第10章 戦争の世紀 第4節 世界大戦―伝統的地政学の集大成として昇華(その1)
第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第1節 RMA “Revolution in Military Affairs”
第2節 戦争論―戦争の正当性革命
第3節 地政学理論の萌芽―地図が起こした革命
第4節 世界大戦―伝統的地政学の集大成として昇華
第5節 日本の戦争―所与の国家=島嶼国家としてのアイデンティティー欠落の愚挙
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界
はじめに
アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日、ミュンヘンを州都とするドイツ・バイエルン州の南に接しているオーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州ブラウナウ・アム・インで大蔵省税関上級事務官の経歴を持ち権威主義的傾向が強く、性に奔放で正妻のほかにも子供をもうけていた父アロイス・ヒトラーとアロイス家の住み込み家政婦であった母クララ・ヒトラーの8人兄弟姉妹の4男として生まれた。このような事情からであろうか、ヒトラーは一族については語ろうとせず、「民族への帰属」を語ることしかしなかった。
ブラウナウ・アム・インは9世紀には存在していた古い町でドイツ国境と接しており、南へ60km行くとモーツアルト生誕地のザルツブルグである。ヒトラーは、当時のローマ・カトリック信者の家に生まれた子供の当然である「カトリック信者」としての洗礼を受けている。
一家はヒトラー3歳の時、オーストリア、チェコと国境を接するドイツ帝国バイエルン王国パッサウ市に転居した。
地理的整理を行っておく。ミュンヘンとウィーンを東西に結んで西寄り三分の一の位置にヒトラー生誕地ブラウナウ・アム・インが所在する。その北がパッサウ、南がザルツブルグである。
ヒトラーは、6歳の時、父アロイスが定年後に養蜂兼農業を営むためオーストリア・リンツ西方、パッサウ南方の片田舎ランバッハに転居、その郊外の国民学校に8歳になるまで通った。当時の記録ではヒトラーが校則に従わない問題児であった記録が残る。この時期14歳の異母兄が家を飛び出したためヒトラーが後継ぎとなった。アロイスの事業は失敗、ヒトラーはベネディクト修道会系小学校に転校、聖歌隊に所属するなどしており、信仰よりもカトリックの教義・司式・聖堂建築・彫刻への関心や憧(あこが)れが強まって聖職者になる選択も生じていたと回顧している。
ヒトラー9歳、一家はリンツ郊外レオンディングに移転、其処が定住地となった。後にナチ党第3代宣伝全国指導者となったパウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(1897-1945)は「粗末な小さい家であった」と回想している。
ヒトラーは小学校の義務教育終了後、大学進学希望に沿って中等学校を選ぼうとしていた。しかし、父アロイスは自分の歩んだ道をヒトラーに強制した。税務事務官の専門学校(実科中等学校)へ入学するも、父アロイスの注文が増えて行った時期と反抗期とが重なり、かえって通学をサボタージュするなどの抵抗が強まって行った。
1 ヒトラーの思想的萌芽
ヒトラーの父アロイスはハプスブルグ君主国家を支持、ハプスブルグ家崩壊を意味するドイツとオーストリアを一体化させる思想「大ドイツ主義」を嫌悪していた。ヒトラーは、父親への反発が嵩(こう)じて「ドイツ民族主義・大ドイツ主義」に傾倒していた。オーストリア社会一般には、ハプスブルグ体制に対する崇敬や誇り、カトリック信仰、といった世俗性が強くアロイスも同様の価値観に支配されていたのであろう。
