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第8章 大陸の鳴動 第3節 ムスリムのヨーロッパ撤退―レコンキスタの終焉

第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ

第8章 大陸の鳴動
第1節 モンゴルの征西―覇権の限界モデル
第2節 スラブ民族の覚醒―ユーラシア大陸経営
第3節 ムスリムのヨーロッパ撤退―レコンキスタの終焉
第4節 大航海時代の功罪―白人社会秩序の世界
第5節 宗教革命と30年戦争とウエストファリア体制―白人種国家の権益と覇権争奪

第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章  戦後処理
第12章 冷戦後の世界

はじめに

 レコンキスタはイスラム帝国ウマイヤ朝・後ウマイヤ朝に奪われたイベリア半島をキリスト教国が取り戻すため718年から1492年まで戦った「奪還(再征服)戦争(スペイン語で “Reconquista” 、英語では “Reconqur”)」である。アブラハムの一神教という宗教の原点を共有しながら対立し血で血を洗う戦いを繰り返したレコンキスタは約800年の長期にわたった。

1 イベリア半島

(1) イベリア半島の地勢

 イベリア半島は大西洋と地中海に面した半島である。半島の付け根は、フランス(ヨーロッパ大陸)とスペイン(半島)を分ける大西洋から地中海へ連なる東西約430km、最高峰3千m級、最大幅約100kmのピレネー山脈である。
 ヨーロッパ大陸の南西端のイベリア半島はヨーロッパと切り離された世界、あるいはアフリカの一部として扱われることがある。それは、アフリカ大陸北西端とイベリア半島南端を隔てるジブラルタル海峡の巾が最短約14kmの地形だからである。しかも、アフリカ側にはスペイン領セウタが在る。

 この距離は、第2次ポエニ戦争(BC219-BC201)でローマ征討のため「象の軍団」を率いたハンニバル・バルカ(BC247-BC182)がアフリカ北部に在るフェニキアの植民都市カルタゴ(現在のチュニジア・チュニスに比定)から西進し、ジブラルタル海峡を渡峽することを可能にした。ハンニバルはさらに「象の軍団」にアルプスを越えさせイタリア半島を南下してローマを包囲した。

 「レコンキスタ」は、イスラム勢力のジブラルタル海峡渡峽から始まった。

 現在、ピレネー山脈以南のイベリア半島にはフランス(イベリア半島全体の約0.1%の面
積比率・人口約1.2万人・ピレネー山中に所在―以下同)、アンドラ公国(0.1%・8.4万人・ピレネー山中)、スペイン(84.7%・4300万人・イベリア半島主要部および島嶼)、ポルトガル(15.2%・1000万人・大西洋沿岸地域及び島嶼)、英領ジブラルタル(0.001%・2.9万人・イベリア半島南端)が存在する。

(2) イベリア半島を支配した勢力

 イベリア半島には古代に定住したイベリア人に次いで、ケルト、フェニキア、ギリシアが植民市を、415年、西ゴートがゲルマン・ローマ・キリスト教を融合させた文明を持つ西ゴート王国を建設した。西ゴート王国(415-711)は、現在のフランス南部からイベリア半島に侵入、支配したゲルマン系王国である。カトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。

 西ゴート族はダキア(バルカン半島)を経て5世紀初め、ローマ帝国首都ローマに侵入して寇略(こうりゃく:他国を攻略して簒奪に任せる)にはしりローマ人に恐怖を与えた。当時、ローマ皇帝はローマの北東アドリア海に近いラヴェンナに所在し難を逃れた。ローマは、シチリア経由で北アフリカへの進出に失敗しガリアに反転したゴート族を兵糧攻めでイベリア半島へ追いやった。

 410年、ローマを圧倒した西ゴートは、415年、西ローマ帝国と和睦、共同してイベリア半島の先住部族ヴァンダル、スエビを掃討してローマの属州西ゴート王国を建国した。
 さらにフン族の侵入を阻止(451-452)した西ゴート王国は、東ローマ帝国や東ゴート王国の西ローマ帝国を乗っ取ったオドアケル打倒に加担している。

 476年の西ローマ帝国の消滅は、西ゴート王国に朝貢していたヴァンダルやガリアの新たな勢力フランクの台頭、現在のブルゴーニュ地方のブルグント族の再興、東ゴートの勢力拡大による東ローマ帝国との摩擦、東ローマ帝国自体の旧西ローマ帝国領復活を目指す軍事行動など地政学的競合を促すことになった。

