃れていった。

 覇者が現れても年月とともに衰退し、その覇者に替わる強国が現れる。覇者には常に挑戦者が居る。それは常態とも言える現象であって、覇者を狙う強国の出現が戦争の必然にまで高揚することで安全保障の安定を損なう。米国の政治学者グレアム・アリソンが言う「トゥキュディデスの罠」がそれである。トゥキュディデスは古代ギリシア世界を揺るがしたペロポネソス戦争を見通し、その記録が後世、似たような事態に遭遇した時に教訓として活かせるよう執筆したと序言で述べている。

5 ペロポネソス戦争の整理

 ペロポネソス戦争の原因は、ペルシア戦争後、アテネがペルシア帝国陸・海軍のギリシア侵攻を撤退させた立役者であったことを自負してギリシアの覇者として振る舞い、同盟都市国家を支配する、即ち権威主義を振りかざす行動がデロス同盟内に反発を喚起したことが最大の要因である。
 その結果、デロス同盟内における対アテネ反発を軍事力で抑えつけ、さらに反発が高じてデロス同盟離脱を図る都市国家に軍事介入して「同盟」から「支配」へと切り替えていった。抑圧された都市国家は、その多くが自主独立都市国家同盟の性格が色濃いペロポネソス同盟に引かれてペロポネソス同盟に参入を表明、さらにはアテネの強制に対抗する軍事的支援を要請するなど、覇権主義、権威主義のアテネにとって看過できない現象が顕れた。

 ペロポネソス同盟のコンセンサスは、同盟会議において「デロス同盟(実体はアテネ帝国)と対峙し戦争も辞さない/援助を求めるデロス同盟離脱国家を支援する/ペロポネソス同盟参入希望都市国家を拒まない」の決議であった。

 すでに対コリントス戦争で軍事行動を開始していたアテネは、この決議に対し「ペロポネソス同盟がデロス同盟に宣戦布告した」と理解しペロポネソス同盟の脅威を排除すべく戦線を拡大して行った。

 ペロポネソス同盟側は、その同盟のコンセンサスからアテネに替わって覇権を掌握する企図は希薄であった。しかし、アテネの覇権主義は、ペロポネソス同盟の盟主スパルタをして、「覇権の旗印」こそ掲げていないが、アテネの覇権掌握の戦いに巻き込んで「防衛から攻勢への戦術転換」に至らせた。

 ペロポネソス戦争の教訓は「権威主義を標榜するリーダーシップは挑戦者の出現に敏感かつ臆病で、常に猜疑心をとがらせ、多くの場合『挑戦を受けている、或いは、引きずり落そうと狙われている』と誤解、錯覚に陥り、戦争をも辞さない『パワー・ポリテイックス』に依存する」である。

 ペロポネソス同盟へのデロス同盟離反・離脱都市国家の駆け込み現象、および、頼られた側であるペロポネソス同盟の大会議における決定は、アテネに対して「手をこまねいていると軍事的行動で先制されデロス同盟盟主の立場を失ってしまう」という誤解、錯覚を覚えさせ、恐怖が戦争に走らせたのではないか。
 それは、あたかも、いま進行中のプーチンの戦争が「NATOの東方拡大に対する恐怖」によって引き起こされた現象であり、誤解と錯覚によって引き起こされたペロポネソス戦争に重ねられる。