ヒトラーには、父親や学校教師の世俗的要求、即ち一見自由でありながら封建的縛りのある指導に反発する思想が芽生えて行った。また、それが反抗期、思春期少年の一般的性向であることからも、相対するオーストリア・ドイツ統一の「大ドイツ主義」へと向かったことも自然の流れであった。
ヒトラーはハプスブルグ家が「王位継承」の作為から唾棄すべき「雑種集団」となっていると嫌悪し、ドイツへの帰属と純血集団への回帰の意識を強め、同年の仲間に対して「大ドイツ主義」主張と感化を試みている。それはヒトラーが古代ローマ帝国の敬礼で、後のイタリア総統ベニート・ムッソリーニが復活させた「ナチスが採用した敬礼」である「ハイル」を挨拶として流行(はや)らせたり、大ドイツ主義グループを作り「ハプスブルグ君主国々歌」ではなく「世界に冠たるドイツ帝国々歌」を歌うよう働きかけている活動にも顕れた。
しかし『我が闘争』に語られたヒトラーの回想は一種「ヘロドトスの悪意」という文脈同様、自らの美化であって、実際には、専門学校では試験不合格が重なり、留年・退校・復学の末も成績悪化、試験不合格が繰り返され就学を全うしていない。この状態はヒトラーをして素行不良にはしらせ、酒酔いの末学生証を破り捨てる、無断欠席、挙句の病気療養などの事件も併行して結局は「思想の萌芽」が見られたものの無為の青春時代を送っている。
2 転機
(1) 第一次世界大戦(1914-1918)
16歳のヒトラーは就学に挫折し帰郷した。しかし母親に寄生する少年の身分から脱し得ず、この期間は同世代のアウグスト・クビツェクという友人を得て散策やリンツへ出かけ歌劇に凝るなど嵩じて自ら作曲を試みたりしている。
リンツはヒトラーにとって第二の故郷であり、クビツェクの回想では、ヒトラーは金銭的に困窮しておらず帽子・皮手袋・象牙が施された杖といった身なりで清潔・裕福な上流趣味であったという。職に就かず見てくれだけを追うヒトラーはこの時期「画家」を志していたが専門学校の試験は失敗続きだった。音楽に関心を示し、母クララからピアノを買い与えられ家庭教師をつけてもらったが中途で放棄している。
18歳になり遺産と年金の分配を受給したヒトラーはウィーンへ出て美術アカデミーを受験するが不合格であった。残された記録には「アドルフ・ヒトラー、実科学校中退、ブラウナウ出身、ドイツ系住民、役人の息子、頭部デッサンなど未提出、合格条件を満足しておらず成績は不十分」とされている。不合格について学長に直接の面談を求めた際、「建築家希望への転換」を促されている。ヒトラーはこの助言にも専門家たる能力が基準を満たさず断念している。
『我が闘争』においては反省が先だった記述を行っている。
「・・・画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難であることに気が付いた。私が腹いせで退学した実科学校は卒業すべき所だった。建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ・・・」
19歳、ヒトラーは音楽学校に合格したクビツェクとウィーンで共同生活を始める。『我が闘争』ではウィーンで困窮の生活を送った記述が残るが、母の死後残された財産、恩給で不自由は無かった筈だ。
美術アカデミーの試験に失敗するとヒトラーは姿を消してしまう。入試失敗からの逃避と徴兵忌避であった。度重ねての住居変更が次いだが、住居不定独身未就労者用の公営宿舎に入居して絵ハガキを書いて売るなど小遣いを稼いでいた。自由な時間は図書館から書籍を借り「人種理論」、「反ユダヤ主義」、「汎ゲルマン主義」に偏った知識の蓄積を行っていた。この結果が民族主義などヒトラーの思想形成に影響している。