 他方でイベリア半島においては、ローマとの良好な関係が西ゴート王国の安定した統治を助けた。ゴート族とイベリア半島先住民とは、ゲルマン慣習法・ローマ法・キリスト教を整合し「西ゴート統一法典」を作って両者の融合を図った。
 加えて、589年、国の宗教を「父と子と聖霊」の三位一体を否定する「アリウス派」から三位一体を是とするカトリックに改宗して宗教上の対立要因を無くした。
 西ゴート王国のキリスト教会はローマ教皇の管轄を離れ、緩やかな王権統治下に置き、独自の公会議は王権の発動に必要な議会・議決の役割を果たした。

 しかし、王権が絶対王政ではなく、世襲プラス合議・選挙で決定する伝統的なゲルマンの慣習が活かされたため利害・派閥による陰謀暗殺など事件・不祥事が頻発し、「西ゴート王国200年間に26人の王が立つ」という結果を招いている。

 711年、イスラム勢力がイベリア半島に侵攻、西ゴート王国を滅ぼし半島の覇権を握った。西ゴート王国の王族およびキリスト教徒ら遺民の一部はピレネー山脈の西端からさらに西へイベリア半島北部、大西洋カンタブリア湾に面して東西に連なるカンタブリア山地にカスティーリア王国のもととなったアストゥリアス王国を建国して以降約800年近くの間イベリア半島再征服を目指すことになる。

 さらに、西ゴート王国の貴族であった遺民はレオン王国を、ピレネーの西端ビスケー湾地域のバスク人はナバラ王国、アラゴン王国を、さらにはピレネーを越えてフランク王国からイスラム勢力に対抗してバルセロナに進出した辺境伯領、アストゥリアス王国から分離し後のポルトガルとなるポルトゥカーレ伯領など、ピレネーやカンタブリアの山岳地を中心にこれらの小王国・部族は集散離合を繰り返しながらイスラム勢力のイベリア半島進出に対抗していく。

 他の西ゴート王国国民は、侵略したイスラム勢力ウマイヤ朝が他民族・他宗教の受け入れに寛容であったこともあってイベリア半島にその多くが残った。

2 イスラム王朝の成立

 ウマイヤ朝は、イスラム教創始のムハンマド後、ムハンマドと父祖が同一のクライシュ家の名門で、661年、現在のシリア・ダマスカスを首都として、初めて世襲王朝・カリフ帝国・アラブ帝国体制を築いた王朝である。
 711年、西ゴート王国は絶頂期のウマイヤ朝に滅ぼされイベリア半島から消えた。しかし、イベリア半島を席捲したウマイヤ朝は、ピレネーを超えフランク王国へと領土拡大、略奪の遠征を行うが、732年、トゥール・ポワティエの戦で敗戦し半島へ退いた。フランク王国は、この勝利によりムスリムを撤退させ以降のムスリム勢力のピレネー以北への侵攻を阻止、抑止することになった。

 トゥール・ポワティエの戦で指揮を執ったのは、フランク王国の宮宰(きゅうしょう:王位に次ぐ権力者で宰相位)カール・マルテルであった。721年、カールはウマイヤ朝の侵攻をピレネーから北100km余りのトゥ―ルーズで撃退し、再びフランク王国に深く侵攻したウマイヤ軍をトゥール・ポワティエの戦で破った。カールは名声を高め、751年、貴族たちに推され、ローマ教皇を味方につけメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開き王位に就いた。カールを世襲した息子シャルルマーニュが後のフランク・ローマ皇帝として戴冠する神聖ローマ皇帝シャルルマーニュ・カール大帝(800-814)である。

 750年、14代の世襲を続けたウマイヤ朝はアッバース朝に滅ぼされた。イベリア半島に残ったウマイヤ朝勢力はゴルドヴァで後ウマイヤ朝(756-1031)を建国して、非ムスリムおよび非アラブ人のムスリムに人頭税・地租を課し、アラブ人ムスリムを免税するアラブ至上主義を布いた。西ゴート王国の制度を廃し、後ウマイヤ朝独自の庁・局といった行政組織を設置、行政用語の統一、駅伝制整備、貨幣の新造、階級制度で異教異民族支配を行うイスラム国家を形成した。