24歳にミュンヘンへ移動後、兵役忌避と国外逃亡の罪でリンツ警察から指名手配されミュンヘン警察に逮捕された。オーストリア領事館に連行され弁明書を「作成」、各種検査を受けた結果「兵役不適格」を得て兵役免除、同時に忌避罪からも逃れた。
ところが、1914年の第一次世界大戦勃発時、バイエルン陸軍に志願して義勇兵として採用され、激戦の西部戦線に参戦、フランス兵拘束、伝令勤務の功績で6回の叙勲を得ている。しかし功績に反して部下統率に資質が認められず伍長以上に昇進していない。1916年、ソンムの激戦でヒトラーは戦傷し入院、そのため戦傷章を受けている。さらに化学兵器の使用に遭遇、一時的に視力を喪失するなどガス兵器によってPTSD(精神的トラウマ)に陥った体験もしている。こうしてヒトラーは第一次世界大戦参戦によって勇敢な愛国心に満ちた兵士であったと評価を受けることになった。
第一次世界大戦参戦はヒトラーを大ドイツ主義者としていった。しかしドイツの敗戦はヒトラーを激しく動揺させた。反面、参戦でヒトラーは「自分こそがドイツを救うために居る」と使命感を強固にしたと語っている。
(2) 政治活動
ヒトラーは、軍に在籍したまま政治家への転身を考える。ヒトラーは、陸軍病院退院後、所属部隊の根拠地ミュンヘンへと戻り、終戦直後のミュンヘン革命「バイエルン共和国」建国を主導し首相となったクルト・アイスナー(1867-1919)が設置した「兵士と労働者による評議会『レーテ』」に参加した。評議員立候補時の得票は19票、当選であった。ヒトラーの政治活動参加の第一歩であった。
1919年、アイスナーは暗殺され、ミュンヘンでは共産党主導の「バイエルン・レーテ共和国」が成立するがヴァイマル共和国軍がミュンヘンを占領統治、ヒトラーは、共産主義者であるか否かの調査委員に任命され功績を挙げ、次には兵士の政治教育を担当する啓発教育部隊に配属されさらに専門の知見を学習するためミュンヘン大学で事前教育を受けることになった。
ここでは潜入捜査の技能だけではなく、ヒトラーは、この機会に初めて敗戦後の士気阻喪を回復させる専門的な「民族主義」教育の教養を身につけた。この機会に同様の課程教育受講の兵士に対して「反ユダヤ主義」を演説して兵士たちを感激させ、「ヒトラー自身の演説」に自信を植え付けることになった。
この課程教育を経てヒトラーは公的に軍属情報員の一員となった。ドイツ労働者党の調査に際してオーストリア・バイエルンの連合を謳う大学教授との論戦でヒトラーは聴講者を熱狂させ、ドイツ労働者党創設者アントン・ドレクスラー(1884-1942)が回想で激賞するところとなった。これがきっかけとなりドレクスラーの推挙で「弁士」を依頼されたばかりか、ドイツ労働者党の入党を許可され55人目の党員となった。ヒトラーは、この直後から「演説」だけではなく、兵士の質問に答える形の「反ユダヤ主義」思想の執筆も担当することにもなった。
これをきっかけにヒトラーは、有力メンバー(エルンスト・レーム、ルドルフ・ヘス、ディートリヒ・エッカートなど)に担がれヒトラー派を形成、党内で分派闘争が起きると、一時的にドレクスラーによって党内から追放されるが、党執行部のクーデターによりドレクスラーは名誉議長として退けられヒトラーが第一議長として実権を握ることになる。支持者はヒトラーを「フューラー(” Führer” 指導者,後の『総統』)」と呼ぶようになり、指導者絶対の「指導者原理」を生む原点が生まれた。「ハイル(” Heil“ 万歳)」の敬礼が用いられ定着のきっかけが作られたのもこの頃である。
(3)ミュンヘン一揆
当時のドイツ国民の多くは、ドイツの栄光は第一次世界大戦の敗戦とベルリン中央政府の弱腰外交の「裏切り」によって失われていると感じていた。別けてもバイエルン州はベルリンとの対立意識が強く、ベルリン中央政府主導のベルサイユ条約受諾によってドイツが窮地に追い込まれたと批判的に捉えていた。バイエルン・ミュンヘンがベルリン中央政府を倒そうと革命を企てる背景となったのは次の事情である。
・ベルサイユ条約・ベルサイユ体制
第一次世界大戦の戦後処理はドイツにとって格別に苛酷であった。第二次世界大戦までの戦争は勝利国が敗戦国から戦争被害の賠償を受けることが当然であり、敗戦国は自国の復興をも加えると莫大な戦後負担を負うことになった。ヨーロッパにおける戦争では戦場が多国間に及ぶため、敗戦国が負わなければならない賠償責任は国家を破綻に追い込むものであり、ドイツではその賠償を負担しきれず「ヒトラーの戦争」に進んだという一面がある。
ここに賠償の一端を紹介する。
○連合国に引き渡す船舶は、ドイツ船籍1隻の総トン数1,600トン以上の全商船、1千トン以上の船舶の50%、トロール船や漁船の25%
○連合国に引き渡す家畜は、
対仏:3~7歳までの種牡馬5百頭、18カ月~7歳までの子牝・牡馬3万頭、18カ月~3歳までの牡牛2千頭、2~3歳までの乳牛9万頭、牡の緬羊1千頭、緬羊10万頭、山羊1万頭
対ベルギー/イタリア/ルクセンブルグにも賠償が生じている。
○連合国に引き渡す石炭は、
対仏:毎年7百万トンを10年間+戦災で破壊された仏国内炭鉱が戦前産出していた額から現在の算出額を差し引いた量の石炭を保障(最大2千万トン5年間、残りの8百万トン5年間、さらに3年間、以下の石炭関連製品を最低価格で売却(ベンゼン3万5千トン/硫酸アンモニウム3万トン/コールタール5万トン但しフランスは代替えに軽油・重油・無煙炭・ナフタリン・ピッチの要求が可
対ベルギー:毎年8百万トンを10年間
対イタリア:450万トンから徐々に引き上げ最終年は毎年850万トン合計7千7百万トン
○賠償金総額:1,320億金マルク(約66億ドル・純金47,256トン相当)
1913年のドイツ国民所得の2.5倍
・第一次世界大戦後のドイツの危機
ドイツ、別けてもバイエルンは次の危機への対応に神経質になっていた。
*1919年、ヴァイマル憲法下の直接選挙制の大統領・議会による国家運営
*1924年、フランス・ベルギーが賠償金支払い遅滞を理由にドイツの中枢工業地帯ルール
地方占領
*1929-1930年代半ば世界恐慌は賠償支払いに困窮するドイツの経済・財政事情を最悪化
・逮捕/収監拘留―ハウスホーファーとの邂逅―
ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)はバイエルン州で党員3万名を擁し、州政府多数派から警戒されていた。特に紙幣増刷がハイパーインフレーションを招き、通貨の価値が1914年の価値に比べて1億分の一に下落、世界恐慌がドイツ経済を一層悪化させ、バイエルンではベルリン中央政府に対するクーデターが公然と呼びかけられていた。1923年のフランス・ベルギーによるルール地方占領は、第一次世界大戦からの復興もままならないドイツに極右・極左の勃興を容認する時代精神が生まれるきっかけとなった。
バイエルンの過激派グループはベルリンに向けて革命の行進を行い、ベルリン政府を倒しバイエルンが実権を握ろうとする機運を高めた。ベルリンのコントロールは全く効かず、計画が実行に移されるのは時間の問題となっていた。革命に参加するグループの意見は一本化しなかった。ヒトラーは「ベルリン進軍と独裁政権の樹立」を主張した。しかし、「現状を維持しつつ問題を解決」、「バイエルン州独立」のいずれかを主張するグループはヒトラーらのグループと違い決断が振れていた。