 イスラム教、イスラム帝国はそのヒエラルキーの頂点に居る指導者「カリフ」の後継を巡って争いが繰り返され、さらにイスラム帝国が分離してアラブ以外の民族からカリフが出て統治が行われるようになった。この分裂現象は、661年、イスラム教をムハンマドの血統を重視する「シーア派」と実力を備えた指導者を頂点とする「スンニ派」に分裂させることになり重ねてイスラム帝国の統治を複雑にしていった。

 しかしイスラム帝国の領域は、現在のサウジアラビア、カタール、バーレーン、アラブ首長国連邦、イエメン、オマーン、リビア、エジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスティナ、レバノン、トルコ、アルメニア、ジョージア、アゼルバイジャン、シリア、イラク、クウェート、イラン、アフガニスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン、モロッコ、そしてイベリア半島に及んだ。
 750年、ウマイヤ朝に替わりアッバース朝がイスラム帝国を引き継ぐと、ウマイヤ朝時代の領域に加え、パキスタン、キプロス、ギリシア、イタリア、チュニジア、アルジェリアが増え西ヨーロッパの西端からインド洋までイスラム帝国の領域が及んだ。

3 レコンキスタ

 レコンキスタの始まりは、西ゴート王国の貴族と自称するペラヨが、ウマイヤ朝に抵抗するためアストゥリアス王国を建国、キリスト教徒を率いて蜂起した718年である。続く722年、ペラヨはキリスト教徒の部隊を率いてイベリア半島北西部カンタブリア山地のコバトンガでウマイヤ朝ベルベル人部隊に勝利した。小規模戦闘であったが、コバトンガはレコンキスタの拠点となった。

 同時期、カンタブリア山地東端のカンタブリアにおいて豪族のペドロがイスラム勢力の排除に勝利していた。カンタブリアとアストゥリアスは婚姻で結ばれ両国が連携して反攻勢力を拡大して行った。

 イベリア半島におけるウマイヤ朝の勢力拡大の行き足が鈍ったのは、732年のトゥール・ポワティエの戦で敗戦、撤退してからである。フランク王国のカール・マルテルは、ウマイヤ軍を追う立場に回り南下を進めた。801年には息子カール大帝がピレネーを越えて南へ侵攻、後ウマイヤ王朝からバルセロナを奪取した。

 イベリア半島では、後ウマイヤ朝に替わってからは、イスラム教以外の宗教信仰を容認され、宮殿など新たな建造物の建築や図書の集積など文化的にも著しく発展する時代を築いた。しかし、アッバース朝では11世紀に入りイスラム帝国後継カリフ継承の争いが続き、距離を隔てた後ウマイヤ朝も例外ではなかった。10世紀に入り後ウマイヤ朝では次々にカリフの座を狙う争いが生じ、11世紀初め、ゴルドヴァでクーデターが発生した。

 この後ウマイヤ朝混乱の中、レコンキスタは活発化した。

 ウマイヤ朝のイベリア半島征服・後ウマイヤ朝の継承後、イベリア半島北部に撤退していたアストゥリアス王国がカスティーリア伯領を建国レオン王国へ、次いでアラゴン伯領とナバラ王国が相次いで建国し統合するなど反イスラム勢力が逐次統合・連合されて行った。同時に後ウマイヤ朝に反抗するキリスト教国連合軍が各所で後ウマイヤ朝軍を撃破、後ウマイヤ朝滅亡へと導いていった。

 1031年、後ウマイヤ王朝が滅亡した。

 後ウマイヤ朝滅亡後、イベリア半島に分立所在したセビリア、サラゴサ、トレド、グラナダ、バダホスの「タイファ」と呼ばれるイスラム教「小王朝」が誕生し支配権をめぐって争った。
他方のキリスト教勢力は、ナバラ、レオン、カスティーリア、アラゴン、ソブラルベ、ガリシアなどが集合離散を繰り返し、タイファと協力する事態まで発生した。
 このイスラム教・キリスト教入り乱れての混乱に乗じたのが、1056年、北アフリカに建国されたイスラム教ムラービト朝であった。タイファ小王朝の要請を受けたムラービト朝はイベリア半島に上陸しタイファ小王朝群を併合する。

 ムラービト朝を中心としたイスラム連合軍はキリスト教カスティーリア連合軍を撃破した。

 しかしアラブ系タイファ小王朝群はベルベル系ムラービト朝に支配されることを恐れカスティーリアとの和睦を模索した。ムラービト朝はこれに激怒、1091年、イベリア半島に3度目の上陸侵攻を行い、1110年、イベリア半島南部の制圧、支配に至った。