一揆はナチの突撃隊員から動いた。ヒトラーはバイエルン政府の首脳に「革命が始まったこと、止められないこと、勢いが重視されること、協力が必至であること」を告げた。彼らには、生命の保証と革命後の重要ポスト就任を約した。ヒトラーの雄弁が説得を可能にしたかに見えたが、状況は主客を逆転させ、バイエルン国防軍がバイエルン首脳側につき、軍と警察は反乱鎮圧に転じ、州警察本部を制圧しようとした革命部隊が拘束された。革命に同調していたバイエルン政府首脳、バイエルン国防軍、バイエルン警察の裏切り、寝返りに、丸腰のデモ行進に切り替えたヒトラー側は鎮圧部隊に銃撃され死者が出るなど革命(ミュンヘン一揆)が失敗に帰した。
絶望したヒトラーはピストル自殺を図ろうとした。ヒトラーの負傷を手当てしていた仲間の夫人から「仲間を見捨てるのか」の叱責を受け思い止(とど)まった。
ミュンヘン一揆は失敗した。しかし大衆は「裏切り・寝返り」に批判的で、ヒトラーら一揆の指導者、参加者の名誉回復へと時代精神が動き始めていた。一揆の中心にいた第一次世界大戦時の英雄、ドイツ陸軍の総司令官であったエーリッヒ・ルーテンドルフ(1865-1937)は将軍らしい態度や命令的な口調で裁判長から無罪を得、ヒトラーが一揆の中心人物とされたが、これがかえってヒトラーの名声を挙げることになり人気が急上昇した。判決は、ルーデンドルフが無罪、ヒトラーら4人が実刑判決を受けた。
判決後のヒトラーは日記に「卑しむべき偏狭と個人的怨恨の裁判は終わった。そして今日から我が闘争(Mein Kampf)が始まる。」と書いた。
ヒトラーは、5年の禁固刑でミュンヘン郊外ランツベルグ要塞刑務所に収監(半年後、保護観察処分で仮出獄)された。しかし、独房の日当たりも良く、清潔、食事も上質、差し入れ面会の自由があり、後にナチ党副総裁・総統代理となったルドルフ・ヘス(1894-1987)、ヒトラーの運転手・親衛隊上級大佐エミール・モーリス(1897-1972)が収監中のヒトラーの面倒を見、ヒトラーの『我が闘争』の口述筆記を行った。ヒトラーにとって獄中生活は、大量の読書、思索の機会となり後のヒトラーの行動にとって「力」のチャージとなった。
特筆すべきは、ヘスがミュンヘン大学就学時師事を仰ぎ、またミュンヘン一揆で逃亡中に匿(かくま)ってくれたミュンヘン大学の地理学者カール・ハウスホーファー教授をヒトラーに紹介したことである。ヒトラーが地政学について関心を持ったのは、ハウスホーファーとの邂逅からである。
ヒトラーは側近に「ランツベルクは国費による我が大学であった」と話している。
一揆と裁判はナチ党の人気を煽る結果を招いた。1925年、ヒトラー保釈後、再結党が許可された。ミュンヘンのビアホール、ビュルガーブロイケラーで行われた集会には約4,000人の大衆が集まり、影響力を脅威としたバイエルン州政府は2年間にわたりヒトラーの講演を禁止した。
第一次世界大戦まで、ウィーンやミュンヘンの大衆に紛れ世を拗(す)ねていた一青年は、少年時代の反抗期の目覚めを経て第一次世界大戦で兵士として参戦し、大戦後にナチ党の党首にまで成り上がり、ミュンヘン一揆を首謀、失敗するも合法的選挙でナチ党を第一党にのし上げ、首相から総統へと駆け上り「ドイツの第一次世界大戦」敗戦の屈辱から「東方政策」を掲げ世界のドイツへと復帰を目指した。
ヒトラーが単なる気狂いであったならば世界中を戦争の坩堝に引きずり込む大事は成し得なかったはずだ。本項では「平凡な落ちこぼれの青年」ヒトラーが「大戦争」を引き起こす「転機」が何であったかを追究してみた。ハウスホーファーとの邂逅以前にヒトラーの感性には「地政学」が生まれていたのではないか。大事をとてつもない大事に仕立て上げて行くプロセスの入り口に立ってヒトラーを次回以降さらに見つめてみたい。