 キリスト教諸王国もタイファの混乱とムラービト朝の介入で混乱した。加えて十字軍の遠征期(1096-1303)に当たるこの時代、アラゴンの台頭にフランス、ドイツの十字軍が加勢したとされる。アラゴンはカタルーニャと連合しムラービト朝軍を破りポルトガルを建国した。

 カスティーリアはイスラム勢力の内紛に乗じてイベリア半島のイスラム勢力排除の行動を起こした。キリスト教勢力の反抗によって勢力が衰えたムラービト朝は、1121年、新たに北アフリカに台頭したムワヒッド朝に取って代わられる。
 このため、イベリア半島南部のイスラム勢力はムワヒッド朝傘下のムスリム勢力となった。キリスト教勢力のイスラム勢力との対峙は、統合・連合型ではなく、個別型の構図を作ったため。イスラム教の、あるいはキリスト教のイベリア半島統一を一挙に解決することを困難にした。

 1184年、ムワヒッド朝の新カリフは、対キリスト教対決の積極策に転じた。同様にキリスト教側も教皇が対イスラム教対決強化を督励、第4回十字軍約5万はエルサレムではなく、レコンキスタへと踵を返すよう仕向けられた。これに対抗したムワヒッド朝軍約12.5万は、1212年、スペイン南部アンダルシアのナバス・デ・トロサで激突、キリスト教軍が圧勝した。キリスト教軍の犠牲2000人程度に対して9万とも10万とも言われる犠牲者を出したムワヒッド朝の軍事力は大きく後退した。

 しかし、キリスト教軍はこの勝利を活かせず、1251年にグラナダを残しジブラルタル海峡までの制圧に40年も要した。

 イスラム教勢力はグラナダのナスル朝を除きすべてがイベリア半島から去った。ナスル朝は巧みにキリスト教勢力と結託するなどしてグラナダでの生存を図ったが、1492年、レコンキスタを逃れてグラナダに流入したムスリム、ユダヤ教徒など雑多な民族が集合した複雑な体制が内乱を誘発した。この混乱に乗じたカスティーリヤがアルハンブラを陥落させた。ナスル朝の滅亡である。しかし今日遺されたアルハンブラ宮殿はこの時期に出来上がったものであり、その壮麗さは他に例を見ない。

 イベリア半島のイスラム勢力が排除されても、イベリア半島におけるキリスト教諸王国は決して一枚岩ではなく対立、分裂して覇を争っていた。イスラム教ナスル朝が1251年から1492年までの間持続したのは、その間、キリスト教諸王国のまとまりのつかない混乱、衝突、争いが絶えなかったことに原因があるとされている。

 レコンキスタは、こうして終焉した。

 結言として

 イベリア半島におけるレコンキスタの追跡では、民族の多様性と部族のテリトリーの動態が引き起こす大陸型戦争の「絶対環境的必然」を見ることが出来た。

 キリスト教・イスラム教の対立構図は旗幟鮮明である。しかし、キリスト教、イスラム教それぞれ内部のまとまりも無くヒエラルキーにおける権力闘争が盛んで、それがそれぞれを国の宗教としている国家の体制にも悪影響を与えている。宗教の倫理観や教義とは別に、激しい派閥の対立と闘争が宗教自体に分裂を起こし教派の派閥が血で血を洗う戦いを繰り返していた。

 さらには多岐多様な民族同士の対立、対決、生存競争があり、国家を形成して生存圏を確保する上で一時に数万の犠牲を出すことも厭わないし、時には指導者の暗殺が行われる。

 それは今日的にも、大陸においては「政治の継続」や “Manifest Destiney” に正当性を着せて戦争という集団殺戮・大量破壊を平然と行う現象が顕著である。

 所与の国家日本の「島国気質」から考えるに、戦争が解決手段であるとするのが「大陸気質」であって、大陸の戦争を容易に理解できない日本人には「戦争にはしる大陸気質」も理解困難であるとしか言いようがない。
 今日、その大陸気質や大陸の戦争との距離を縮めている日本の政治(シビリアンコントロール)が起こしつつある「参戦することが『抑止力』になる」という錯覚・誤解を改め得る戦争学の一つとして「レコンキスタ」への関心を示していただければ幸いである。